
株式会社KIWAMI 代表取締役
阿波 耕平氏
出身地:北海道札幌市
生年月日:1986年5月29日まれ。
企業ホームページ:https://kiwami2016.com/

1982年東京都生まれ。成蹊大学卒業後、各種広告関係営業、外食企業のプロモーション・広報を経て、2014年1月、31歳で外食メディア「フードスタジアム」フードスタジアム株式会社 代表取締役就任。飲食店若手経営者の会「外食5G(現JFRX)」初代サポーター企業リーダー。2020年3月、株式会社ミライーツを設立。飲食業界における幅広い人脈、情報を持ち、飲食企業のサポートに従事する一方、本連載「クロスロード」では独自に記事の取材・執筆・文責を手掛ける。
⚡ 【忙しい経営者向け】30秒で掴む「阿波耕平」の歩みと経営哲学を表示する
今回の見どころ:名門中華の挫折から「ぐるなび」伝説の営業マンへ。8坪月商1200万を叩き出し「30店舗30億」へ挑む男のサバイバル論
- 料理人の挫折と地獄の営業修業: 新宿『南園』で料理長の手取りを見て4年で退職。「転職バー」の縁からぐるなびへ飛び込み、過酷な営業で「売れる店・売れない店」の経営眼を徹底体得。
- 武蔵小杉で無敗の独立劇: 27歳で開業した12席の店は赤字ゼロ。過酷な労働環境に悩み「理念」で蘇るも、コロナ禍での共同経営解消、8坪・最高月商1200万『きわみ』の爆誕へ。
- 目指すは5年で30店舗30億: 右腕の700万持ち逃げをバネに組織・監査を徹底改革!売上目標を追わず「こんな人と働きたくない」を社員全員で決める超実践的マインド主義。
※ぐるなび時代の裏話や、右腕の横領事件をどう乗り越えたかの赤裸々な全貌は本文で公開中!
ロード1

実は負け癖があった?目立ちたがり屋の少年時代
――さっそくですが、阿波さんはどんな子どもだったんですか?
阿波さん:生まれは札幌で、昭和61年(1986年)です。子どもの頃はとにかく活発で、落ち着きがなかったみたい(笑)。小学校の高学年くらいからは、学級委員とか生徒会長とか、応援団長、発表会の主役とか、そういう目立つやつは全部やってましたね。クラスの中心にいたいタイプでした。
――まさに人気者って感じですね!
阿波さん:でも、実は自分の中では結構『負けっぱなしの人生』だったんですよ。小学生からサッカーをやってたんですけど、最初はレギュラーでも、6年生の最後には外されちゃう。中学で始めたバドミントンも、3年生で団体メンバーから外れる。高校でまたサッカーをやっても、2年生からはユニフォームをもらえなくなって。

――え、そうなんですか!?意外です。
阿波さん:なんでも器用にできちゃうから、練習しないんですよね。だからちゃんと落ちていく(笑)。そこで「ああ、やらないと落ちていくんだな」ってことをめちゃくちゃ学びました。当時、テレビで『情熱大陸』とか『プロフェッショナル』を見るのが好きだったんですけど、出てくる人ってみんな子どもの頃からすごいじゃないですか。サッカーで全国大会行ってます、とか。俺、こんな負け癖のある幼少期で、絶対出れないじゃんって。だから、仕事ぐらいは頑張りたいな、仕事では勝ちたいなって思ったんです。
日本一の中華レストランで見た、超えられない壁
――それで、料理の道に進んだわけですね。
阿波さん:物心ついた時から料理人になりたかったんですよ。親父の友達にホテルの料理人がいてカッコよかったし、とにかく料理番組を見るのが大好きで。高校も料理の専門学校に行きたかったんですけど、親に「一応、普通科は出てほしい」って言われて(笑)。それで高校を卒業して、札幌の調理専門学校に入りました。
――専門学校時代は、かなり本気モードだったとか。
阿波さん:そうですね。「仕事でベンチはありえない。専門学校から本気出す!」って決めてましたから。周りがまだ遊んでるのが子どもに見えちゃって。「2年しかないんだよ!?」って思ってましたね。だから休み時間は誰とも話さず、孤高を気取ってました(笑)。友達いなくなっちゃいましたけどね(笑)。
――そして卒業後はすぐに東京へ?
阿波さん:はい。20歳の時に、新宿の京王プラザホテルの中華『南園』で働くことになりました。ここは周富徳さんもいた名店で、日本で一番大きな中華レストランって言われてるところです。
――すごい!修業は厳しかったでしょう?
阿波さん:いや、それがめちゃくちゃ楽だったんですよ(笑)。ゆとり時代に入ってましたから、ね。同級生は16時間労働とかザラなのに、うちはきっちり8時間。ホワイト企業だったんです。でも、だからこそめちゃくちゃ危機感があって。俺の2年は他のやつの1年分じゃん、と。だから仕事が終わってから自主的に練習したり、けっこうカツカツの生活だったんですけど、薬膳インストラクターの資格を取ったりして、とにかく勉強しました。
――そこでナンバーワンを目指していたんですね。
阿波さん:そうなんです。でも、4年で辞めました。理由は2つあって、1つは、僕の2つ上と3つ上に本当にすごい先輩がいたこと。僕が全速力で走っても、その人たちも全速力で走ってるから、絶対に追いつけない。この人たちがいる限り、俺は料理長にはなれないって悟っちゃったんです。
――なるほど…。もう1つの理由は?
阿波さん:当時の話ですよ。ある日、料理長の給与明細をたまたま見ちゃったんですよ。18歳からこの道一筋で働いてきた59歳の料理長の手取りが、37万円だったんです。うわ、マジか…って。これだけ頑張って、これか…と。それを見た次の日には「辞めます」って言ってましたね。
ロード2

コックを辞めたはずが…転職バーでまさかの展開!?
――料理人を辞めて、次はどうしようと?
阿波さん:親父が営業をやっていたこともあって、次は営業をやってみようと。料理の腕だけじゃ店は経営できないってことも、先輩たちが独立して失敗するのを見てわかってましたからね。それで、テレビで見た『転職バー』っていう面白い店に相談しに行ったんですよ。
――転職の相談ができるバーですか?
阿波さん:そうです。池袋にあって、人事担当者とかが集まる店なんですけど。で、そこの店長に「コックを辞めたいんです」って相談しに行ったら、「ちょうど今うちコックがいないから、やってくれない?」って言われて(笑)。今でもあるんですけどね、『とこなつ家』ってお店です。
――ええっ!?コックを辞めに行ったのに、コックに(笑)!?
阿波さん:そうなんですよ。それで、結局その転職バーでコックとしてアルバイトすることになりました。そこでの出会いがまたすごくて。ぐるなびの人事の人と知り合って、色々あって、最終的にぐるなびに入社することになったんです。
今の僕の8割は『ぐるなび』が作った。地獄の2年間と、独立への道
――ぐるなびの営業って、やっぱり大変でしたか?
阿波さん:もう、本当にキツかったですね(笑)。横浜エリアだったんですが、飛び込み営業もテレアポも初めてで。これも当時の話ですよ(笑)?「受注するまで帰って来なくていいよ」とか、本当に言うんだ!?みたいな。自分の名前じゃない印鑑を10個くらい持ち歩いてましたしね…。まあ、時効ですけど(笑)。でも、このキツかった2年間が、今の僕の8割を作ってくれたと思ってます。
――ってことは、まさかasovibaの藤田さんと時期かぶってます!?
【過去のクロスロード vol. 17登場した藤田さんの記事はこちら】
阿波さんまさに!横浜営業所の隣の席が藤田さんでしたよ。今でもたまに会ったりしますよ!仲良いです(笑)。

取材後、阿波さんに武蔵小杉のお店を案内してもらい、最後のお店で藤田さん登場。確かに今も戦友たちは仲良しでした(笑)!
――そのぐるなび時代にもまた、大きな学びがあったんですね。
阿波さん:めちゃくちゃありました。繁盛する店としない店の違いが、外から見てわかるようになったのが一番大きいですね。料理人だった頃はわからなかった視点です。
――それでぐるなびは2年で辞められたんですよね?
阿波さん:はい。2年目に年間目標を達成して、昇格も決まったんですけど、燃え尽き症候群みたいになっちゃって。1週間くらい無断欠勤して、そのまま3月末で辞めさせてもらうことにしました。
――なるほど、燃え尽きちゃったわけですね。そこから独立に?
阿波さん:いえ、まずは現場感を取り戻そうと思って。辞める時に挨拶回りしたお客さんの中に「うちに来ないか?」って誘ってくれた居酒屋さんがあったので、そこで半年ほど働かせてもらいました。キッチンを全部任せてもらって。
ロード3

仲間との共同経営、そしてコロナ禍の決断
――そして、いよいよ独立ですね!
阿波さん:はい。27歳の時に武蔵小杉に12席の小さなお店を出しました。ぐるなび時代に担当していたエリアで、絶対に失敗しない場所だって確信があったんです。おかげさまで、その店は一度も赤字を出したことがありません。

――そこから店舗を拡大していくわけですね。
阿波さん:独立して2年後に、ぐるなび時代のお客さんだった足立さんと一緒に会社を立ち上げました。僕が代表取締役で、彼が取締役。そこから店舗も増えていきました。ただ、当時はもう長時間労働が当たり前で…。スタッフも自分も本当に辛かった。「牢屋みたいなものを作るために独立したんじゃない!」って、その頃は本気で会社を辞めたいと思ってました。
――そんなに辛い時期が…。どうやって乗り越えたんですか?
阿波さん:ある方に相談したら、「お前、企業理念とかないだろ。だからダメなんだ」って言われて。そこから1年かけて、会社の理念を作ったんです。それができてから、すごく気が楽になって、会社も良い方向に進み始めました。それが今でもお世話になっている株式会社ナチュラの河合さんです。
――そうだったのですね!そんな絶好調のタイミングで、コロナが来たんですね。
阿波さん:そうなんです。それで、共同経営者だった足立さんと別れる決断をしました。コロナで先が見えない中、どちらかの給料が払えなくなるかもしれない、と。僕が「足立さんがやるなら僕は抜けます。僕がやるなら、残ってくれたスタッフの給料は絶対に下げずに守ります」と伝えたら、彼が「じゃあ俺が辞めるよ」と言ってくれて。もちろん円満にです。
目指すは30店舗30億!でも一番大事なのは…
――そこからV字回復していくわけですね。
阿波さん:はい。コロナ禍の真っ只中に新しい店をオープンさせたんですが、これが大当たりして。そこから一気に人生が好転しましたね。武蔵小杉の『炭火串焼と旬野菜 きわみ』というお店です。コロナ禍真っ只中のオープンだったので協力金の申請ができなかったのでぶっ通しで営業していてもうたっくさんの人が来てくださって。とんでもないことになってました(笑)。このお店が8坪で最高月商が1200万円まで成長しています。

――それはすごい!でも、(グラフも下がっていますが)最近、また大変なことがあったと聞きましたが…。
阿波さん:ああ(笑)。3ヶ月くらい前に、ナンバーツーの右腕に700万円くらいやられちゃいまして。で、その2日後には、息子に財布から5000円盗まれたんですよ。「お前もか!」って(笑)。でも、この一件のおかげで、自分が現場に出てるからダメなんだって気づけた。今は現場を離れて、会社の仕組みづくりとか監査に集中するようにしています。ありがたい出来事でしたね。
――これからのビジョンについて教えてください。
阿波さん:5年後までに30店舗30億を目指しています。出店エリアは、うちが契約しているもつ卸の工場が横浜にあるので、そこから新鮮なもつを届けられる範囲。北は新橋あたり(山手線エリアの下半分)まで、南は横浜までのエリアで考えてます。
――すごい目標ですね!会社として一番大切にしていることは何ですか?
阿波さん:うちは売上目標とか原価率の目標って、一切ないんですよ。それよりも『マインド』を大事にしていて。毎年、社員とアルバイトみんなで「こんな人と働きたくない」っていうのを古今東西ゲームで出し合うんです。
――それは面白い!
阿波さん:そこで9割以上の人が「嫌だ」って言ったものを、その年の行動指針にするんです。「ありがとうが言えない人」とか「ゴミを拾わない人」とか。社長が決めたルールじゃなくて、みんなで決めたことだから、みんな守ろうとしますよね。結局、そういうマインドがしっかりしていれば、数字は後からついてくると思ってるんです。
――最後に、プライベートな目標はありますか?
阿波さん:もう少し落ち着いたら、これまで家事や育児を任せっきりだった妻を、好きな海外旅行に連れて行ってあげたいですね。それが一番の目標かな。
――素敵すぎます(笑)!ありがとうございました!
編集後記
阿波さんと初めてお会いしたのは、銀座のおしゃれな立ち飲み屋でした。腰が低く、とにかくテンションが高い方だなというのが第一印象。まさかその時ノンアルだったとは思いもしませんでした(笑)。というのも、阿波さんは基本的にお酒が一滴も飲めません。
とにかく勢いのある方だと感じたこと、そしていただいた名刺を見て、私自身も大繁盛している川崎店に伺ったことがあったので、一気にテンションが上がり、その場ですぐにインタビューをお願いしたというのが今回の取材のきっかけでした。ただ、お話を伺ってみるまで、ここまで紆余曲折、波瀾万丈な“飲食人ライフ”を歩んできた方だとは、まったく想像していませんでした。
そんな阿波さんの根底にあるのは、「自分のため」でも「商売のため」でもなく、何よりも「誰かのため」という想いなのだと思います。それこそが阿波さんの強みであり、さまざまな経験を重ねてもブレることのない一本の強い軸なのだと、お話を聞きながら感じました。「これからも、いいご縁があれば出店していきたい」と語ってくれた阿波さん。その“誰かのため”という想いが、これからどんな店や人との縁につながっていくのか。今後のさらなる活躍を楽しみに、応援していきたいと思います。(聞き手:大山 正)
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