<イノセント・カーベリー メインシェフ岡田賢一郎>
-まず今回の開店にいたるストーリーを聞かせてください。これまで表に出てこなかった岡田さんが、突如として焼肉というスタイルで登場した。これはお二人の再会がきっかけですか。
井上盛夫氏(以下、井上) 岡田がいてのこの場所というわけでもなく、物件自体は2年前からおさえていて、何をしようかなと考えていました。実は去年の2月、神戸牛専門店
「engawa(エンガワ)」をロンドンに出店し、そこで外国の方と接する機会が増えたんですね。それで「和牛を世界へ」と発想しました。課題として、和牛をどのようなイメージで海外に打ち出していくべきかということがはじめにありましたね。和牛を世界に持っていくのに、通常の焼肉ではダメだと思ってるんですよ。海外の焼肉屋のお客さんのほとんどがアジア人か日本人。欧米人は焼肉を食べる習慣も文化も設備もありません。
一方で、ヨーロッパには「ブッチャー(=食肉店)」というのがある。とあるブッチャーは夜になったら、店内がレストランに変わるというのがあって、ピンと来たんですよ。「面白いなこれ」って。和牛の様々な部位を食べ比べできる店、というイメージが固まっていました。そうこうしている間に、岡田と再会しました。
岡田賢一郎氏(以下、岡田) たまにやり取りはしていましたよ。2002年に井上が「ちゃんと」を辞めてすぐは会っていませんでしたけどね。いろんなことありましたけど、一番思うのは、井上はすごい猛獣使いだということですね。なかなか猛獣使える人っていないじゃないですか。僕みたいなものは絶対雇わないと思うんですよね。井上盛夫しかいないですよ。
-猛獣中の猛獣使いですね。(笑)岡田さんは頑固な料理人でありながら、あれだけ大きな会社をやっていた経営者ですからね。それで、どっちからともなく一緒にやるという感じになったんですか。
井上 そうですね。
岡田 最初にひとこと言われたんですよ。去年の3月ごろですね。「もう料理する気はないの?」って聞かれて、答えられなかったんです。「弟の店を手伝ってるけど」と言うと「それがそうなんか?」ってね。で、「ごめん、大阪に帰って考えさせて」と言って、大阪に戻りました。
3ヶ月後ぐらいに、「大阪じゃダメなの?」って聞いたら、「だめ。隣りにきて仕事してほしい」と。で、「考えさせて」って言ってまた帰りました。僕は、また東京に出るっていうことはまったく頭になかったんで、大阪にあるソルト・グループの店で皿洗いでもいいから勤めさせてと思っていたんです。
その間も、井上が直接会社のことをいろいろ教えてくれました。今どういうプロジェクトが進行しているのかとか。そうしているうちに東京で一緒に仕事をさせてもらいたい、という気持ちになったんです。
「今度のお店の場所はどこ?」って言ったら、「西麻布。『かおたんラーメン』の前だよ」ってうれしそうに言うんですよ。物件を見に行った時、僕がタクシーから降りたら、うれしそうに歯を出しながら、にこーって笑ってガードレールに座ってるんですよね。もうその顔で全部がわかりましたよね。ほんとに。(笑)
-それでこの焼肉の業態をすると。
井上 そうですね。まずはこの西麻布で、やるかやらないか。やると決めたらあとはもう早かったですね。
岡田 あとはいろいろ片付けもあったんで。大阪からメールをやりとりして。「どうこんなの?」「おもしろいやん!」みたいな掛け合いをして、9月に東京に寄せてもらいました。
<大阪アルバイト生活で一から再修行>
-2011年に、岡田さんが代表をつとめていた「株式会社ちゃんと」が民事再生法適用を申請しましたね。そこに至るまではどういう経緯だったんですか。
岡田 そうですね。僕は2006年くらいからもう仕事をしていなかったんです。会社は残ったメンバーでやる、会社はたたんで、店は売るっていう話になったんです。なので、今は別会社が店を運営しています。
-2006年ごろから業界をフェードアウトしていったわけですね。
岡田 そうですね。いったん引退しました。その後、大阪に帰りました。
-大阪ではどういったことをされてたんですか。
岡田 はじめは仕事をしていない時間が多かったですね。弟の和食の店でアルバイトしたりもしてました。普通に仕事をしたいな、とずっと思ってましたし。
僕、ちゃんと履歴書を書いて就職したことがなかったんですよ。最初のアルバイト先にそのまま就職したんで。で、その後自分で会社を起こすでしょ。大阪に帰って、履歴書を初めて書きましたよ。大手の焼肉屋さんにアルバイトの採用面接に行っても断られたりで、社会って厳しいなって思いましたね。(笑)「一から真面目にやります」って言っても、なかなかそういうふうに思ってもらえなくて。
結局、食べ放題の焼肉屋でバイトをしていました。昼3時から朝6時まで仕事するわけですよ。夜中に仕事をしたことがなかったんですけどね。グリーストラップを初めて掃除しましたね。教えてくれた人に「グリーストラップの掃除の仕方ぐらい知ってるでしょ」って言われた時、心の中で「いや、俺エラかったから、グリーストラップ掃除したことないんだけどなぁ」って思いながら「すみません、昔のやつやったからやったことないんですよ。教えてください」って言って。(笑)勉強なりましたね、本当に。もう一度、50歳で一から修行できたっていうのはよかったです。貴重な体験でしたね。
ちょうどそのころ、「早よ、来てや!いつから来れんの?」って井上から電話がかかってくるんですよ。「8月31日までバイト入ってるからいけない」「なんやそれ?」みたいな話なんですけど。(笑)時給930円、200何十時間働いたんですけど、1分たりとも止まらないんですよ。大阪に帰ってそんなことしてました。
そうやって、ここに立つ前にもう一回修行してきましたから、今は元気ですよ!
<「焼肉」業態、完成形のスタート>
岡田 僕はこれまでに色々経験してきて、地に堕ちました。仕事がないということは、生きる術がないわけですよね。そのなかでよかったと思えるのは、こだわらなくなったことですね。こだわれなくなったといいますか。例えば、昔だったらこれだけ稼いでいるから、こんな車に乗らなきゃいけない、こんな女性を連れなきゃいけない、みたいなのがあったんですよ。
ですが、常に自問自答して、「自分は何をやれるのか」ということをしっかり見つめないといけない。本当にずっと考えていました。だけど、すべてに対して諦めたわけではなくて、自分に最後に残ったのは「料理できるよな」ということだと気づいたんですね。
-負けられない戦いですね。
岡田 負けたことないから大丈夫です。お店をつくるということに関してはね。
井上 岡田が店に立って、負けたことがないんですよ。今まで僕が見てきた中で、本人が厨房に立って、お客さんが入らなないことはなかったんです。時を経ても同じことを言っているから、いけるだろうと。
岡田 この店を任せてもらって、どうにかしなければいけない、というのはありました。焼肉を世界に持っていきたいとか、いろんなことがあるんですけども、一つひとつに応えて、僕は作る側としてお返ししなきゃいけない。焼肉っていうのは10年あれば、ある程度の形にできると思っています。僕、最初焼肉からスタートしたんですよ。10代のときにね。焼肉屋を10年やって、それから「ちゃんと」を20年。素材としてもお肉からはじまって、その後、野菜など色々な食材を扱ったり、アメリカで出店したりするんですけど、ここでもう一度、お肉を扱う技術者になったということは、完成形のスタートじゃないかなと思っています。
「ちゃんと」では、なぜか一軒も焼肉をやらなかったんですよね。
-修行はしたけど、経営はしてなかったんですね。
岡田さんがやる以上は、ただの焼肉だとダメじゃないですか。
岡田 良い素材で仕事をさせてもらっている。これは料理人冥利につきますね。物って奥が深いのは当たり前じゃないですか。そういうことは言っちゃダメだと思うんですよ。「お肉は奥が深い」とか。そんなふうには全然思わないんです。牛さんの命を僕に預けてもらって、おいしいって言ってもらうっていうことだけ。一番シンプルなところを考えて、仕事をしています。
-この店の一番の売りはなんですか。岡田さんが神経を注いで開発した技術、調理方法、サービス方法は。
岡田 一番重要なのはやっぱり基本です。おいしいものっていうのは、エネルギーになると思っています。おいしいものを食べたら、明日一生懸命働こうと思うし。あまり多くのことは考えていませんよ。簡単ではないですが、その日入った素材をいかに美味しくお出しするか、ということを一番に考えています。
-カウンターに座れば岡田さんにお肉を焼いてもらえるんですか。
岡田 そうですね。手の届く範囲で。
-そこから予約が埋まっていくのでは。
岡田 そんなこともありますね。外国人のお客さんがかなり多いんですが、ほとんどが初めて焼肉を食べる人なんです。カウンターで食べるのを見てたら、もうハラハラですよ。まず、和牛が分からないし、タンを食べるのか分からないし、生卵いけるのかも分からないし、いろいろあるじゃないですか。それでも、会話を重ねて、一品一品お出ししていくと、みなさん“AMAZING”って帰っていきますね。すごく喜んでくれますよ。
-そういう意味では、井上さんが狙ったインバウンドにはまってますね。
井上 そうですね。
-これから岡田さんはしばらくここでシェフとして立たれるんですか。
岡田 ずっとここにいますよ。それが一番大事なことですよ。
あとは「教育」ですよね。みんなに仕事の姿勢だとかいろんなことを学んで成長していってほしいですね。このお店、焼肉経験者がゼロなんですよ。だから、ひとつひとつ教えていって。まだまだ課題はありますね。
<14年の時を経て、唯一無二のコンビ再び>
井上 あとはおいしく食べさせてっていうだけですね。(笑)
一緒にやってて面白いですね。はじめは本当はどうなるかって思ったんですけど。こんなに面白いことないですね。「ちゃんと」は僕を生んでくれたところですからね。当時から岡田がルールを作って、空間やコンセプトを考えたりしてたことを、時を経て同じ感覚で仕事ができるのかどうかっていうのは、やってみなければ分からなかったんですけど。やってみたら何も変わってなくて。なかなかそうやって仕事ができる相手は、世の中にいないですから。
-「ちゃんと」にはかれこれ何年ぐらい一緒にいらっしゃったんですか。
井上 僕がいたのは5年ですね。
岡田 すごいいろんなことあったよね。大ファンの矢沢永吉さんに会わせてくれたのも彼やしね。初めてアメリカ連れてってくれたのも彼やしね。そういうことで言うと僕みたいな田舎者に刺激を与えてくれましたね。
井上 「Ken’s Dinning」という店をやってた時、岡田が矢沢永吉さんの大ファンで、はじめから矢沢永吉さん専用の個室をつくったんですよ。で、そこは矢沢永吉さんが来るまで誰もいれるなと。(笑)
それで、どうやったら連れて来られるのかなっていろいろ考えて、この人やったら連れて来られるかなっていうのがあって、お願いしたら本当に上下白のスーツで矢沢永吉さんが来てくれたんです。
彼にサインしてもらって、永吉ファンの間では伝説になっていったっていうね。
-そのときの写真はないんですか。
岡田 『アイ・ラブ・レストラン』という本に載ってますよ。二人の写真じゃないですけど。サインをしてもらった部屋のね。
彼の曲に「鎖をひきちぎれ」というのがあるんですけど、
その頃ちょうど「ちゃんと」の会社のパンフレットにもそういうのを書いててね。それを矢沢さんにあげたら、すごい感動してくれましたね。
井上 岡田をメインシェフにして店をオープンしたら、いろんなことを言われると思っていました。でも、昔からの人がたくさん来てくれるんですよね。それがうれしい。岡田が取材をうけたのは今回が初めてなんです。
岡田 店の形になってくるにつれて、井上が「メディアに出ないの?」って言うから、「勘弁してほしい。いろんな見方する人がいるから。迷惑かけたらいやだから」、とずっとお断りしてたんですよ。僕のことをどこかで見て気分悪くさせるのも、会社に迷惑かけるのもいやだし。民事再生しているわけですから。だから、それは今回井上が入ってくれて、ストーリーから思いまで取材していただけるのなら、ありがたいなと思っています。
井上 肩肘張って、というのもないですし、自然体でやったらいいと思うんですけど。
-やはり「自分は料理をやりたいんだ」という気持ちが大事ですよね。
岡田 よく「レストランの神様」っていう言葉を使うんです。
あれだけ成功させてもらったのに、僕はレストランの神様を裏切って、奈落の底に落とされた。本当に全くそうで。それはどういうことかというと、僕の周りには食材があるわけでもないし、食べてくれるお客さんもいない、ということなんです。これは本当にすごいことですよね。例えば、居酒屋のスーパーバイザーになりませんかって誘われても、僕がする仕事なのかと。この服(=シェフ服)を着せてもらえないっていうのがあって。本当にこの服が着たい、この仕事をしたいっていうのを、レストランの神様は叶えてくれたわけですから。それからいろんなお客さんが来てくれています。レストランの神様に感謝するしかないですよね。
先日、僕が20代の時、弟子だった子が何も言わずに店に来たんですよ。15年ぶりぐらいに会って、顔見たらだいぶ年をとっている。いろいろと話をして、その子が言ってくれたのは「あの時にもう終わって、ちゃんとがそうなった時、岡田さんはもう世の中に出てこないだろうと思った。だからこそこうやって出てきてやってるのが偉いよね!」って言ってくれたんですよ。その時に心の中で「俺も飯くわなあかんから」って思ってるんですけどね。そんなふうに思ってくれるのかって。ありがたいわけですよ。本当ね。
-その神様の前でも正直にいるという店名。まさに「イノセント」ですね。
岡田 本当は違う意味なんですけどね。「井上さんと焼肉」という意味なんですよ。「イノさんと焼肉」。(笑)カーベリーは焼肉という意味ですから、「イノさんと焼肉」という意味なんです。もちろん「純粋な・無垢な」っていう意味合いもありますよ。
-そうなんですね。(笑)深い友情、すばらしいですね。
また一緒に仕事ができるっていうのはうれしいでしょう。
井上 楽しいですね。
-お二人はフラットな関係ですか。
岡田 もちろん。井上が社長ですから。
井上 会議では「ね、社長!」とかいいながら、僕のことを一応立ててくれるんです。でも、夜中なったら「盛夫〜、こんなんどうや?」って電話してきますね。(笑)昔と一緒やね。
岡田 それはやっぱりね。(笑)
あと、仕事を終えて、帰宅した時の気持ちと、朝起きた時の気持ちが変わってなかったら、それでいいと思うんですよね。「仕事させてもらってありがとう」と。それがすべてですね。
<「これほど面白い店はない」二人が考えるこれから>
-滑り出しは順調ですか?
井上 順調なんですけど、すべてがすべて順調というわけではなしに。まぁ想像以上に順調ですよ。なによりもうれしいのは、ひとつのお店じゃないんですよね。うまく表現できないですけど、これまでたくさん飲食店をやってきましたが、ここは普通の店じゃないんですよね。なんかね。
岡田 いろんな要素がつまったお店ですね。
井上 あとは、我々の店は10年経ってから良し悪しを判断されるので、今はなんとも思ってないですね。もっと良くなっていけばいいなぐらいです。今からどうしていこうかなって考えるのが楽しいですね。
岡田 そうですね。こうやって若い人を預けてもらって、もう50歳ですから、彼らの成長を一番期待しているんです。この期間の中でもどんどん成長してきてくれているので、すごくうれしいですね。若い人を育てていきたいなと考えています。
-今後、この業態で展開をしていくお考えですか
井上 考えてないです。
岡田 本当に考えてないでしょ。そこがいいのかなって。
-井上さんから岡田さんに期待されることはありますか。
井上 何もないですよ。面白いですね。やっぱり面白い!うちもスタッフはいっぱいいますけど、やっぱり面白いですね。こんな人いないわ。まず寝ないしね。もうずっと店のことを考えてるんでしょうね。
岡田 そりゃそうですよね。それしか考えてないです。お肉のことしか考えてない。
自分の中で自問自答することができたら、この店に勝ちたいとか、あいつはどうやとか全くなくなります。それがどれだけ気持ちいいことか。一度、地に堕ちて、自分を突き詰めて見直して、その先の答えを見出せたっていうのは、これ以上気持ちいいことはないなって思いますね。
-岡田さんにとってレストランとは。
岡田 分からないですけどね。なんでしょうね。難しいなぁ。レストラン。昔はもっと明確にありました。今はないことの方がうれしいかもしれませんね。何があるかわかりませんしね。
-お客さんとは。
岡田 一概には言えませんが、助言してくれる方ですかね。苦言も含めて。自分を成長させてくれるわけですから。それを真摯に受け止めていきたいと思いますね。たくさん来てくれて本当にありがたいです。過去のことを懐かしんできてくださるお客さんも、これからの自分を評価してくれる方もすべて含めてありがたいですね。
(聞き手・佐藤こうぞう、文・望月みかこ)
1965年大阪府堺市生まれ。学生時代、焼肉店でアルバイトをはじめ、そのまま就職。93年「ちゃんと。心斎橋店」を創業し、独立。「Ken’s Dinning」「ちゃんと」「橙家」と、斬新で大胆なデザイナーズレストランを次々と展開。同氏が考案した「キムチの王様」は、第1回日経レストランメニューグランプリ大賞を受賞、日本初のドライエイジドビーフを提供するなど、自由でクリエイティブな感性で、一気にスターダムをのし上がっていった。2011年、「ちゃんと」が事実上の倒産をするまで「カリスマ経営者」として飲食シーンを牽引。2015年、ソルト・グループ代表の井上盛夫氏と再びタッグを組み、シェフとして「食」の最前線へと現場復帰を果たした。
■井上盛夫氏プロフィール
1966年兵庫県西宮市生まれ。学生時代からイベント企画制作をてがける会社を立ち上げ活動。90年、株式会社禅を設立し、イベントの企画運営のほか、飲食店やビーチハウスを経営までを手がける。97年、「ちゃんと」の取締役副社長に就任。2002年に退社するまで代表の岡田氏の右腕として、同社の業態開発や東京進出の陣頭指揮をとり活躍。2002年、ソルト・コンソーシアム株式会社を設立し、代表取締役に就任。飲食事業のみならずエンターテイメント施設やビアガーデンの企画運営など飲食の枠を超えてプロデュースを行っている。