
株式会社Numbers 代表取締役
達川 京平氏
出身地:京都府福知山市
生年月日:1999年2月27日生まれ。
企業ホームページ:串焼きと煮野菜 下北沢の零や(HP)、焼野菜 銀河団(HP)
フードスタジアムヘッドライン:

1982年東京都生まれ。成蹊大学卒業後、各種広告関係営業、外食企業のプロモーション・広報を経て、2014年1月、31歳で外食メディア「フードスタジアム」フードスタジアム株式会社 代表取締役就任。飲食店若手経営者の会「外食5G(現RX)」初代サポーター企業リーダー。2020年3月、株式会社ミライーツを設立。飲食業界における幅広い人脈、情報を持ち、飲食企業のサポートに従事する一方、本連載「クロスロード」では独自に記事の取材・執筆・文責を手掛ける。
ロード1

経営者一家に生まれるも…家は「カビの生えた畳の家」だった
——今日は達川くんのパーソナルな部分を深掘りしたいんだけど、そもそも生まれは京都の福知山市なんだよね。どんな子どもだったの?
達川さん: そうです、京都でも北近畿エリアの福知山っていう内陸の町ですね。僕が幼稚園ぐらいのときに、父が元々おばあちゃんがやってたお好み焼き屋の跡地で創業したんですよ。苗字が達川(たつかわ)なんですけど、地元じゃ親族がみんな経営者一家みたいな感じで。ゼネコンとか土木、産廃、パチンコ屋とか、飲食以外の事業をやってる親族がたくさんいたんです。ただ、うちのじいちゃんが8人兄弟の6番目だったんで、継承するポストがあんまりなくて。その長男が僕の父なんです。だから親族の集まりとか葬儀とかに行くと、もうすごくて。1000人ぐらい人が来て、黒塗りのベンツとかセルシオがずらーっと並ぶような、いかにも田舎の経営者一族って感じ。でも、うちの家は全然豊かじゃなかったんですよ。
——え、そうなの!? 周りからは「お金持ちなんでしょ」って思われてたでしょ。
達川さん: めっちゃ言われましたね。でも全然そんなことなくて。じいちゃんにポストがなかったから、うちの父もそこまで…って感じで。僕が小学校低学年ぐらいまでは、カビの生えた畳の、築何十年っていう1LDKのアパートに家族4人で住んでましたから。世間とのギャップがすごかったですね。父もまだ創業して1店舗ぐらいの時だったので。僕が大きくなるのと同じタイミングで、父の会社も少しずつ大きくなっていった感じです。
――ええ! それは意外すぎる…。
達川さん: 「父もまだ創業して1店舗ぐらいの時だったんで。僕が大きくなるのと同時に、父の会社も少しずつ大きくなっていった感じですね」

――なるほど達川くんのバックボーンは、お父さんが飲食経営者だったというわけですね。
達川さん: 経営者って言うほどではなくて、まだまだ現場にがっつり入るようなプレイヤー兼経営者みたいな感じでしたよね。なのでほとんど家にいなかったです。小さい頃は父のことを父と認識できていない瞬間も 多分あったと思います。
――地元では、どんなキャラだったんですか?
達川さん: 明るいキャラクターでちょけてましたね(笑)。今と変わらない感じでですね。昔から別に勉強が嫌いでも好きでもなかったんですけど、テストの前になると一夜漬けでやって100点取っちゃうみたいな感じのキャラクターで、スポーツもぼちぼちという感じでバスケットと水泳をやってたんですけど、母の教えで「水泳やっとけば何とか潰しが効くだろう」ということでやっていましたね。小学校から中学校入ったぐらいにバスケットをやっていましたね。身長が低かったんで、ポイントガードというポジションで。ぼちぼち上手いかなって感じで、めちゃくちゃ特質してそれで推薦が来るかとかいうレベルではなかったんですが、普通にレギュラーは取れていたって感じです。
――福知山という土地は、どんなところなんですか?
達川さん: 皆さんが思い描く「京都」というと京都市内だと思うのですが、大体そこから電車で2時間ぐらい行った北近畿のターミナル駅です。市町村合併して7万人ぐらいの市なんですけど比較的市全体の面積は広いんで、ちょっと行ったら山や畑だとかいう感じですね。駅前も21時以降は人はほとんど歩いてないような場所です。地安は、比較的安定しているかと思います。結構大きい陸上自衛隊の駐屯地があるんですよ。そこの方々が結構人口の割合に対して、地元で飲食してくれるという感じです。車で来られて、タクシー代行で皆さんお帰りになるって感じです。
ロード2

学費を稼ぐためのはずが…17歳で経営者に!?
——普通なら中学、高校と進んで…ってなるけど、達川くんの場合は17歳で店主になるわけじゃない。飲食の道に進もうっていうのはいつ頃から考えてたのですか?
達川さん: いや、逆にもう『絶対やらないだろうな』って思ってました(笑)。ただ、小学校の卒業文集には「将来社長になる」とは書いてましたね。中学2年ぐらいまでは、ずっと大学に行きたかったんです。というか、とにかく都会に出たくて。親を納得させる一番の言い訳が「東京の大学に行く」ってことだったんですよ。
——それで猛勉強したと。
達川さん: まあ、ちょちょっとやれば勉強できたんで、町で1、2番目ぐらいの進学校に入って。でも、うちは男4兄弟の長男で、私立大学に行くなら学費は自分で出しなさいって言われてたんです。だから、その学費を稼ぐために、中3のときから履歴書の年齢を1年偽って居酒屋でアルバイトしてました。
——中3で!? すごいね(笑)。
達川さん: その経験が後々効いてくるんですけどね。高校に入ってからもバイトは続けてて、高1の夏ぐらいから父の会社でも働き始めたんです。どうせならってことで。そしたら、高校3年生になる春ですね。父の会社の創業店で、僕が引き継ぐ直前まで業務委託で入ってた人が、売上が振るわずに飛んじゃったんですよ。
——えええ!
達川さん: ある日突然もぬけの殻になってて。会社では「もうあの店は潰して倉庫にするか」みたいな話が上がってたんです。それを小耳に挟んで、「だったら僕にやらせてください!」って。改装費もかからないし、このままの状態でやれますからって、父の会社の役員会議でプレゼンしたんです。
——お父さんから言われたんじゃなくて、自分から立候補したんだ。
達川さん: そうです。むしろ僕以外にもやりたいって社員さんが何人かいたんで、その人たちも口説き落として。父からは「2代目とか会社を継がせるつもりはない」ってずっと言われてましたからね。「社長の息子」じゃなくて「達川京平」として見られたいっていう気持ちがずっとあったんで、助けを請うっていうよりは、自分でやるっていうのが第一でした。
貯金300万が半年で消滅。地獄からのV字回復
——それで17歳、高校3年生の春に独立開業するわけだけど、お店の場所はどんなところだったの?
達川さん: それがもう、駅から徒歩25分ぐらいかかる丘の上の住宅街のど真ん中で。最寄りのコンビニまで歩いて30分みたいな(笑)。マンパワーがめちゃくちゃ必要な場所だったんですよ。僕が引き継いだときの売上は、15坪で月100万円ぐらいだったかな。
——うわー、厳しいね。引き継いでからはどうだった?
達川さん: 最初は学校にも行かなきゃいけないんで、父の会社の社員さんに2人付いてもらって、補助輪付きでスタートしたんですけど、3ヶ月ぐらいは全然売上が上がらなくて。中学の時からバイトで貯めてた貯金が300万円ぐらいあったんですけど、それが引き継いでから半年で全部溶けましたね。
——マジで!? 2年ちょっとで貯めた300万が…。
達川さん: はい。1日も休まず働いても毎月キャッシュアウトしていくんで、もうあと2ヶ月このままだったらギブアップだなっていうギリギリのところでした。でも、そこからようやく常連さんが付いてきてくれて。
——売上はどう変化したの?
達川さん: 半年経ったぐらいで、月商100万円だったのが300万円を超えてきて。最終的には350万から400万円ぐらいで安定するようになりましたね。田舎なんで広告も効かないし、当時はインスタとかもやってなかったんで、ほんと地道にやってました。
未成年で銀行からプロパー融資!? 地方マーケットの限界
——その1店舗目の成功から、一気に出店していくんだよね。
達川さん: 1号店を1年半ぐらいやって、19歳になる手前で2号店を出しました。これは完全に自分たちの直営店です。業務委託だとどうしても利益が残らないんで。福知山って市街地人口が3万人ぐらいしかいないんで、週に何回も来てもらわないと商売にならない。だから、ドリンクを全部100円で売るっていう戦略をとったんです。
——大胆だね!
達川さん: その店が初月からしっかり売れてくれて、坪月商20万円ぐらい。田舎だと家賃がめちゃくちゃ安いんで、それで十分利益が出るんですよね。そこから出店ペースが早まって、1年に1店舗ぐらいのペースで。3店舗目までは全部自己資金で出しました。まだ未成年で金融機関から借りれなかったんで。
——すごいな…。
達川さん: 4店舗目を出すとき、19歳ぐらいだったかな。初めて一人で銀行に融資の相談に行ったんですよ。そしたら担当者の方も「誰だこいつは」ってなりますよね(笑)。でも、それまで無借金で売上も倍々で伸びてたんで、確定申告書とか見せたら、なんと2週間でプロパー融資が下りたんです。
——19歳でプロパー融資は聞いたことない(笑)。
達川さん: その資金で4店舗目を出したんですけど、そこで既存店の売上が少し下がっちゃって。カニバっちゃったんですよね。それで、ああ、もうこの商圏にはこれ以上お客さんはいないんだなって。このエリアだけで増やしていくのは難しいなと感じて、元々憧れのあった東京でやりたいなっていう思いがどんどん強くなっていきました。
ロード3
いざ東京へ!金髪の青年、1年間の武者修行
——それで東京に出てくるわけだ。僕と会った2020年頃は、確か金髪のイケイケな感じで「100店舗やります!」って言ってたよね(笑)。
達川さん: ははは(笑)。今思えば恥ずかしいですけどね。当時は多店舗展開しか成功の道はないって思ってましたから。でも大山さん(インタビュアー)と狩野さん(和音人 代表)とかに「まあまあ、落ち着きなさい」って諭されて(笑)。
——それで、すぐにお店を出したわけじゃなかったんだよね。
達川さん: 最初、中野で決まりかけてた物件が大家さんの離婚調停中でダメになっちゃって(笑)。そこから1年間、納得できる物件がなかったので、いろんな外食企業でアルバイトさせてもらうことにしたんです。
——へぇ! どこで働いていた?
達川さん: ベイシックスの『ミートマン』とか、あとは中村雄斗さんの『日本酒原価酒蔵』さんとかで働かせてもあっていました。当時連れてきてた社員2人も一緒に東京に住んで、それぞれ違う会社で1年間勉強させてもらいました。そこで、安売りするだけじゃない飲食店の価値っていうのをめちゃくちゃ学ばせてもらって。自分の会社の作り方に対する考え方が少しずつ変わっていきましたね。
下北沢『零や』誕生秘話と成功の裏側
——その1年間の武者修行を経て、どういう経緯で下北沢の物件に?
達川さん: いろんな不動産屋さんに顔を出してたんですけど、そのうちの1社から「こういう物件あるけどどう?」って紹介されて。それが今の『ゼロ屋』の場所です。最初は窓も塞がれてたし、専用階段でもない空中階で。結構躊躇したんですけど、一目見て「絶対これならできる」っていう自信はありました。
——あの物件を見て、そう思えるのはすごいよね(笑)。
達川さん: ちゃんと改装すればいけるなって。そもそも僕ら田舎から出てきたんで「下北沢は商売が難しい」みたいな定説も知らなかったんですよ。むしろ「駅前にこんなに人がいる!夜10時過ぎても歩いてる!」って感動してましたから(笑)。絶対できるっていう確信しかなかったです。
——『零や』はオープン当初から絶好調に見えたけど、実際はどうだったの?
達川さん: いや、最初の3ヶ月ぐらいは結構苦労しました。売上も300万〜400万円ぐらいで。でも、毎日営業してる中でお客さんの反応がすごく良くて、「この人たち、絶対また来てくれるな」っていう確信があったんです。それが3ヶ月目ぐらいから口コミで一気に広がって、売上がグガガガッて上がっていった感じですね。
——なるほどね。それで今や、平均月商850万円ぐらいの繁盛店になったと。
達川さん: そうですね、いいときは1000万いかないぐらいにはなっています。

東京2店舗目の「焼野菜 銀河団」も絶好調。「(取材来るのに)暇だったらどうしようかとお思いましたが、良かったです(笑)」と達川さんは笑う。
目指すは「終身雇用」。そして35歳で海外へ
——これからのnumbers、そして達川くん個人の展望を聞かせてください。
達川さん: 店舗数ももちろん追い求めたいんですけど、それ以上に1店舗あたりの質を重視したいなって思ってます。僕らは出店するときに、投資回収率(ROI)が8%以上、つまり『1年で投資回収できる物件しかやらない』っていうルールを設けてるんです。年商を追い求めるよりも、太くて長いお店を作りたい。その先に、社員の給料とか待遇を良くするため、彼らが結婚して家族ができたときに独立支援ができるようにするために、会社の規模が必要になってくる。だから、時代に逆行してるかもしれないですけど、『終身雇用ができる飲食企業』を作りたいんですよね。
——いい目標ですね。個人的な夢は?
達川さん: 35歳ぐらいまでには海外でお店をやりたいですね。福知山から東京に来たときも、同じ日本なのに違うゲームをやってるような感覚でめちゃくちゃ面白かったんで。それと同じように、またゼロから海外でチームを作って、町で一番の飲食店を作りたいなって思ってます。
——楽しみだね!最後に、すぐそこにできる新店舗はどんなお店かお聞かせください。
達川さん: ありがとうございます! 次のお店は僕らにとって東京エリア初の路面店で、『焼き鳥とお野菜』をテーマにしています。下北沢って安い焼き鳥屋さんは多いんですけど、ちゃんとした焼き鳥屋さんって意外と少なくて。かといって高級すぎるわけでもない、その中間の層を狙ったお店です。いつもは恵比寿とかで飲んでるような人たちにも「たまには下北もいいじゃん」って思ってもらえるようなお店にするので、ぜひ来てください! 5月上旬にはオープンします!
――素晴らしいです。本日は、貴重なお話をありがとうございました!
編集後記
初めて達川くんに会ったとき、「この金髪の子は一体何者なんだろう」と思ったのを今でも覚えています(笑)。当時、彼はまだ10代でした。17歳で独立し、「100店舗やりたい」と語るその姿に、確かな可能性を感じたものです。今では、その100店舗という数字も、単なる目標ではなく、1店舗1店舗を大切に積み重ねてきた結果として捉えているのだと思います。実際にお店を訪れてみれば、彼や会社のすごさがきっと伝わるはずです。これからの活躍も、引き続き応援しています。(聞き手:大山 正)
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