スペシャル企画

【大山 正Presents】クロスロード〜外食経営者のルーツと転機〜 vol.25/有限会社ワンマインド 取締役副社長 林 海地氏

この企画「クロスロード」は聞き手の大山 正が、外食経営者が歩んできた人生の転機やルーツを、ライフチャートとともにひも解くインタビューシリーズです。経営者自らが描くライフチャートを起点に、これまでの軌跡を深掘りし、現在の意思決定や価値観の源泉に迫っていきます。今回は第25回目となります。

長野の飲食シーンを語る上で、今、絶対に外せない人物、それが有限会社ワンマインドの取締役副社長、林 海地さんです。月商450万円だった一店舗を1500万円まで叩き上げた実績。コロナ禍という未曾有の危機を乗り越え、会社をさらなる成長軌道に乗せた手腕。そして、若手飲食店経営を中心に組織されたJFRXのCSV AWARDでは2年連続でチャンピオンに輝くなど、その勢いはとどまるところを知りません。
(取材・執筆・文責:大山 正)

今回は、そんな林さんのルーツを深掘りすべく、長野の地を訪れました。彼の口から語られたのは、コンプレックスをバネに、地方というフィールドで自分だけの輝き方を見つけ出した、一人の男の泥臭くもアツい物語でした。


有限会社ワンマインド 取締役副社長

林 海地氏

出身地:長野県長野市

生年月日:1989年8月29日生まれ。

企業ホームページ:https://daidara.info/

 

プレゼンテーター:大山 正

1982年東京都生まれ。成蹊大学卒業後、各種広告関係営業、外食企業のプロモーション・広報を経て、2014年1月、31歳で外食メディア「フードスタジアム」フードスタジアム株式会社 代表取締役就任。飲食店若手経営者の会「外食5G(現JFRX)」初代サポーター企業リーダー。2020年3月、株式会社ミライーツを設立。飲食業界における幅広い人脈、情報を持ち、飲食企業のサポートに従事する一方、本連載「クロスロード」では独自に記事の取材・執筆・文責を手掛ける。

 

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今回の見どころ:コンプレックスを「愛され力」に変え、月商450万の店を1500万へ爆伸ばしした2代目の覚悟

  • 愛され力の原点: 身長130cmで強豪バスケ部へ。補欠でもチームの「潤滑油」として存在意義を発揮した10代の思考法
  • 挫折とV字回復: 就活失敗から父親に拾われ入社。月商450万の店を1500万へ叩き上げた「あるターゲット転換」とは?
  • 地方繁盛店の未来: なぜ東京出店を蹴り、「高崎」を狙うのか?坪単価競争に頼らない地域密着型の経営哲学

※各エピソードの具体的なノウハウや生々しい葛藤は、下の本文で公開中!

 

ロード1

体が小さかった少年時代と、仕事で不在だった父の背中

――今日は林さんのルーツを丸裸にしたいなと思います(笑)。まずは、どんな子どもだったのか、0歳から10歳くらいまでの話を聞かせてください。

林さん:「了解です。えっと、生まれはここですね、長野県長野市に生まれました。1989年です。僕、会社自体は2代目なんですけど、父はもともと東京出身なんです」

――え、そうなんですか!てっきり生粋の長野の方かと。

林さん:「父は外食大手のワンダーテーブルで働いていて、結婚を機に長野に来たんです。母が長野の土建屋の娘で。母方の祖父が社長で、当時年商100億円ぐらいあったみたいで」

 

――マジすか、100億!すごい……。じゃあ、お父様は婿入りみたいな形で?

林さん:「そうですね。母が一人娘だったんで。父は飲食の人だったので、いつか独立したいっていう想いがあったみたいで、まあ、その面倒も見るみたいな約束で長野に来たと。で、長野に来てからはロイヤルホストに転職して、サラリーマンをやってました。最終的に部長職までやって独立するんですけど、僕が子どもの頃の記憶は、お父さんは『ロイヤルホストの店長』っていう感じでしたね」

Point👉飲食業を志す人間にとって、原体験はなんだろう。家族で囲んだ食卓の記憶か、旅先で出会った忘れられない一皿か。林さんにとって、それは父が働くレストランの光景だった。

――そうだったんですね。運動は何かやったりしていましたか?

林さん:「飲食の原体験でいくと、家族でロイヤルホストに食事に行くとかが、一番古い外食経験ですね。ロイヤルホストって、結構きれいじゃないですか。料理もおいしいし。父は白い服を着てね、まあ、かっこいい男っていう印象でした。ただ、仕事でほぼ家に帰ってこなかったんです。運動会とか、子どもの行事にはほとんど父はいない。だいたい母と、母方のおばあちゃんに育てられた感じですね」

Point👉仕事に身を捧げる父の背中。それは誇らしくもあり、少し寂しくもあったのかもしれない。そして、少年時代の林さんには、もう一つ大きな悩みがあった。

 

――そうだったんですね。運動は何かやったりしていましたか?

林さん:「極端に僕、体がちっちゃくて。中学入学したときに130センチちょっとしかなかったんですよ。だから、いじめってほどはないですけど、いじられキャラというか。体がちっちゃいっていうのはコンプレックスでしたね。なのにバスケやってたんですよ(笑)」

――バスケ!一番身長がモノを言うスポーツじゃないですか。

林さん:「そうなんですよ。ポジションはポイントガード。まあ、性格的には、なんていうか、ニコニコしたいいやつ、みたいな感じでしたね。リーダー的な要素は子ども心にほとんどなく、ただただ、まあ、ニコニコしたかわいいいいやつ、みたいな。めちゃくちゃチビだったんで」

Point👉その場に居合わせた中学の同級生も、「体がちっちゃかった。勉強はできた。いじられてた。でも、性格いいやつ」と太鼓判を押す。体格には恵まれなかったかもしれないが、その人柄で周りから愛される。そんな少年時代のキャラクターが、後の人生に大きな影響を与えていくことになる。

 

偏差値38からの大逆転!でも大学では遊び呆ける日々

――中学までバスケをやって、高校でも続けられたんですか?

林さん:「そうですね、高校までちゃんとやってました。ただ、入ってしまったのが、むちゃくちゃ強豪校で。長野吉田高校っていう、当時、長野県で2番目ぐらいに強いところだったんです」

 

――え、そんな強豪校に!それで勉強もできたんですよね?

林さん:「お勉強はできたんです。中学でクラスで3番目とか5番目ぐらいだったかな。でもバスケのセンスは全然なくて(笑)。強豪校だから、周りはみんなデカいんですよ。『185センチ以下は全員チビ』って言われるような世界で」

 

――うわー、それはキツい世界だ……。

林さん:「当時、最終的に今の身長が165センチなんですけど、高校のときもかなりちっちゃくて。まあ、要は可愛がっていただいたんですよね、先輩とか同期とかに。だけど、自分は全然活躍もできない。なのに、写真を見返すと、優勝したときの賞状を持って真ん中で写ってたりするんですよ。むちゃくちゃバスケ下手なのに(笑)」

 

――アハハハ!愛され力のなせる技ですね。

林さん:「引退試合とかで出してもらうと、僕が点をいれるとみんなが喜んでくれる、みたいな。ある意味、愛され力みたいなのはあったのかな。でも、どっちかっていうと、挫折というよりは、この環境の中で自分が存在意義を出すにはどうしたらいいか、みたいなことを考えてましたね、10代のときは」

Point👉これは、すごい話だと思った。普通なら「自分は向いてない」と腐ってしまうような状況で、彼は「自分にできる貢献は何か」を探していたのだ。プレーで貢献できないなら、ムードメーカーになる。チームの潤滑油になる。この考え方は、まさに経営者の視点そのものじゃないか。

 

――明るいムードメーカーというのは今の「飲食人」にもつながりますね。

林さん:「誰とでも話ができたんで。レギュラーとか控えとか、先輩後輩とか、割と対等に話ができた。弱いっすよ、雑魚なんですが(笑)。そういう意味では、生き方みたいなのは感覚的にそのとき培ったのかなと思います。ただ、スターたちを間近で見てて、すごく悔しい思いはしてました。バスケでスターにはなれなかったので」

 

――高校卒業後は大学に?

林さん:「大学行きました。高校3年の夏に、偏差値38だったんですけど、本気で受験勉強して、国立大学に行きました」

 

――えええ!?偏差値38から!?それはすごい(笑)!

林さん:「多分、半年で偏差値を25ぐらい上げてます。めちゃくちゃ短期集中型なんですよね(笑)」

 

――すごすぎる……。どこの大学に行かれたんですか?

林さん:「埼玉大学です。だから大学生活はもう、超楽しかったですね。遊びました。東京って楽しいなって(笑)」

 

――半年間の猛勉強の反動が(笑)。どんな大学生活だったんですか?

林さん:「いや、もう週8で飲んでました。ある飲み会から終電で別の飲み会に行く、みたいな。お酒を教えてくれる先輩もたくさんいましたし。まあ、でも、ある意味、何一つ成長しませんでした、大学生のときは(笑)。典型的な大学生ですよ。バイトして、遊んで。飲食のバイトはそこでやりましたね。大手のチェーン店で」

Point👉この頃、林さんが高校1年生のときに、父はロイヤルホストを辞め、独立を果たしていた。42、3歳での遅咲きの挑戦だった。

 

――その頃、お父さん(現在のワンマインド)は独立されているわけですよね?

林さん:「はい、父は独立1店舗目で4、5千万近くかけたみたいです。だから、うちの店は20年以上経ってますけど、今でもハード面では助かってますね。しっかりお金をかけていい店を作ろうっていう、ワンダーテーブルやロイヤルホストで培った概念があったんだと思います」

取材でお邪魔した本店の「だいだらぼっち」。創業20年、一度も改修工事としていないというが古さを一切感じさせない和モダンな居心地の良い空間が広がる。

 

――大学時代、お父さんのお店を継ごうとかは考えてなかったんですか?

林さん:「まったくですね。父の仕事を見てたんで、大変そうだなっていうのが強すぎて。ただ、大学生になって飲食でバイトするようになると、他の飲食店の社員さんと自分の親はなんか違うなって感じてました。僕が見てきた飲食店の社員さんって、パチンコやってたりとか、ちょっとブラックなイメージがあったんですけど、父は違った。毎日、日経と日経MJ(日経流通新聞)を読んでましたし。大学生の僕に『お前、アメリカのFRBの議長の名前言えるか』って聞いてきたり。ちゃんと勉強しろよ、みたいなメッセージは感じてましたね。リスペクトはありました」

point👉社長という職業への漠然とした憧れ。父への尊敬の念。しかし、東京の楽しさを知ってしまった彼にとって、長野に帰って家業を継ぐという選択肢は、まだ現実味を帯びていなかった。

 

ロード2

就活失敗からのUターン。父の掌で踊らされた入社劇

――大学卒業後は、就職活動を?

林さん:「しました。で、就活に失敗してるんですよ、僕。なのでグラフはドーンと落ちます」

 

――え、あの猛勉強で国立大学に入ったのに、ですか?

林さん:「失敗しましたね。結構落ちました。今思うと分かりますけど、結局、自分を表現する力もなかったし、今ほどいろんなことを言語化できなかった。大学時代、何一つ頑張ってなかったんで。ただ遊んでただけ。プライドも高かったんで、なんとなく自分、できんじゃね?みたいな根拠のない自信だけはあって。そりゃそうなるよね、みたいな(汗)」

point👉エリート街道を歩むはずだった青年を待ち受けていた、社会の洗礼。ここで彼のプライドは一度、木っ端微塵に砕かれる。

 

――就職が決まらないまま、卒業することに?

林さん:「そうです。で、受かんなかったんで、父に拾ってもらったんですよ。でも、僕が頭を下げて『入社させてください』って言うように、父がディレクションしたんです(笑)。そうじゃないと、多分どっかで逃げるじゃないですか。『お前がやりたいって言ったんだからな』っていう状況を作ったんです」

 

――さすがお父さん、策士ですね……!

林さん:「完全にそうですね。周りからも固められました。大学4年のときに、父と、今でもお世話になってる第二の親父みたいな人(港と飲食店をつなぐ仕事をしてる社長)と、アサヒビールさんとの会食に呼ばれて。僕の父親は接待される側じゃないですか。で、その第二の親父に『お前、俺の会社入れよ』みたいに言われたり。周りからの後押しもあって」

 

――外堀を埋められていったわけですね(笑)。でも、そこで反発しなかったっていうのは、やっぱりお父さんの仕事に興味があった?

林さん:「ありました、ありました。他の飲食の人とは違うなって思ってたんで。リスペクトがあった。あと、めっちゃ怖かったですしね、自分の親だけは。家の中では恐れてました。恐怖で(笑)」

point👉かくして、林さんは長野へUターンし、父が興した会社、有限会社ワンマインドの門を叩く。それは、自ら望んだ道であり、父に導かれた道でもあった。

 

月商450万を1500万へ。店長として覚醒した12年間

――ついに入社されたわけですが、最初はどんな仕事から?

林さん:「アルバイトからですね。包丁も持ったことなかったんで、料理もやりましたし、全部やりました。で、1年経たないぐらいで、ここの本店(ぼっち)の店長にさせてもらったんです」

 

――1年足らずで店長!すごい抜擢ですね。

林さん:「当時、この店の月商が450万ぐらいだったんですよ。それを、最終的に27、28歳ぐらいのときに1000万ぐらいまで持ってくんですけど、まあ、すごく働きましたよ。同級生は広告とかメディアとか、華やかなサラリーマンをしてるわけですよ。僕は一切休みが取れずに、ずっとこの現場で仕事してました」

 

――その頃の原動力ってなんだったんですか?

林さん:「結構シンプルに、父に認められたいっていうことと、全く違う人生を歩んでる友達に追いつきたいっていうこと。この2つですね。ここでやるしかないな、と。自分の人生、自分で作んなきゃいけないから。後付けですけど、もし僕が友達と同じような世界に行ってたら、多分埋もれて頑張れなかったと思います。地方で、飲食で、っていうこのポジションだったから、自分を表現できた」

 

――コンプレックスが、自らを突き動かす最大のエネルギーとなったわけですね。大きな気づき、転機ですね。

林さん:「最初は東京のお店を意識したような料理を作ってたんですけど、それを地方の繁盛店にベンチマークを切り替えたんです。新潟の『よね蔵グループ』さんとか、金沢の『いたる』さんとかみたいに。長野の人が、県外から来たお客さんを連れてきたくなるような、そんなお店。長野の野菜とか、地元の素材をちゃんと使おうって。そういうのに目つけ出してからですね、伸び始めたのは。25歳ぐらいのときかな」

point👉マーケットインの発想への転換。自分たちがやりたいことよりも、この土地で求められているものは何か。その答えが、店を、そして会社を成長の波に乗せた。 

 

――なるほどそこからなんですね。目線を変えたわけですね。

林さん:「結局、ここ(だいだらぼっち本店)の店長は12年やったのかな。最終的に月商1500万ぐらいまでいきました。ただ、その過程で大きな失敗もしました。20代後半のとき、お店のメインで働いてた子たちが一気に辞めちゃったことがあるんです。結局、自分のためにしか仕事してなかったんですよね。自分が結果を出したいから、認められたいからっていう。それじゃ誰も幸せにできない。お客様のことも、スタッフのことも見てなかった。それに気づいたのは、大きな経験でした」

 

ロード3

コロナ禍、そして経営者へ。長野の食文化を担う覚悟

――店長として12年。その後、経営にも本格的に関わるようになったんですね。

林さん:「それで30歳ぐらいでコロナになったんですよ。そのへんでやっと経営しだしたかなって感じですね。助成金の申請とか、そういうのも全部やるようになって。お店の撤退判断とかも。弟が店長をやってたクラフトビールの大箱があったんですけど、コロナで厳しくて。その人材も含めて路面に下ろしたいから、一旦撤退しようっていう判断をしたり」

父が創業した会社で二人三脚、共に店舗運営に携わる同社取締役の林俊帆(としき)さん(写真右)。兄弟ならではの固い絆と信頼が、繁盛店を築き上げる原動力となっている。

 

――大きな決断ですね。お父様との関係性も変わってきたんじゃないですか?

林さん:「そうですね。父の独立が42歳と遅かったのが、僕にとってはある意味、ラッキーでした。会社がそこまで完成されてない段階でジョインできたんで、一緒に会社を作ってこれたんですよ。亀のように、ちょこちょこっとずつ伸びてきた会社なんで。だから父も、僕が一番信用できる新入社員みたいな感じで見てくれてたんだと思います。この12、3年の信用期間はでかかったですね」

 

――そして、親子、会社全体でコロナという未曾有の危機に立ち向かうわけですね。

林さん:「長野は、営業自粛要請は出てないけど、誰も街を歩いてない、みたいな期間が長くて、それが一番苦しかったですね。でも、みんながやってたフルーツサンドとか、自分たちの得意技じゃないことには一切手を出さなかった。ジタバタせず、いつか来る勝負のときのために、学びを継続しようと。本質を磨くことに集中しました。結果的に、当時4店舗あったのが3店舗になって、店は減ったけど、3店舗のときの売上のほうが4店舗のときより良くなったんです」

 

――そして、コロナが明けた頃から、JFRXのような外部の学びの場にも積極的に参加されるようになったんですね。

林さん:「そうです。経営者として、人前でプレゼンするとか、自分の経営をきちんと言語化する力をつけないと、この先厳しいだろうなと思ったので。僕にはアウトプットする場が必要だったんです。社内で発信したり、会議を作ったり、研修したり。その出口を前提にインプットしに行かないと、身にならない。だから、そういう場を求めてました」

point👉その学びは、すぐに結果として現れる。長野の仲間たちとワインやクラフトビールを造る「クラフトマンプロジェクト」などの取り組みが評価され、JFRXでは2年連続でチャンピオンの栄冠に輝いたのだ。 CSVアワード2026のフードスタジアム記事はこちら

 

長野から、次の街へ。地方の可能性を信じて描く未来

――今、長野の飲食シーンはすごく盛り上がっているように感じます。実際のところはいかがですか?

林さん:「僕が20代で帰ってきた頃は、正直、絶望してたんですよ(笑)。東京から帰ってきて新幹線を降りた瞬間に、なんもないなって。でも、ここ数年で本当にいい店が増えました。うちだけじゃなく。20数年前、父が創業したときって、東京から人を連れてきてお連れするような居酒屋が本当に一軒もなかった。江戸時代の鎖国みたいな食文化だったんです。それが20年経って、すごく発展した。その一翼は担えたんじゃないかなっていう自負はあります」

 

――何もない場所に、道を切り拓いてきたというわけですね。

林さん:「長野でやってきたことには、割と自信があるんですよ。だから、同じような課題を抱えている街が、日本には必ずどこかにあると思ってて。ずっとこのへんだけでドミナントでやってきましたけど、次のドミナントみたいなところはめっちゃ考えてます」

 

――おお!具体的に考えているエリアはありますか?

林さん:「興味があるのは群馬県の高崎ですね。この間、見に行ってきました。人口規模も長野と一緒ぐらいですし、内陸だから魚を扱ってきた僕らの技術も活かせる。何年か前の長野を見ているような感覚でした。再現性はあるなと」

 

――めちゃくちゃ面白いですね!逆に東京への出店は考えないんですか?

林さん:「まったくないです。興味がないですかね。坪単価10万円で、3年で減価償却、みたいな世界では、自分のやりたいことはできないので。僕らがやりたいのは、トレンドを作ることじゃなくて、その土地ならではの表現で、地域に根ざしたお店を作ること。そこに住んでる人たちにとって、なくてはならない存在になることなんです」

 

――素晴らしいです。最後に、今後の数値的な目標があれば教えてください。

林さん:「まずはコツコツと、10億、15億。一気にはいきたくないんで、じわじわと。22年かけて、今やっと4.5億ぐらいなんで。極端に落ちたこともないけど、極端に上がったこともない。会社の成長とともに、ゆっくり目指していきたいですね」

――ありがとうございました!

 

編集後記

林さんとはフードスタジアムも応援し続けている若手飲食店経営者の勉強会「JFRX」でお会いしました。JFRXでの学びを成長に繋げ、グングン成長を遂げ、一年の締めくくりである社としての取り組みのプレゼン大会「CSVアワード」で2年連続最優秀賞を受賞した努力の人です。そこに見る林さんの魅力は「素直さ」なのだと取材を通じて感じました。コンプレックスをバネに、ひたすら父の背中を追いかけ、いつしか父と肩を並べ、共に会社を創るパートナーとなっている・・・なんともいいお話です。そして今、彼は長野で灯した希望の光を、次の街へと届けようとしています。日本の地方都市が秘める無限の可能性を示してくれているワンマインドさんの今後の進化に注目です。(聞き手:大山 正)

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