ロード1
- ・子供時代のいじめ
- ・チームスポーツ
- ・中学生で大人社会
- ・飲食業との出会い
幼少期のいじめ、そしてチームスポーツで仲間の大切さを知る
狩野氏:(以下省略)生まれた場所と言いますか、あまり裕福な家庭ではなかったので子供の頃はかなり苦労しましたね。
性格的には負けず嫌いではあったかとは思います。みんなで何かに取り組むというのは好きだったですね。個人競技とかはやったことなくて、ずっとチーム競技、野球とかバスケをやっていたので、みんなで何かを成し遂げる、成果を残すということに喜びを感じていたというのはあると思います。
それで転機と言いますか、小学校4年生の時に、結構わかりやすい「いじめ」に遭いまして、それがグレるきっかけだった気がします。笑
いじめの克服。縦社会の中で「人を見抜く力」を身につける。
1年位はもう思い出したくないくらい辛い日々でしたね。転校生がわかりやすいいじめっ子で、それまでは平和だったのですが、一変した感じです。自分以外もいじめられている子がいて、その子がいじめられている時はいじめもやらされるし、嫌でしたね。ただ正義感はあったのでこの状況を打破しなければいけないというのはあったので、一年位してひっくり返したという感じですかね、全部を。
それから中学生になると学校外の友達と遊ぶようになって、シングルマザーの子達が多くて、決して順風満帆な家庭の連中ではない、そんなメンバーと夜な夜な会うみたいな。気づいたらそんな感じになっていました。言えないですけど、たいていの悪いことをこの時期にしていたって感じですかね。笑
正直、いい学生ではなかったですね。
それでもそういうコミュニティがあったことは僕の中では救いでしたし、今冷静に分析してみると、社会に出た時のコニュニケーションとか縦社会といったところはこの頃に学んだと思います。ヤンキーの世界って、めちゃくちゃかっこいい人もいるんですよ。いろいろなことを乗り越えて仲間を大切にしていたりとか、いろんな人を束ねてファミリーみたいにみんなをハッピーにするんだ、みたいな人もいれば、すごく卑屈になっていて、たくさんの人を騙したりって人もいたり。
人間のいいところも悪いところも見ましたし、このリアリティのある学び、というのはこの時期に叩き込まれてたというか、社会に出た時にめちゃめちゃ楽でしたよね。
「こういう人はこういうタイプなんだな」とか「こういう人とはこう付き合うべきなんだな」というのをしっかり学べましたし、本物と偽物の線引きみたいなものが自然とできるようになっていたというか。
結局、人との出会いや環境で自分の人生って決まっていくと僕は思っているんですよ。なので素晴らしい人と一緒にいれば素晴らしい未来が待っているので、そういう意味では人を見る目みたいなのはこの時期にかなり鍛えられたというのはあると思います。
幼少期からの多感な時期が人間のパーソナリティを作ると思っているんですよ。なのでそういった意味では、いい経験をさせてもらったなと思っています。
15歳で天職「飲食業」との出会い
実家が飲食店ということもあったのですけど、うちの親は「店を継ぐな」って人だったので、外に出て勉強しろという感じで、もちろん家も裕福ではなかったのでとにかく稼がなきゃいけないというのがありました。
それで焼鳥屋で働くことになった感じです。家から徒歩15秒くらいのところに「焼鳥 一番」って、大将のところに通い始めるのですが、それが15歳でしたね。朝から晩まで働くといった感じでした。
周りの友達はほとんど職人になるんですよ。鳶職とか内装屋とか。僕はそのときから、お金を自分で稼ぐってのが好きで、とにかくなんでも挑戦したいし、やればやるほど認めてもらえるっていう「承認欲求」を埋めてくれるような場所がそこだったかなと思います。
学校では「クラスのガンだ」とか大人たちに言われてたりしたのに、社会に出ると自分が認められて評価されて、おまけにお金も稼げて。こんないい世界はないなって本当に心の底から思えましたね。
それまで大人がずっと嫌いだったんです。ですが、仕事を始めたらそこにいた大人たちがみんな優しいというか、頑張れば認めてくれるし、お客さんも名前呼んでくれて「仕事できるようになってきたね」とか褒めてくれて。そういう一個一個が嬉しくて飲食店の仕事ってこんなに楽しいんだな、って思えたんですよね。これは他の仕事だと、なかなか味わえないんじゃないかと思うんですよね。他の仕事だと褒められても上司からだけだったりするわけじゃないですか。飲食店だとお客さんも褒めてくれるし、こんな素敵な仕事はないなって感じましたね。天職だなってその時に思えたんです。
なのでグラフで言うと、マイナスだった自分がプラスに変わるきっかけというのが、まさに飲食との出会いなんですよね。飲食業がなければ、もっと良くない人生になっていたのは確実でしたね。奇跡的に最初に出会えたのが飲食という仕事だったんです。飲食が僕の人生を救ってくれました。
ロード2
- ・グローバルダイニング
- ・かっこいい大人たち
- ・人生の恩師との出会い
- ・独立を意識
19歳で店長。そしてグローバルダイニングとの出会い
(グラフを見ると)15歳から少し上がっているのですが、19歳の時に初めて店長をさらせてもらうんです。地元で一番有名といっても過言ではないパン屋さんだったんですが、そちらに就職をさせてもらって、毎日朝3時おきで出勤して仕事をするといった感じで毎日忙しくしていました。
その後、地元を飛び出してグローバルダイニングに入らせてもらうのですが、そこで「本物の戦場」を知るというか、そこをきっかけに飲食にどっぷりのめり込んでいくようになるんです。
当時おそらく最年少だったと思うんですよ、20歳のアルバイトがグローバルダイニングのトップレストランである客単価30,000円以上のタブローズに入らせてもらって、「一流」というものを教えてもらうわけです。僕の担当はラウンジだったのですが、その時のお客様はTVに出ているような方々とか大使の方、超一流の方々が来られていて、とても鍛えて頂きました。この年で自分がどれだけできるか、というのをチャレンジさせて頂いていた感じです。そこで大きな成長と体験をさせて頂き、グローバルダイニングが自分の中での飲食人としての基盤を作ってくれたと思っています。
入ったきっかけは普通に求人広告です。当時、プロを目指して音楽活動もしていたので、音楽をやりながら稼げるお店・会社はないかなと思っていて、当時のグローバルダイニングって稼ぐ人はとんでもなかったので。僕も時給950円で入ったんですが、1ヶ月半後には時給1,300円まで上がっていたんで、とにかく実力主義、結果と実力さえあれば圧倒的に稼げるといった世界でやらせてもらっていたな、という感じです。
サービスマンとして影響を受けた人
タブローズラウンジのアントニオ(愛称)さんという方がいるのですが、サービス面という観点では今でもその方に教えていただいたことが軸になっています。それまでは焼鳥にしてもパン屋にしても料理しかやってきていなかった僕にとって、アントニオさんと一緒に仕事をさせてもらって本物のサービスというものを学ぶんです。お客さんとこんなに信頼関係を持って仕事ができる人っているんだと思わせてくれた方でした。オーダーを取りに行っても「アントニオに任せる」と行った感じでVIPのお客さんから圧倒的に信頼されていましたね。とにかくかっこいいんですよ。もちろんバーテンダーとしてのスキルも高かったですし、ワインのソムリエでもあるし、振る舞いも仕草もパーフェクトな方でした。そのアントニオさんに「落語を聞け」と言われて、僕も結構笑いを大事にするタイプなので、話も起承転結を持って話すであったり、幅広い層のお客さんが来るので、広く浅くでいいから勉強しろと言われていました。とにかく僕は未熟者で教養がなかったので、勉強をして日々の営業に臨むといった感じで、そういった全てをあの場所で教えて頂いた感じです。なのでアントニオさんが僕の中では飲食人生を通じて一番のスーパースターという感じです。
22歳で独立を意識。人生の恩師との出会い。
そうですね、グローバルは結局2年ほどお世話になって、それくらいから独立を意識し始めました。ただ、グローバルダイニングのお店って大きすぎるじゃないですか。何億円もかけてお店造るわけなのですが、若くして独立を目指す僕にはリアリティがなさすぎて、ベンチャーなお店で勉強しないとダメだなと思っていたんです。それで当時スペインバルが流行っていて、恵比寿で徐々に勢いを持ち始めた「恵比寿バール」等を運営する株式会社エルアンドエスに入ることになるんです。ポップでカジュアルで客参加4000-5000円くらいのお店も勉強したいなと思いまして。
そこで人生の師匠みたいな方と出会うんです。代表の山田さんという方なのですが、「人間」というものをその人に教えてもらいました。愛を持って笑顔を産むっていうLove&Smile→L&S(エルアンドエス)という会社だったんですが、その山田さんって方は元々お笑い芸人をされていた方で、「素晴らしい人間とは何か」みたいなことを大抵教わりましたね。
それまで僕はすごくカッコつけてスカしていたんですが、もうその山田さんの前に出たら真っ向勝負で裸にならないと全く活躍できないし、とにかく「お客さんそれ笑ってないから」といった感じで、お客様の笑顔を第一に考える方でした。その山田さんも自ら体張ってお客さんに笑いも取りに行きますし。笑
社員ミーティングで、全員一発ギャグさせられるんですよ。笑
前日に言われて、全員プレッシャーの中でやるんですよ。たまらないですよ。笑
写真中央が代表の山田さん、左側手前が狩野さん。
画像:貴重はお写真を発見したので引用させていただきました。
その頃から今のYouTuberじゃないですけど、スタッフたちの誕生日に映像を撮って全力でやるんですよ。そういった経験のおかげで少しは面白い男になったとは思ってます。笑
この会社が僕がいた時にMAXで7店舗まで展開したのですが、アッパー系のバーや焼鳥、スペインバルなど、さまざまな業態を責任者として見させてもらっていました。ガールズバーもあったんですが、めっちゃ大変で、お客さんも一筋縄では行かない感じでしたし笑、普通の飲食では経験できないような勉強をたくさんさせてもらいました。いかにマネージメントというものが難しいものなのか、人間力がいかに大切なのかというのを学ばせてもらいました。それが24歳の時ですね。この時にワインソムリエも取らせてもらいました。当時週一しか休みがないような忙しい日々の中で、その週一のお休みに田崎真也さんのワインスクールに学びにいくという感じで、1年でなんとか取れて良かったです。
独立前の1年半で出会ったかっこいい大人たち
本当は27歳で独立したかったんですけど、1年半物件がなかなか見つからない、貸してくれないという感じで、その間にめちゃくちゃ勉強しようと思って、アルバイトをするんです。その時に株式会社コメールで戸張(※1)さんと出会って、東京レストランファクトリーで 喜鈴(※2) の(鈴木)淳二さんに会うという、これもまた僕の飲食人生の中で大きな出会いをさせて頂く一年半となったんです。タイプは違いますが、人が集まるかっこいい先輩たちにたくさんのことを学ばせてもらいました。
※1 株式会社コメール当時、常務取締役の戸張一輝氏。
関連記事(Foodstadiumより)
※2 全国でも屈指の評価を誇る恵比寿の焼鳥の名店。東京レストランツファクトリーの大ヒット業態「鳥幸」の元責任者兼職人。
(食べログ)喜鈴
この期間は、2社で同時進行でアルバイトさせてもらっていました。コメールではキッチンをやらせてもらっていて、東京レストランツファクトリーではキッチン兼ソムリエみたいな形でやらせてもらっていました。この時期は、相当鍛えてもらえましたよね。
金子さんという方が東京レストランツファクトリーに当時いて、この方も僕の中で最高レベルのサービスマンという感じで、今でもかなり影響を受けています。サービスの大師匠という感じです。店を立て直す時のスピード感とか半端じゃなかったです。まずお店を立て直す時に一番最初にやることが、お店に泊まりがけで店内をピカピカに掃除するんですよ。まず掃除からなんですよね。なので僕も掃除からだと思っています。それが飲食店の基本だと思っています。
その時に、日本酒の勉強させてもらって利酒師を取らせてもらっているんです。
この時期は本当に自分の中でも飲食の大切なことを多く学ばせてもらった一年半だったと思っています。
ロード3
- ・28歳で独立
- ・「外食5G」創設
- ・コロナ襲来
- ・会社崩壊危機
- ・大病経験で得たもの
28歳で独立、半年後に2号店をオープン。繁盛店の仲間入りを果たす。
独立したのは僕が28歳の時で、開店してすぐに繁盛店にもっていけて、その半年後に2号店である「GYOZA SHACK」をオープンしました。
独立1店舗目「和音人 月山」
それまで何をやっても流行らなかったという三軒茶屋の路地裏の店舗で開業し、たちまち繁盛店に。(2015年:Foodstadiumより)
独立2店舗目「GYOZA SHACK」
一号店のわずか半年後にオープンした二号店は月山の坪売上を超え、今も好調に売上を伸ばし続けている。(2015:Foodstadiumより)
独立から半年でGYOZA SHACKをオープンできたというのは本当に奇跡でしたね。月山をオープンして2ヶ月半くらいしたときに、お客さんで地元の不動産の方がいて、その方に「三角地帯で40年やっているお店が閉まっちゃうんだけど、その場所を君たちみたいな若い世代にやって欲しいんだよね」と言って頂いて、即やるという決断をさせて頂いたんですよね。最高にありがたいお話でした。完全に早過ぎたんですが笑、なんとか本丸の月山とアルバイトさんでお店を切り盛りするGYOZA SHACKとで死に物狂いでやって、毎日が戦争のように忙しい日々でしたが、今は決断して良かったなと思っています。
それができたのも、独立前にフースタさんがやられていた勉強会に参加させてもらっていて、錚々たる先輩経営者さんに混じって学ばせてもらって、借入がうまくいったんですよ。独立前に参加してるの僕だけだったと思うんですけどね。なので、その借入が2店舗目の投資にも回せたので、オープンの決断ができたというのがあります。
若手飲食店経営者コミュニティ「外食5G」創設。
「外食5G」の立ち上げというのも僕の中で大きな経験と財産になっていますね。
それまでは外食産業全体のことであったり、未来のことなどは考えずに自分のお店を繁盛店にしよう、という想いで突っ走ってきて、おかげさまで月山もオープン直後から調子が良くて、GYOZA SHACKなんかはオープンから1,2ヶ月で坪売上40万円超えといった感じで、とにかく必死で日々の営業に向き合うという感じでした。
それから、ちょうど30歳のときに同世代で学び合える環境を作ろうということで声をかけていただき「外食5G(現JFRX)」を立ち上げさせて頂くんですよね。
関連記事:次世代の飲食業界を担う、第五世代による「外食5G」が発足!(2019年:Foodstadiumより)
わずか15名ほどの外食経営者から始まった「外食5G」第1回目の様子。(2019年3月)
そこで外食産業の仲間たちとの出会いというのが今の僕にとっては何ものにも変え難いものになっていますね。新井さん(株式会社カオカオカオ 代表取締役)は第一期の後半からの参加ですけど、青木さん(株式会社イタリアンイノーベーションクッチーナ 代表取締役)や須藤さん(株式会社スマイルリンクル)、本多さん(株式会社マーチダイニング 代表取締役)、この幹部の4人と出会えて、僕の人生はすごく豊かになったなって感じています。
全員年上で、年下の僕のことを神輿担いでくれて、サポーターの皆さんにも支えられて。僕にとってはすごく大きな財産となっています。
コロナショックによる会社の崩壊危機
グラフの後半大きく下がっているところですね、これが皆さんもそうだと思うんですが、コロナショックですね。会社が崩壊してしまったので。僕たちは(緊急事態宣言下でも)営業を続行する、という方向で意思決定をしたのですが、家族を持っている社員や、おばあちゃんと住んでいるスタッフもいたので、今を思えばすごく浅はかな判断だったなと思います。そのことが社員のみんなにとって僕の信用を失わせてしまったきっかけだったかと思います。
当時7店舗やっていて、社員4人になってしまったことがあって、とても判断が難しかったんですが、この時はとても辛かったですね。
そこで学んだことは「人と向き合うこと」ですね。僕はそこをサボってしまったので。外食産業の産業構造改革をするであったり、外食産業の地位向上を目指すといった活動にほとんどの時間を費やしてしまっていたので、自分のやっている団体だけではなく、食団連や飲食業経営審議会でも最年少で理事をやらせてもらっているのですが、そこでの役割に時間を使ってしまっていたんですね。
本来僕がやらなければならないことは、社内のスタッフ・社員の幸せと向き合うことだし、それができていなかったから結果として人が離れてしまったんです。この点はすごく反省しています。このことに気付けたことが大きな学びになっていますし、これからもやり続けていくことですね。
生死を分ける大病、それを経験した死生観
2024年2月に脳梗塞で倒れたんです。後遺症で視界の右半分が見えなくて障害者にもなって、そのことで思ったことは、地位もお金も名誉も死ぬ時って何も持っていけないんですよね。
そうなる時っていきなりですからね。スティーブン・R・コヴィー博士の「7つの習慣」では、棺桶に入った姿を想像して逆算してマイルストーンを作っていきなさいって教えじゃないですか。でも今まではリアリティがなかったんですよね。
それが、病室で目が覚めた時に「マジで死ぬとこだったんだ」とリアルに思いました。僕が入院していたのが脳のICUみたいなところのSCUというところだったんですが、消灯すると叫び声が聞こえるんですよ。ずっと叫んでる人もいるんです。そういう環境に居させてもらって、僕自身の命との向き合い方や、何が幸せなんだろうということを考えるようになりましたね。これまでは家族の「か」の字もないくらい仕事一筋でやってきたんですが、病室で目を覚まして3日間くらいは家族のことしか考えられなかったんですよ。正直、会社のことや産業のことなんかどうでもいい、「まず家族」といった感じで。そういう時って「愛」が欲しくなるんですよね。
そこから自分の中で仕事復帰するにあたって、今までは「こういうふうに働いて欲しいな」と言った観点で社員教育していましたが、全部ど返しをして、みんなのキャリアアップのためだけ、全員の人生が幸せになるようにだけを考えて、一緒に見つけていくという方針に変えました。それはうちの会社にいなくたっていいという考え方で、全員が幸せに生きていけるための学び、というのを今、心がけて教育に取り組んでいます。結局は「人」ですよね。
毎年欠かさず行っているスタッフの皆さんとの収穫体験。
一緒に働いているスタッフからも「社長、なんでそんなに変わったんですか」って言われますね。営業中のスタイルも含めて。日和は会員制の店なのでビッとしていないといけない、オープン当初34歳だったんで舐められてもいけない、というので気合いで営業をしていたのですが、今はもうお客さんが笑顔になってくれて、自分たちも「いい営業だったね」と言える毎日を過ごすことができればそれが一番かなと思っています。もっと接客も含めて「あつさ」より「あったかさ」を大切にしていますね。劇的に価値観は変わったと思います。僕がいなかった4ヶ月間、会社を店を守ってくれたスタッフには本当に感謝しています。
最後に僕は「お前と出会ってよかった」「狩野高光と出会えて人生が豊かになった」と言って頂けるような人生を送って死にたいなと心の底から思っています。利他の精神ですね。利他を通らない利己ってないですよね。人のためにこれからも一生懸命、生きていこうと思っています。
取材後記
今回、新たな連載を始めるにあたり、「私にしか、私たちにしかできない切り口の企画にしたい」と悶々と考えていました。これまでの飲食経営者のインタビューは独立・開業前後から今に至るまで、そして今後の展望についてフォーカスを当てて取材をしてきたものが多かったかと思います。しかし、今の「経営者」を創り上げているものは必ずしも大人になってから、仕事を始めてからに留まらず、幼少期から今に至るまでの体験や生活、挫折や挑戦などさまざまな「ルーツ」そして「転機」といったものが大きく関係しているのではないかと思い、今回の企画をスタートすることにしました。経営者自身にライフチャートを描いて頂き、これまでの人生、そして独立・開業後の良かったこと、大変だったなどを踏まえてインタビューしていきます。
その第一弾として、この方しか考えられませんでした。笑
独立前から注目をさせて頂き、共に未来の飲食店経営の形を創っていこうと活動を行ってきた狩野高光さん。開業前(26,27歳ころだったと思います)からフードスタジアム主催のセミナーや勉強会に積極的に参加してくれていました。開業後も「(三軒茶屋の中で)あんな場所では難しいと思うよ」という周囲からの下馬評をもろともせず、大繁盛店経営者となり、今では店舗経営のみに留まらず、外食産業の地位向上・生産性向上のための活動においても欠かせない存在となっています。長いお付き合いをさせてもらっていますが、全然聞いたことのなかった話が次々と出てきて、とてもおもしろく、あっという間に取材時間が1時間半、かなりのロングインタビューとなりました。笑
今後も私たちが今注目をしている経営者の方々を取材していきたいと思っておりますので、楽しみにして頂けましたらと思います。(聞き手:大山 正)
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