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特集

【連載企画「大衆酒場の創世記」】第四夜 祐天寺『ばん』小杉潔

大衆酒場は、誰よりも優しい友人である。
寄り添い、身を委ねれば、すべての言葉に素直に耳を傾けてくれる。
洒落た警句や、野暮な横槍なんていらない。欲しいものはただ静かな慰安と、
挫けそうになる心を、少しだけ痺れさせてくれる幾杯かの酒だけなのだから…。

平成の世を席巻した名だたるチェーン店が崩壊して行く現代、
いよいよ「個店」の時代が始まろうとしている。
よその店にはない強烈な個性、徹底したホスピタリティー、
週何度でも通えるリーズナブルな価格設定…。
そのオリジンは、今も昔も人々を惹き付けてやまない老舗大衆酒場にあった。
友よ、すべての答えは昭和の黄昏の中にある。


常に客の笑顔を引き出す経営努力と、商品のバラエティー

ばんは東京がロンドンを抜いて、世界一の人口を誇る都市になった昭和32年、中目黒で生まれた。中目黒の駅からも近く、春にはさくらの名所になる目黒川のすぐそばで、繁華街の目黒銀座からも近い好立地だった。5000円札や100円硬貨が発行され、翌年には東京タワーが完工、長嶋茂雄がデビュー。東京は高度成長期へ向かって駆け続けていた。

%e5%86%85%e8%a6%b32毎日、日が沈むと紅く浮かび上がるばんの提灯。その頃にはもう、どこか民宿を思わせるセピアな一軒家は、1階から2階まで客でいっぱいになっていた。100人くらいの客たちが生み出す活気に満ちたグルーブの中心にはいつも、安くて旨いもつ焼きとレモンサワーのジョッキがあった。中目黒で47年、祐天寺で蘇って11年。ばんの歴史は、老若男女、すべての人を惹き付けてやまない大衆酒場の歴史そのものだ。

「先代の兄、正が28歳くらいの時かなぁ、親父の生家を建て直して、最初は細々と始めたんです。カウンターとテープル席が、いくつかある程度だった。元々、親父は人に貸そうと思ってたんだけど、兄貴がその内の1軒を借りて商売することになった。上の階は全部アパートで貸して、上下合わせて40坪くらいだったかな」
その当時、まだ15歳だった潔さんは、日に日に客が増えて行くばんの最盛期を見ながら育った。懐を気にせず、旨いもつ焼きが食べられる店が中目黒にある。その噂は飲ん兵衛たちの口コミで広がって行き、次々と客が増えて行った。

「だから、貸してた分を引き払って、改築を繰り返して、どんどん店を広げていったんです。当時、2階の座敷は24畳あったから、60人くらいは入ったね。下が30人、それにカウンターなんかを足すと109席、それでも毎日、満員だった。しかも、1日何回も回転してた」。

%e5%a3%81%e3%83%a1%e3%83%8b%e3%83%a5%e3%83%bc今でも1本100円のもつ焼きは、タン、ハツ、レバ、なんやわ(軟骨の柔らかい所)、オッパイ、しろ、テッポー(直腸)、こぶくろ(子宮)、ワッパ(膣)、ガツ、つくね(鳥ミンチ)、豚軟骨つくねという驚愕のバラエティ。かしらに関しては、赤身、フランス、あぶらと3種の串に刺し分けている。

「毎日通ってくださる常連さんたちもいるから、もつ焼きの種類は絶対に減らせません。たくさん選択肢があるからこそ、毎日飽きずに通えるんです。ウチは最初からもつ焼き専門、いちばん手軽にできるし、1つの料理に絞ることで、いろんな種類を置かなくてすむ。要は、焼きと煮込み、まぁ兄貴は最初、そんな風に思ってたんでしょうが、店の拡張と並行してお客さんたちの要望もどんどん多様化していきましたね」

%e3%83%ac%e3%83%8f%e3%82%99%e3%82%ab%e3%83%84「俺は、もつダメなんて人もいますね、臓物は食えねぇ、とかさ。だから、だんだん、いろんなものも置くようになっていったんです。流れに添っていかないとさ、店ってパンクしちゃうからね」。

そんな中で、現在もばんの名物になっている、豚の尻尾をチゲ鍋風に辛く煮詰めた「豚尾(とんび)」や「レバかつ」などのヒット商品も生まれて行った。

「でもね、もつ焼きなんて仕込みが大変で実は儲からない。しかも、全部おんなじ100円でしょ。だから、とにかく数を売って儲けるしかない。店によっちゃ、部位毎に値段が違うとこなんかもあって、それが本当の形かもしれないけど、でも、そんなもんできないからねウチじゃ。同じ値段になってても、高い仕入れの奴はちっちゃいとか、そんなの絶対にイヤだから」。

%e8%b1%9a%e5%b0%beもつ焼きと共に名物の豚尾も、実は儲からないメニューだ。
「鍋かけっぱなしでさ、何時間も豚のテールを野菜と一緒に煮ていく。面倒くさいのに、そんなに儲かるもんじゃないからね、あれは。たぶん他の店ではやんないと思う。でも、名物だから安く出してる。安く売るっていうのが大事なんですよ、とにかく基本的には」。

仕込みが大変でも、仕入れに苦労しても安く提供する。それこそが、大衆酒場の鑑だ。

「お客さんが得した気分になってもらえば、それがいちばんいいんです。みんなが得した気分になれる、従業員だってそうだよね。お客さんの懐を傷ませないで、いい気持ちで飲んでもらいたい。自分もいい気持ちになって、家庭の経済に対しても、よろしい。ひと月に10日飲むものをさ、ばんだったら15日飲んでもらえる」

その気持ちから、当初より酒も安価な甲類の焼酎中心に売った。そして、ばんで生まれた甲類焼酎の新しい飲み方の提案こそが、店の最盛期を導いて行く。レモンサワーの誕生である。
 

伝説を生み出した画期的新商品、レモンサワーの発明

当時、甲類焼酎の飲み方はストレート。香りを付け、味をマイルドにするため、梅や葡萄のシロップを入れた。(その名残りは、今も立石『宇ち多゛』や吉祥寺『いせや』、新宿思い出横丁『かぶと』などで出会うことができる。)天かすでたぬきが天ぷらそばの味わいを手に入れるように、焼酎は梅と葡萄のエキスで、庶民には高嶺の花だったウィスキーやワインに変容した。

「昔はね、家庭の奥さんなんかもさ、焼酎買いに行けなんて言うと、やっぱり抵抗感感じてね。酒屋から出る時、『やだわーっ!あそこの奥さん、焼酎買ったの!』なんて言われるのね、ヤなの」。

潔さんが兄・正さんの口癖を思い出しながら言う。現代では想像し難いかもしれないが、焼酎の地位が向上したのは比較的最近の出来事に過ぎない。あくまでも、焼酎は日陰者、決してメジャーな存在ではなかった。一般的には全員が焼酎を飲んでいると思われがちな九州ですら、玄界灘に面した北部九州では日本酒が主流だった。焼酎が陽の当たる場所に飛び出すためには、1つの国民的ドリンクの誕生を待つしかなかった。潔さんの兄、小杉正さんが発明したレモンサワー。実はばんこそが、焼酎をメジャーにした立役者だ。

「戦後、東京の下町で闇営業の居酒屋がオープンし始めた頃、当然、出回ってる闇の焼酎も品質が悪くて匂いも悪かった。だから、梅や葡萄味のシロップで味と匂いを調節するようになったんです。で、次第にウィスキーに倣って炭酸で割る飲み方が自然発生したんです。当時はね、炭酸で割るから『炭酎(たんちゅう)』とか、ひっくり返して『酎炭(ちゅうたん)』とか言ってたっけね。でも、兄貴は語呂が悪いってんで、当時ジンを炭酸で割ったらジンサワーって言ってたから、じゃ、酎サワーって言ってもおかしくない。でも、それじゃカッコ悪いんで、酎をカットして『サワー』で売り始めたんです」。

そんな中、高度成長期に差し掛かっていた東京の市場ではカリフォルニア産の輸入レモンが安価で出回るようになって来た。

%e3%82%b5%e3%83%af%e3%83%bc「で、レモンでサワーを割ったら非常に美味しい!と、梅割焼酎の時代からだんだん脱皮していったんです」。

瞬く間に、正さん考案の元祖レモンサワーは店の看板となり、地元ばかりか東京中から客が押し寄せる有名店になって行く。

「とにかく、炭酸の量が半端じゃなく出るんですよ。当時、1ケース24本入りの炭酸を、1日に15ケース(360本)売ってましたね。で、最初は酒屋からアルコール(金宮焼酎)込みで買ってたんですが、ふと瓶の住所を見ると、『目黒本町なんだ、近所じゃない!』。それじゃ、大元に直接当たってみようってことになった」。

その時、まさに国民の酒ハイサワー誕生の前奏曲が始まった。その炭酸の会社こそが、後にハイサワーを世に送り出す博水社だったのだ。

%e7%82%ad%e9%85%b8「炭酸卸してる会社が酒の小売店に卸す量よりも、ばん、たった1店舗、ウチに売る炭酸の量の方が断然多い!そんな時期がずーっと続いていて、とうとう社長さんが見に来た。『一体、この店で何が起こってるんだろう?』って。どうして、ばんさん、こんなに売れるんだろう?そうか!このレモンで売れるんだなと気が付いた。そしたら、同じもん作ったら塩梅よくないから、レモンを大量にどかーんと仕入れて、飲みやすいよう、少し味も加えてみた」。

元々はラムネ屋さんに始まり、下戸だった博水社の社長だからこそのアイデアだった。
お酒が苦手でも飲みやすい、マイルドな味の探求が更なるヒット商品に繋がっていく。

「で、ある日、社長自ら、完成品をばんの兄貴のとこに持って行ったんだそうです。アイスボックスにちっちゃい氷まで用意してね。飲み屋には氷なんていっぱいあるのにさ。それでね『ばんさん、すいません味見してくれませんか?あのー、一発これで売り出して勝負してみようと思う』って」。

社長は更なるヒットを祈願して、名前に「ハイ」を付け足した。ハイは同時に、社長自身を指す吾輩の「ハイ」もダブルミーニングされていた。国民の酒、ハイサワーの誕生である。
 

相席から生まれる、無限のコミュニケーション

%e6%97%a7%e5%ba%97%e8%88%97しかし、レモンサワーを世に送り、47年間中目黒のランドマークだったばんに終末の時がやって来る。理由はお定まりの再開発地上げで、ばんは抵抗する最後の1軒になっていた。跡地には45階建てのビルが建つ。そこに出店する権利はあったが、「もつ焼き屋がビルの中じゃ面白くない」と正さんは閉店を決意する。最後の5年間は弟の潔さんも加わり、伝説の店の幕引きに華を添えた。最終日の12月28日には、ばんを愛する客たちが店から溢れ、通りを埋めて立ち飲みし、別れを惜しんだ。

2004年、惜しまれつつ閉店したばんは、多くの客たちのリクエストに迎えられて翌年の3月1日、隣りの駅祐天寺の駒沢通り沿いに、正さんの弟・潔さんの手で復活を遂げる。駅からやや離れているが、ばんのもつ焼きと元祖レモンサワーが再び往時の賑わいを取り戻すためには、さほどの時間はかからなかった。程なくして、隣りの物件が空き、拡張して店を広げる。その後、さらに1軒隣りの物件が空いて、複数客専門の2号店もオープン。大テーブルでの相席が評判になり、続々と若い客たちが押し寄せるようになる。

%e5%86%85%e8%a6%b31「とにかく運が良かったんです。要はきちんとしたクオリティのものを、なるべく安く、いつも安定して提供すること、ただそれだけです。最近は若い方たちの間でパワースポットとしても有名らしいです。『ばんに行ったら元気を貰える』って。嬉しい限りです。いっぱい飲んで、食べて、お会計の時に(安くて)みんなニコッとする。その顔を見るのが楽しみなんです」。

「お客さんを決して裏切らないこと、お客さんをガッカリさせないこと」。
最後に潔さんが教えてくれたばんのモットーは、マニュアルでがんじがらめになっている大手チェーン店が忘れかけている大衆酒場の極めて真っ当な基本精神だった。今日もばんの店内では、歓びに満ちた笑い声がレモンサワーの泡に、幸せのリズムを刻んでいるはずだ。

 

 

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ばん
住所:東京都目黒区祐天寺2-8-17
電話:03-3792-3021
営業時間:
(平日)16:00~23:00(LO22:15)
(土曜)15:00~23:00(LO22:15)
(日曜)15:00~22:00(LO21:15)
定休日:年末年始・お盆・他不定休
 

 

■著者プロフィール 森 一起
1956年佐賀県生まれ。プロのミュージシャン、作詞家としても活動してきた異色のフリーライター。コピーライターやエディターとして、数々の有名誌を手がけてきた。現在は、「料理通信」やグルメ情報サイト「dressing」などで、飲食店を題材にした人気連載を執筆中。

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