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特集

【新連載「大衆酒場の創世記」】第二夜 神田神保町『兵六』 柴山真人・茅野邦枝

大衆酒場は、誰よりも優しい友人である。
寄り添い、身を委ねれば、すべての言葉に素直に耳を傾けてくれる。
洒落た警句や、野暮な横槍なんていらない。欲しいものはただ静かな慰安と、
挫けそうになる心を、少しだけ痺れさせてくれる幾杯かの酒だけなのだから…。

平成の世を席巻した名だたるチェーン店が崩壊して行く現代、
いよいよ「個店」の時代が始まろうとしている。
よその店にはない強烈な個性、徹底したホスピタリティー、
週何度でも通えるリーズナブルな価格設定…。
そのオリジンは、今も昔も人々を惹き付けてやまない老舗大衆酒場にあった。
友よ、すべての答えは昭和の黄昏の中にある。


試行錯誤の果てに生まれた大衆酒場の憲法

外観2六は昭和23年、終戦間もない神田神保町で産声を上げた。東京大空襲によって焦土と化した帝都は、未だ所々に広大な荒野が広がっていた。しかし、既に戦前から世界に名だたる本の街だった神田神保町は空襲を免れ、古本屋を中心に昔の町並みが残されていた。

司馬遼太郎の『街道をゆく』には、「神保町の古書が焼失することは、文化的に極めて大きな損失である」として、この一帯のみアメリカ軍が空襲を避けたという記述がある。街全体が知的財産とも言える由緒正しき街で、常に人々に愛され続けている一軒の大衆酒場がある。日本のカルチェラタン、神田神保町を代表する名店、民衆酒場「兵六」だ。

「上海の東亜同文書院を卒業した父は、終戦まで上海の領事館で秘書として働いていました。ですから、近隣の日本人たちを帰国させた後に最後の引き揚げ船に乗り、家族6人リュックを背負って、すべてを失い無一文で引き揚げてきました。故郷である鹿児島の港まで4日以上もかかって、その間に、人がバタバタと亡くなって行く姿を幼心にうっすらと覚えています。亡くなった方たちを水葬にして流すのが辛かったと、後年よく父が話していました。みんなが脱いだ靴がたくさん並べられている甲板で、横になって寝ていた父の姿をなぜだか今もはっきりと覚えています」。

魯迅日替わりの料理を仕込む手を休め、初代平山一郎氏の次女、茅野邦枝さんが物静かだが通る声でゆっくりと話し始める。兵六では、初代が定めた「兵六憲法」(後述)によって、決して女性が接客をしないため、邦さんこと茅野邦枝さんの肉声を聞く機会はふだん滅多にない。
兵六の初代平山一郎氏は、藤島武二が師事した四条派の画家平山東岳の子孫にあたり鹿児島に生まれた。後年、国際都市上海に渡り東亜同文書院に入学、諸氏と交遊し、かの魯迅とも邂逅している。当時、大志を抱いた若者たちは、小さな島国に飽き足らず大陸を目指した。今でも、兵六の縄のれんの上部には、初代が敬愛した魯迅の詩と肖像写真が掲げられている。

「横眉冷對千夫指 俯首甘為孺子牛」
(眉を横たえて、冷やかに対す、千夫の指。首を伏せて、甘んじて孺子の為、牛とならん)。

幾多の論敵の非難には、冷やかに眉を挙げて決して屈しないが、人民の為なら首を伏せ低姿勢で甘んじて牛になろう。その決意のままに、安保闘争盛んな頃には、店に逃げ込んで来た学生たちを匿った。日本のカルチェラタンに兵六あり。いつか伝説の酒場になった兵六は、如何にして産まれたのだろうか。

一郎2「志半ばにして、鹿児島の実家に引き揚げた父は、しばらくすると『これからは東京だ』と家族を説得して上京、練馬に家を借りて、家族6人で暮らし始めました。父が本が大好きだったので、『本をやろう、じゃ神保町だ』と言うことで、最初は本を仕入れては担いで行商して回っていました。当時は印刷物の流通も少なく、活字に飢えている方たちが多かったので、本はとてもよく売れたみたいで、その収入が兵六開店の元手になったと聞いています」。

しかし、初代が開店したのは書店ではなく酒場だった。
店名の兵六とは、鹿児島の説話『大石兵六夢物語』から取られたもの、初代に通じる一刻者(頑固者)が活躍する話だ。九州では「兵六餅」という伝統的なお菓子があり、兵六の名前は多くの人たちに浸透している。鹿児島=薩摩隼人を強烈に印象づけるネーミングを選んだ初代。だが、そのネーミングが活き活きと歩き始めるにはまだ時間が必要だった。

「ずっと役人でしたから、父にとって客商売は苦手だったんだと思います。最初の頃は、お客さんが集まらず低迷していた時期もありました。ですから、夏にはかき氷をやってみたり、冬には珈琲を出したりと、今の兵六では考えられないメニュー構成だった時期もあります。確か、自分が好きだからとカレーも作って出していました」。

兵六の危機を救ったのは、久しぶりに再会した旧友、当時の鹿児島市長との酒席から生まれた。店には確固たる信念と使命、明確なオリジナリティ、そして、変わらないクオリティがなければならない。現代に通じる大衆酒場の黄金律は、正にこのとき誕生した。

「自分のルーツである鹿児島のマインドを色濃く打ち出して、質実剛健な気風を店に持ち込もう。特級酒だ、一級酒だと、清酒一辺倒だった当時の居酒屋に、郷土の酒である芋や麦、米の本格焼酎を浸透させよう。料理は、子どもの頃から慣れ親しんだ薩摩料理と、上海時代に覚えた本格的な中国料理を出そう。その一連の思いをまとめたものが、店のマニフェストとも言うべき兵六憲法でした」。

兵六憲法
一、居酒屋兵六に於いては店の女がお客にお酌する事を厳禁す。
一、葷酒山門に入るを許さずとは反対に、
居酒屋兵六の山門内ではアルコール抜きの飲物は一切売るを許さず。
一、宣伝広告は必要止むを得ざるもの以外厳に慎む様心掛ける事。
一、兵六店内の大掃除は遠慮す可き事。
一、清酒は地酒の二級酒に限り特級や一級酒は絶対に置かぬ事。
一、洋酒、泡盛等は御遠慮申上げる事。
一、 日本の代表的な酒である蒸留酒の焼酎を皆に再評価して頂く様大いに宣伝する事。
一、居酒屋兵六は半分は店主のものであるが半分は社会のものと心得置く事。

何れも現代に通じる大衆酒場の教科書とも言える内容ばかり、当時の東京ではヌーヴェルバーグだった焼酎をクラフトビールや、ヴァン・ナチュールに代えれば、現代の酒場にも応用できる名言ばかりだ。最後を締めくくる「半分は店主のものであるが半分は社会のもの」、酒場はパブリックであるべきという一説は、すべての若き経営者が見習うべき大衆酒場の指針とも言えるべきものだ。

変わり続けて行く創意と変わらないホスピタリティ

「芋は『さつま無双』のお湯割り、米は『峰の露』を冷凍庫で冷やし、麦はそのままストレートで、後は清酒とビール大瓶。ドリンクメニューは、ただそれだけ。焼酎の銘柄も最初に置いた3つのみ。ただ麦だけが、中身はそのまま、途中で名前が変わったりしたので、単に『むぎ焼酎』と書かれています。みだりに酒の銘柄を変えて、客を混乱させない、というのが初代の考え方でした。飲み方も決まっていて、例えば芋のロックや、麦のお湯割りはお出ししません」。

厨房のスタッフから少し遅れて店に入る現代の主人、兵六三代目に当たる柴山真人さんが語り始める。高音でシャープな声は、遠い記憶の中の初代にとてもよく似ている。シャキっと伸びた姿勢の良さと、てきぱきとした身のこなしも初代そのままだ。

「1988年に伯父が85歳で亡くなってからは、その息子がカウンターに入ったり、何人かのバイトがカウンターに入りました。でも、客に淘汰されるのか、店に淘汰されるのか、誰もうまく行かなかったようです。その内、二まわり下の弟に当たる父に声がかかり、父が断ったので僕がやることになりました。兵六に入ったのは、その時が初めてです。ですから、当初は名物の兵六揚げと厚揚げの区別さえつきませんでした」。

兵六揚げ1名物の兵六揚げは、高校生の頃からよく、学校の帰りに店を手伝っていた邦さんの発明だ。子どもの頃から、葱を入れて油揚げを焼いて食べるのが好きだった彼女が、付きだしで出している納豆を入れてみたら、ハイカラでチーズ好きだった母・秀子さんが「チーズも入れよう」と提案。店の名前を付けて出したら、客たちの評判になった。

薩摩揚や鰯の胡麻漬、ししゃも、酒盗、青唐辛子豆腐、丸干しなど、兵六には大衆酒場王道のつまみのほか、炒(チャー)豆腐、炒麺、餃子という上海帰りの3種が並ぶ。酒場の餃子ながら、ちゃんと皮からの手作り。決して、手を抜かない。定番のつまみのほか、鮎の南蛮漬けや、ジャンボ焼売、さつま汁、糠漬け7種盛りなど、日替わりのメニューが豊富なのは、毎日来てくれる御常連への心配りだ。変わらない大衆酒場を支えているのは、絶えず変革を怠らない工夫と、きめ細かなホスピタリティだ。

「ここはご覧の通り、三省堂の通用口の斜向かいですし、並びの『ミロンガ』の二階には有名な昭森社もあったりして、たくさんの作家や詩人、編集者が出入りする酒場でした。当初は女人禁制だったと聞いていますし、うるさい客や酔っぱらいは容赦なく帰されたみたいです。客が店を選ぶと同時に、店が客を選ぶことも大事だと言うのが伯父の考えで、そうしてふるいにかけられたお客さんたちが、今の兵六を作ってくれたと思っています」。

四戒真人さんが座る頭上には、今では煙草の煙ですっかりセピア色になった色紙がある。初代が定め、幾多の客たちが守り抜いて来た「兵六四戒」だ。

「他座献酬 大声歌唱 座外問答 乱酔暴論」

他の席の人にお酌をしない。
大声で歌わない。
他の席の人と議論しない。
酔って暴論を吐かない。
今も昔も、兵六の秩序を守って来た「四戒」は、同時に1人で酒を楽しみ、兵六の時間を楽しもうとする客たちを守る盾でもあった。

「四戒」の周りにずらりと並ぶ色紙も、もちろん芸能人や食通たちのものではない。林芙美子に、高村光太郎、壺井繁治、吉屋信子。どれもが昭和を代表する文人たちの達筆だ。林芙美子は「花のいのちは短くて」の名文句を慣れた字で書き、高村光太郎は細く角張った字で『智恵子抄』の一説を記している。

「秋が来て/友の差入れてくれた/林檎一つ掌(てのひら)にのせると/地球のように/重い」

思想犯として投獄された、詩人・壺井繁治が獄中で詠んだ詩を読むたび、いつも目頭が熱くなり、芋焼酎をぐっと飲み干す。

大衆酒場はあらゆる束縛から個人を開放する

「今の店舗は向いの三省堂が火事になった時、通路が狭く消防車が入れなかったため、少しだけ九段側に移動して建てられたものです。今では冷房も入りましたが、できるだけ、全体がブラインド状のルーバー窓になった三方の壁を開放して、自然な風が通り抜けるように心がけています。和紙を貼った障子状の天井や、床に保湿効果が高い大谷石を使うなど、店舗には高温多湿な日本の夏を過ごすためのたくさんの工夫が凝らしてあります。丸太のベンチシートに座るためのカウンター裏の溝は、強い酒に酔った時に身体を支える時にも重宝します」

ルーバー窓が開け放された兵六は、離れて見ると夜の神保町で船を照らす灯台のように見える。「四戒」に守られた敷居が高い厳格な店は、実は一人ひとりが孤独な旅人に過ぎない街の酔っぱらいたちを、優しく包み込むような慈愛に満ちている。

「兵六には将来も電話を置くつもりはありません。酒場はあらゆる束縛から解かれてホッとできる場所だと思うからです。人と接するのが上手じゃない人、社員旅行の季節が訪れる度に憂鬱になる人、結婚はしたけれど家庭で寛げない人、会社に自分の居場所を見つけられない人…。家庭サービスとか、明日の仕事とか、いろんな束縛からほんの少し自由になって、自分のペースで1人になって癒されて欲しい。頑張ってる人が少しでも明日への活力をチャージできたら、酒場の主人として本望です」。

産婦人科の先生、占い師、デザイナー、詩人、商社マン、文学好きのカップル、ドイツ人の教授、焼酎とジャニーズが好きな近くのOL…。誰もが兵六の縄のれんを潜ったとたん、ただの無名の酔っぱらいになれる。誰も隣りに干渉しない、でも、いつも暖かい視線で見ていてくれる。美味しい酒と、極上の料理と、加熱し過ぎない穏やかな会話がある。
今日も兵六では、無骨で優しいハートたちが肩を寄せ合い焼酎を楽しんでいるはずだ。

2人

『兵六』
東京都千代田区神田神保町1-3-20
電話なし
営業時間:17:00~22:30
定休日:土曜・日曜・祝日

■著者プロフィール 森 一起
1956年佐賀県生まれ。プロのミュージシャン、作詞家としても活動してきた異色のフリーライター。コピーライターやエディターとして、数々の有名誌を手がけてきた。現在は、「料理通信」やグルメ情報サイト「dressing」などで、飲食店を題材にした人気連載を執筆中。

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