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ビール業界に精通する経済ジャーナリスト・永井隆の書き下ろしシリーズ企画連載開始!”ビール営業物語”
【第3回】キリンビール「特殊部隊」に入った新人、安藤毅が動き出した…


「強すぎるキリン」の弊害を乗り越えて…

 キリンビールの若手営業マン安藤毅は、テリトリーの徳島県西部で「飛び込み」を継続することで、仕事を覚えていった。日常の飛び込みにより、地域の飲食店や酒販店のなかに、「キリンの安藤さん」の名前は溶け込んでいく。
顔と名前を覚えてもらい、短時間でも会話を交わせるようなると、飲食店主に対してはさり気なくメニュー提案をしていった。樽をキリンに切り替えることは難しくても、瓶ビールを扱ってもらえる飲食店は生まれていく。キリンと何ら取り引きがなかった店が、ある日を境に取引が始まる。
新規開拓は本当に難しい。だが、実はそれ以上に大変なのは、取引を維持させることだ。ライバル社は奪還に動いてくる。当然、安藤は新たなメニュー提案などでフォローを続けるが、取引先が増えたからといって、増員されるわけでもない。
また、一般論だがトラブルは必ず発生する。1980年代、松下幸之助が相談役を務めていたパナソニック(当時は松下電器産業)で、創業家と接するポジションにいた幹部(後に役員になる)から次のようなことを聞いた。
「トラブルが発生したなら、担当は先様にすぐに顔を出さなければならない。担当が処理できるかどうかなど、どうでもいい。まずは行く。取引が停止されるのは、トラブルそのものが原因ではなく、先様と松下との信頼関係が壊れるからだ。信頼の本質は人にある」。
つまりは人間関係が基本となる。
キリンは強すぎる期間が、あまりに長かった。強すぎるため、取引先との信頼関係、さらに人間関係は希薄になっていた。
シェアトップにキリンが初めて立ったのは、経済白書に「もはや戦後ではない」と記述された2年前の54年。37.1%だったが、65年には47.7%、76年には最大の63.8%にまで上げる。沖縄が返還された72年に60.1%となってから85年まで14年間、連続してシェア6割超えを果たす。当時ビール業界は、「ガリバーと三人の小人たち」などとも揶揄されていた。
ところがシェア6割を超えたため、独占禁止法により、これ以上伸びると会社が分割されるという危機に直面してしまう。
当時の商品は、100%近くがキリン「ラガー」。何もしなくとも、勝手に売れてしまっていた。
キリンの営業マンは、特約店と呼ばれる卸を廻っていた(特約店はキリン系、サッポロ系、アサヒ系とメーカー別に別れていた)。シェアがさらに上がると、分割されてしまう。このため、営業の仕事は売り込みではなく、調整だった。「今週は、この数量を割り当てます」と話すキリンの営業マンを、卸はコーヒーを差し出して迎えていた。「言う通りにします」、と。
メーカーのキリンに代わり特約店が、酒販店を選別したケースもあった。90年代の初めまで、全国に酒販店は約15万店あった。飲食店にビールを納めているなど、売り上げが大きい酒販店にはキリンラガーを積極的に納入した。逆に、業務用をやっていないところ、あるいはサッポロやアサヒとの関係の強い酒販店には、ラガーの納入を控えるように調整していたのだ。「このため、キリンは特定の酒販店からは恨まれていた」(当時を知るキリン幹部)そうだ。
キリンの営業マンが、卸の先にある酒販店、そして飲食店に営業することはほとんどなかった。したくとも、分割の心配がありできなかったのだ。むしろ、キリンの生産計画に基づいて、ビール業界は動いていた。
いまの安藤の時代とは違った。飲食現場に訪問もしないような営業マンは、高い給料を受けながら営業力を失っていた。

「ガリバー時代」のキリンビール

 戦後キリンが伸びたのは、家庭用に力を入れたから。昭和30年代以降、一般家庭に冷蔵庫が普及するのに伴い、家庭でのビール需要は急拡大していく。キリンはこの流れに乗る。逆に、旧大日本ビールのサッポロビールとアサヒビールは、戦前からの慣習のままに業務用中心に営業を展開し続ける。
そもそもキリンが家庭用に注力したのは、業務用に弱かったから。これに対し、業務用で成功体験を持つサッポロとアサヒは家庭用へのシフトが遅れてしまう。この結果、キリンとの差は開いていった。
ちなみに、一般家庭に冷蔵庫が普及しきった75年当時で、ビールは家庭用が7割、業務用が3割の構成となった。この比率は、ビール類として捉えると実は今も変わらない。ビール類とは、ビール、94年に生まれた発泡酒(最初の商品化はサントリー)、2003年誕生の第3のビール(同サッポロ)を合わせたもの。
3割の業務用は、100%近くがビールである。酒税が安い発泡酒と第3のビールは、ほぼ全量が家庭で飲まれている。
2015年上半期(1月~6月)のビール類市場は、ビールが48.6%で約5割を占め、発泡酒15.1%、第3のビール36.2%の構成だった。この結果、発泡酒と第3のビールを除くビールに占める業務用の割合は、約6割となる。
それにしてもキリンはなぜ、72年からシェア6割を超えたのか。アサヒビール元社長の樋口廣太郎(故人)は、91年に筆者に次のように語った。「それは、戦後生まれの団塊世代がみな、(キリンの主力だった)ラガーを飲んだため。というのも、団塊が大人になり最初に飲んだビールが、当時一番売れていたキリンラガーだったから」
団塊世代とは、戦後の47年から49年に生まれた約800万人を指す。団塊が愛して育てたのが、ホンダ車でありソニー製品、そしてキリンラガーだったろう。

桑原氏のDNAを引く新経営陣が反転攻勢へ

 しかし、一人勝ちのガリバー状態に危機感を持つキリン関係者もいた。80年代前半に神戸支店長を務めた桑原通徳(後にキリン専務、故人)も、その一人だった。
桑原は神戸支店長時代に、若い営業マンに次のように話していた。
「キリンのシェアは62%、神戸はもっと高い。だが、キリンは今のままでは危うい。圧倒的なシェアは、酒販免許という規制や既存の秩序、そして仕組みの上に成り立っているから。酒販免許はいずれ自由化され、スーパーの店頭にビールが並ぶ。大手流通の力が強くなり、小売価格は変動し瓶から缶へと主流は移るはず。いまのキリンを支える、酒販店による配達は早晩消えていくだろう」「成功体験にまみれたキリンは、大きな変化に対応できるとは、俺には思えない」「お前たちは好きなようにやれ。ただし、物事の本質を見よ!」
聴いた者はみな、衝撃を受ける。だが、現実には指摘の通りに動いていく。
特に、1987年にアサヒが発売した「スーパードライ」により、キリンはシェアを落としていったのだ。96年に、ラガーを熱処理ビールから生ビールに変えたが、これが痛恨のミスマーケティング(敵失)となる。味が変わり、ラガーの支持者はスーパードライへと流れてしまう。本来ならキリンは、90年発売の「一番搾り」を前面に押し出すべきだった。一番搾りは若者に人気が高く、スーパードライと同じ生ビールだから。
2001年には、ついにアサヒはキリンを抜き、シェアNO1になる。その後09年に、キリンは第3のビール「のどごし生」を伸ばして、アサヒを再逆転してシェアトップをとる。が、10年からズルズルと後退してしまい、14年にはアサヒとのシェア差は5%に広がってしまう。
だが、15年に入り、キリンは反転攻勢に出る。15年上半期で市場全体が0.6%減少するなか、4社の中でキリンだけが出荷量を増やす(2.2%増)。シェアも0.9ポイント増やして34.0%として、アサヒとの差を4.1%に縮める。14年から一番搾りに経営資源を集中させたこと、今年に入っての持株会社などのトップ交代の実行などが、伸びた理由だった。一番搾りとラガーの二本柱をやめ、一番搾りへの集中は96年以来の懸案だったが、ようやく果たせた。
なお、前出の桑原は人の育成で知られていた。今年3月、キリンビール社長からキリンホールディングス社長に就いた磯崎功典、同1月に営業会社のキリンビールマーケティング社長を兼務したままキリンビール社長に就任した布施孝之、キリンビバレッジ社長の佐藤章らは、桑原の薫陶を受けている。
有能なリーダーは人を育て、同時に会社のなかでリーダーの教えは伝承されていく。
徳島支店の営業マン安藤毅は、13年9月に本社マーケティング部に異動する。入社して3年半が経過していたが、徳島では2年間働いた。

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