スペシャル企画

クロスロード〜外食経営者のルーツと転機〜 vol. 13/有限会社アイフードサービス 代表取締役 大澤 琢哉氏

この企画は外食経営者の「クロスロード」、すなわち人生の転機となった出来事や自身のルーツについて、ライフチャートを経営者自ら描いて頂き、それに沿ってこれまでの人生を深掘りしていくインタビュー企画となっています。

第13回目は、埼玉の深谷でとんかつの人気店「たくとみ」、熊谷で大人の居酒屋「おおとみ」等を経営している有限会社アイフードサービス 代表取締役 大澤 琢哉さんです。実は聞き手の大山とは20数年前・学生時代からの旧知の中です。今年5月に3店舗目である「野菜巻き串と小皿料理 つくし」をオープンし今後の展開が期待される大澤さんを初めてインタビューしました。剣道一筋の少年時代、祖父の介護と両親共働き、ストリートダンスとの出会い、熊谷でのお弁当屋開業、父からの店舗継承、居酒屋業態の戦略、今後の展望等についてお話を聞きました。


有限会社アイフードサービス

代表取締役 大澤 琢哉氏株式会社

出身地:埼玉県長瀞町

生年月日:1983年7月17日生まれ。

企業ホームページ:https://ifood-service.com/

ロード1

  • ・剣道一筋の少年時代
  • ・祖父の介護、両親共働き
  • ・18歳で一人暮らし
  • ・ストリードダンスとの出会い

 

大山:僕らが会ったのは20歳ぐらいだと思うのですが、子供の時の話はあんまり聞いたことなかったんだけど、どこで生まれて、どんな家庭で、どんな幼少期を過ごしたのかっていうところを教えてください。

大澤さん:埼玉県長瀞町で生まれて兄弟が姉が一人いて親戚が多く、結構可愛がられて育ちました。小学校入る前から剣道をずっとやっていて、武道としての礼儀作法をすごい叩き込まれました。うちの父のお姉さんが、深谷の農家と黒豚の養豚業を営んでいる一族に嫁いだんですよ。その一族が飲食店を出すって言うので、うちの父が店長として働き始めました。

 

大山:それが何歳ぐらいの時ですか?

大澤さん:これは僕が生まれる10年以上前です。

 

大山:それがどこのお店?

大澤さん:熊谷の籠原の「とんふみ」っていう店ですね。10年ぐらい前に一緒に行きましたよね。そこで父が雇われ店長として働いて、自分が12歳ぐらいのときに独立したんですよね。

 

大山:行ったね!懐かしい(笑)。それでこの辺でグラフが下がっちゃってるってことは、うまくいかなかったってこと?

大澤さん:うまくはいっていて、その時おじいちゃんが痴呆で、老人ホームとかなかったので家で主にあばあちゃんと僕で介護をしてました。結構遊び盛りの時におじいちゃんの介護みたいな。それで親は働いているから、孤独な時期を過ごしたんですよね。剣道もずっとやっていて、だから学校と家の往復だけみたいな。

 

大山:そうだったんだね。学校の中でのキャラ的には(今と)変わらずですか?

大澤さん:変わらず。ひょうきんなお調子ものでした(笑)。

 

大山:高校に進学しても、剣道をやるわけですか?

大澤さん:はい。剣道は結構どっぷりですね。相当大変な稽古だったので。で、ここで(グラフが)下がっているのは、体力的に辛かったっていう意味で。これはすごく今に生きているって感じですね。体力的な忍耐力はここで全部鍛えられましたね。あの時の稽古に比べると、大体耐えられます。それで部活を引退して、そこで音楽とダンスに出会って。テレビに出ているDA PUMPとか見て。それでそういう楽しい世界に行って、この時特に夢もなかったんですよ。

 

大山:大学に行ってまで、剣道しようっていうのは思わなかったんですか?

大澤さん:少し思いましたけど続けるまではいかなかったですね。特に目標とかも無かったので、大学に行って色んな世界を知りたかったんですよね。で、やっぱり楽しかったですね。

 

大山:埼玉だから非行とかあると思うんだけど、そういう影響はあんまり受けなかった?

大澤さん:非行の影響はあんまり受けなかったです。いろいろ誘惑はありましたけども唯一救いだったのが、両親の仲が良かったので、一線を越えるか越えないかって時はいっぱいあったんだけど、脳裏に両親の姿が浮かぶというか「親に迷惑かけちゃいけないな」みたいな。それが足止めになっていましたね。

 

大山:素晴らしい。家族はそういうストッパーにも、なりますよね。それで大学を卒業してからのギュンと(グラフが)下がっていくのは、どういうことなんでしょう。

大澤さん:ここで俺、就職するんですよね。坂戸にあった大型の居酒屋に。当時、道交法が超厳しくなる前に、郊外型の居酒屋がめっちゃ流行った時期があったんですよ。その時に就職したんですよね。就職しながらダンスも続けていけるなって考えていたんだけど、ダンサーにはなれないし、覚悟も決めきれなかったですね。ダンサー、アーティストっていうところまで覚悟を決めきれなかったのがこの辺りですかね。「あ、もう無理だ。辞めなきゃいけないな。理想と現実が違う」って思いましたね。ダンスやりながら仕事なんかできないんですよ。当時のダンサー仲間の人たちには、結局ろくな挨拶もできないまま就職したって感じですね。

 

大山:僕もそうだったけど、ちゃんとダンスを一筋でやっていこうとか、主戦場でやってる人たちにちょっと失礼っていう気持ちもあったよね。

大澤さん:本当にそうなんですよ。結局ここで本気で覚悟を持ってダンサーでやっていこうと思った人たちはそれなりの道を歩んでいるし、知名度も影響力もあるし。そこの覚悟を決めきれなかったから、ダンス一本とか音楽一本でやっていくのは難しいと思いました。

 

大山:ちょっと前の話に戻るんですけど、飲食に出会うのは大学時代ですか?アルバイトは何やっていたっけ?

大澤さん:いろいろやりましたが、主にカラオケのアルバイトと居酒屋のアルバイトですね。

 

大山:その時は全然家業を継ぐとか、飲食店を持つみたいなことは思ってなかったんですか?

大澤さん:そうですね、あんまり考えていなかったです。というか何も考えてなかったですね。ただ育った家がずっと飲食だったので、中学校の頃から手伝ったりとかしてましたね。大学でも一人暮らしをしてたので、働かないといけない環境でもありましたね。川越でバイトもしていたけど、ちゃんとしっかり父のお店にも手伝いに行ったり。学費も払ってもらってるわけなので、いろいろ援助もしてもらっていたので、人がいないって言われれば手伝っていましたね。

 

大山:非常に濃い人たちがいたなというイメージがあの頃の川越にはあったし、必然的に一人暮らしのメンバーも多かったから、濃いつながりになったような感覚はあるんだけど、そういうのはあったんですか?

大澤さん:そうですね。そこで第二の地元じゃないですけど、そういう感覚はありましたね。

 

大山:ストリートダンスから得たものはありますか?

大澤さん:あの本当にストリートからのし上がっていく感じ、あの野良ダンサーみたいだったのが名前を売りこむ為に色んなイベントに出た経験とか。営業活動に活きていますよ。自分はダンサーとしてはのし上がれなかったですけどダンスベントとかやったりして。あれはやっぱりすごく良い経験になりましたね。イベントひとつ打つにも結構下準備とかするじゃないですか。出演者の管理とかお金の流れだったり、人を喜ばせるっていうエンタメは今に生きていて、繋がっていますよ。

 

大山:ちっちゃい起業体験みたいなものですからね。お金の計算もしなきゃいけないし、クラブの人たちとも交渉しないといけないし。それで、就職するんだけどそこからピュッと(グラフが)落ちるのはどんな問題なんですか?

大澤さん:楽しかったダンスを諦めて、ここで割り切ったんですよ。「俺は飲食の道で行く」と。それを決めたのがこの辺ですかね。お給料は低かったけど、色々勉強させてもらいました。

 

ロード2

  • ・ダンスを諦め、飲食の道へ
  • ・手取り14万円
  • ・父のとんかつ屋で働く
  • ・お弁当屋さんで独立
  • ・仲間に裏切られ1000万の支払い

 

大山:就職したお店では業務として何をやっていたのですか?

大澤さん:業務としては厨房。100席ぐらいのお店で主に和食を習ったって感じですね。そこで料理の基本的なことっていうより、いろいろな食材に触らせてもらいました。ただ、アルバイト時代は手取りが25万ぐらいだったんですが、もっと経験積みたかったので正社員になったんですよ。そしたら給料が、17万円で手取りが14万円ぐらいになっちゃったんですよ(笑)。労働時間は朝10時ぐらいから夜中の1時ぐらいまで。休憩1時間も取れないような環境でしたね。その環境で2年ぐらい経験させてもらっていたのですが、父が体調を崩したっていうので父の会社に入ったんです。そして24歳ぐらいで結婚しました。

 

大山:なるほど。なんかそれくらいの頃、全然琢哉、仲間の集まりとか来れなかった印象あったものね。忙しすぎたんだ。

大澤さん:そうですね。早く1人前になりたかったので仕事に集中していました。父が独立し籠原から寄居に移りとんかつ屋をやっていて、うまくいっていたのですが色々なトラブルがあって3年間ぐらいで追い出されるような形で、今のたくとみの場所を借りて移動したんですよね。そこでまたオープンしたから、全然家にいなかったですね。両親が試行錯誤しながらずっと頑張っている姿を見ていました。

 

大山:結婚して今の「たくとみ」に入って、お父さんと一緒に働くんですね。

大澤さん:そのときは「とんふみ」っていう名前だったんですけどね。そこで何年かやったのが27歳ぐらいまで。父と一緒に現場に立っていました。ただ独立欲が抑えられなくて。1回もお店作ったことなかったので、で、28歳でお店出すんです。父と一緒にやって、このままずっとやっていくのは自分の人生の中で我慢できませんでした。そして親に「俺このまま独立しないと一生何もできない気がする」って言って話をするんですよ、それが28歳ですね。それで、熊谷で小さな弁当屋さんを作りました。

 

大山:熊谷で、お店やっていましたね。

大澤さん:完全に個人事業としてやっていてそれが熊谷の「だいどころ」っていう小さい弁当屋さんなんですけど、その時貯金もあまり無くて500万ぐらい借りたかったんだけど満額借りれなくて(笑)。でももう父の会社辞めちゃってるし子供2人いるし、なかなかヘビーでしたね(汗)。物件も決まっていなくて。たまたま潰れたばっかりの焼肉屋を見つけて不動産情報が何も出ていないところでシャッターをガンガンガンガン叩いて無理やり開けてくれて「最近閉めたたんだよね」ってことだったので「そこ貸してください!」って言ってうまく借りられてあまりお金を掛けず、中古や色々なリース組んだりとかしながら、ちっちゃいお弁当屋さんを夫婦で始めたっていう感じですね。

 

大山:なかなか大変だったのですね。オープンして、どんな感じだったんですか?

大澤さん:オープンして最初はすごい夢と希望があったので、オープンしたらこんなことできる、あんなことできる、イートインもやって、お酒売りたいなとか、やりたいことをやろうとしすぎて、オープンして1ヶ月ぐらいで、理想と現実の違いに打ちひしがれて(笑)。売り上げが一気に下がるっていう。

 

大山:具体的に言うと何が原因で?

大澤さん:原理原則ができていなかったというか、お客さんが何を求めているかがわかっていなくて、自分がやりたいことをやり、そっちが行き過ぎて、要するに(お弁当なのに)出来立てを出せてなかったっていう。とにかく作り置きして平積みして、パッパパッパ売るみたいな。オープンしたばっかりなのに。そんなのコンビニと一緒じゃないですか。最初は良かったけどどんどん落ちて、お金なくなっちゃって。

 

大山:なるほど、それは確かにお客さんには伝わるかもしれないね。

大澤さん:それで「来月やばい。何にもお金なくなっちゃう」みたいになって、相当切羽詰まるんですよ。それで「どうせ辞めるんだったらやりきるだけやりきって辞めよう」っていうところに行きつくんですよ。やれるだけやるっていうのは、効率よく作り置きのやつをどんどん出すんじゃなくて、温かいものは温かいまま出すっていうのを徹底したんです。お客さんが来たら注文を受けてその場で一から作るみたいな。「ほか弁」スタイルにしたんですよ。そしたら1ヶ月ぐらいで売り上げが上向いてきたんですよ。そこでなんとか持ち直すっていう感じですね。

 

大山:おぉ良かった。何とか繋がった感じなのですね。

大澤さん:そこで商売の厳しさを知ったというか。ノリじゃダメだと。友達とかいろいろ応援してくれたんだけど、結局応援はしてくれるけど、常連にはならない。まあそりゃそうですよね。で、ここから少しずつ製薬会社のお弁当を取ったりとかしながら。

 

大山:この時は、まだ1店舗?

大澤さん:1店舗です。

 

大山:27歳ぐらいから35歳の手前ぐらいまでは弁当屋さんだけだったんですね。相当長いこと苦労したわけだね。

大澤さん:そうですね、5年間。それで33歳ぐらいの時に父が店を辞めるって言いだしたんですよ。今のたくとみの場所のお店を。その時父もう借り入れも返し終わったし、身体もしんどいと。自分にしては店がでかすぎるって。「俺はお弁当屋さんの借金返し終わるし、これからやっと利益体質になるからこっち(熊谷)で頑張っていくね」ってお互い覚悟決めたんですよ。それで父が、俺には言ってなかったんだけど、もしかしたら今後たくやが何かするかもしれないからって廃業ではなくて会社を休眠状態にしていたんですよね。だから有限会社。親父の会社をそのまま使わせてもらっているんです。

 

大山:その時は熊谷のお弁当屋さんと、お父さんは深谷のとんかつ屋を閉めて別々の決断をしたと。

大澤さん:はい、父の店は閉店してるけど、会社は1年間休眠状態にしていた。うちの「だいどころ」って弁当屋の方は返済が終わった段階で、もう1回父と話をして。父が『この場所(たくとみの場所)はいい場所だから、まだ次の借り手が見つかっていない。一応会社休眠状態にしておくから、お前が更に何かやるんだったら再始動できる方向に持っていくよ』って言ってたんですよ。場所がいいのは分かってたから、賃貸契約がうまく更新できるんだったら、そっちの方が売り上げ取れるのが明白だったのでそっちに行こうと決めました。深谷市のロードサイドなんですよ。インターが近いから場所がいいんです。契約がうまく更新できたので、そっちに行きました。

 

大山:お父さんの商売の勘というのですね。それはありがたかったですね。

大澤さん:お弁当屋さんは、個人の夫婦のお店だったので、人を使うまではできなかった。無くしたくはなかったけど、任せる人がいなくて返済終わった月に閉店したんですよ。そして父のやってた会社と店を、1年放置してボロボロだったところを引き継いだっていう感じです。それが本店の「たくとみ」に繋がるわけです。

 

大山:そのタイミングで店名も変えるんですよね?

大澤さん:そう、そのタイミングで。本当は「とんふみ」っていう名前がこの辺だと結構名が知れていたから、そこも利用しようと思ったんだけど、俺が好き勝手やると本家にも迷惑かかっちゃうから。

 

大山:お父さんはFCみたいな暖簾分けみたいな形で独立していたんですね。

大澤さん:そうです。屋号は一緒、経営は別々。屋号一緒で引き継いじゃうと本家に迷惑かかっちゃうから(笑)。

 

大山:それでとんかつ屋をやり始めてから、どんな感じだったんですか?

大澤さん:当時プラプラしてた学生時代の友人を雇って始めて、社員っていうのを初めて雇って、これがすごく勉強になりました。雇ってみて知ったのですが、浪費の借金が凄くてギャンブル中毒でメンタルが弱くて。給料の前借りなんかもしてあげたり、個人的にも資金援助したり甘やかしすぎました。友達の時には、気付かなかったです。そして元々が友達なので、立場が変わるわけじゃないですか。最終的に妬まれちゃって。全ての詰めが甘々でした(笑)。結局足元掬われて、会社を訴えられるっていう事件が起きました。止めていく時には笑顔でお世話になりましたと足軽に辞めていって、しばらくしたら急に訴状が届くっていう。それはこっちが知識不足以外に、なにものでもないっていう感じ。1000万円近く請求されました。

 

大山:やばー!それは大変でしたね。

大澤さん:当時流行ってたんですよ、未払いの残業代請求するのがね。100%勝てるっていう謳い文句で底辺弁護士が切羽詰まった底辺労働者に持ちかけるんですよ。学生の時居候してたやつなんですけどね。当時は何も考えてなかったのでなんか楽しかったんですよ。そしてあの時の感覚で「俺今度こういうお店するけどどう?」って言っちゃった責任ですよね。もしかしたらまた楽しくできるのかなみたいな、そういう甘い考えがあって。

 

大山:でもそうはありながら、グラフが下がってないということは、勉強というプラスに捉えたというところですね。そこから再び熊谷にまた来る、っていうのはどういう経緯だったんですか。

大澤さん:人の問題でめちゃくちゃ苦労して「こんな思いするんだったら社員は絶対雇わない」と思ってたんですよね。広げる意味がよくわからなくて、だったら夫婦経営で、会社と個人の財布を一緒にしながら、うまく経費使いながらやっていった方が何も縛られず自由にできるし、それが一番儲かるって思ってたんですよ。微妙に赤字にしながら、節税しながらね。なんだけど、それだと耐えられなくて。独立前と一緒というか。父の会社に入ってて、我慢できなかったっていう感覚になってきたんですよ。未来が見えないと。このまま自分たち家族だけ潤うっていうのは全然面白くないと。それが正解の人もいるけど、俺は我慢できなかったですね。で、もう1回挑戦するんだと覚悟を決めました。

 

ロード3

  • ・2店舗目「おおとみ」
  • ・価値を売って、生き残る
  • ・熊谷2店舗目オープン
  • ・年商10億、埼玉を代表するとんかつ屋へ

大山:飲食人あるあるの「刺激中毒」というやつだね(笑)。その時、奥さんはどういう風な反応をするんですか?

大澤さん:「やりたいならやったらいいじゃん。全力で応援するから」って後押ししてくれました。

山あり谷あり夫婦二人三脚でやってきた婦人の美沙さん(左)。

 

大山:素敵すぎますね。ただ、なんで熊谷だったんですか?

大澤さん:当初たくとみは売上目標が500万のお店だったんですよ。で、人の問題とかあって300万まで減り、それでも残ってくれたスタッフと夫婦二人三脚で頑張って300万だった売上が400、500と結果として出てきたので、もう1回ちゃんと挑戦したいっていうので、たくとみから車で20分圏内の物件探し始めたんですけどなかなか契約までいかなくて。でも2店舗目を出すことだけは決めていたのでいつでも攻められるよう人員は抱えているから、熊谷はちょっと遠いなと思ったんだけど思い切って足を伸ばしました。

 

大山:それが2店舗目、居酒屋の「おおとみ」というわけですね。

大澤さん:はい、ただこの物件は投資額が大きくなっちゃうから誰も借りなかったみたで、いくつかの銀行に相談してどうやら融資受けられるっぽいっていうるから契約して、その時コロナ中で交渉もしやすかったので、ここを契約して「ここの場所だったら居酒屋でしょ」っといことで業態を変えて。もともと弁当と惣菜店をやっていた経験もあるのでその強みを活かして「季節の手づくり惣菜 おおとみ」にしました。

 

大山:それは、いつ頃のこと?

大澤さん:2023年の4月に、オープンしています。

 

大山:遡るとたくとみ1店舗の中で、コロナが来てるわけじゃないですか。コロナの時っていうのは、会社の状況、店の状況はどうだったんですか?

大澤さん:大きく下がらなかったですね、うちは。居酒屋じゃなかったので。

 

大山:なるほど車で来る人たちも多いし、家族で来てっていうのがあるから大きく下がらなかったけれども、ただ国からの営業保証であったりとか、金融機関が借り入れを緩和してくれたりってことで、ある種プラスだったんですね。

大澤さん:そう、プラスです。借り入れがしやすかったっていうのはありますね。だから余剰資金、現金の厚みはあったんですよ。だけどコロナの時は飲食業界は沈みきっていましたよね。でも絶対に復活するだろうと思って。最悪の時に攻めに出る。イメージで言うと底で拾うみたいな感じです。

 

大山:ローカルに行ったらちょっと安めに値段を設定しながらお店を出されるのかなと思いきや、この「おおとみ」というお店は価格を下げないと。これはどういう戦略でお客さんはどんなリアクションでしたか?

大澤さん:難しかったですね。まず一番最初は見てくれというか、入りやすさですかね。しかもコロナ禍に契約したっていうのもあって1人、2人が入りやすいようにしました。宴会や飲み放題を収益モデルにしちゃうと、また崩れるのが早いから。今回はそういったお客さんは他のお店にお任せして、学生ばかりでガヤガヤしていなく、少人数で楽しめる大人の店にしました。普段飲みで1万円使ってる人たちがここだったら4~5000円で飲めるよね、みたいな。だからもうせっかく& SPICE.さんと繋がったんだから店内はおしゃれにして、内装の雰囲気にこだわりました。これまでの経験で味だけじゃないと身をもって知れたので。

カウンターが主役の落ち着いた雰囲気の店内。

 

大山:これはどうなんですか?地元の方に受け入れられた感覚はあるんですか?

大澤さん:受け入れられる感覚は今もないですよ(笑)。最初は「こんな店作ってやっていけるわけないじゃん 熊谷らしくない。高い高い」ぐらいなこと言われましたし。なんかお高く止まってるんじゃないかとか。もう色々と(笑)。自分の価値の伝え方が下手なんだと思い、お得感を感じてもらえるよう今でも試行錯誤を繰り返しています。でも、ビジネスマンとか、一定数評価してくれる人がいて、生き残ってる。一応やっていけるわけですから、地元の方から結構アドバイスをいただいたんですけど、聞くところは聞いて、無視するところは無視して(笑)。あんまり流されないように心がてますね。

 

大山:結果お弁当ビジネスであったりとか、とんかつビジネスっていうことをやってきたわけなんですけど、おおとみっていうのはやってよかったのか、利益率的にいったらどうなのかっていうところでどうなんですか?

大澤さん:やってよかったです。利益率20%ぐらいです。課題としてはもうちょっと売上が欲しいってことですけどね。昼のとんかつ業態ではそんな利益率はいきませんので。

 

大山:直近なんですけれども、これが「つくし」がオープンしたっていうのが、今年の5月。ここのオープンの経緯っていうのはどういう感じなんですか。

大澤さん:そもそも「たくとみ」から2店舗目を出すんだったら、最低でも3店舗は目指さないと、2店目を出す意味がないという思いで取り組んでました。3店舗からがスタートという気持ちです。だから良い物件情報が来たからすぐ契約して出したって感じですね。

「野菜巻き串と小皿料理 つくし」

「おおとみ」から徒歩30秒の場所にある今年5月にオープンした「つくし」。13時からオープンし昼呑み客も受け入れている。

 

大山:「おおとみ」と「つくし」のコンセプト、お店の違いというか、どういう使い分けをしてもらおうというふうな感じでやっているんですか?

大澤さん:「おおとみ」はゆっくりしてもらうお店。客単価4000円~ 5000円。ゆったり大人の時間を楽しむ。「つくし」は真逆。駅近いから一杯だけ飲みますとか。客単価1000円から2000円。一杯だけ飲んで電車に乗って帰るとか、宴会前に一杯飲むとか。それか宴会後の落ち着いて締めでとか。

 

大山:僕も何回か熊谷に来させてもらっていて、昼に空いてる店がないなと思っていましたが、そこは完全に狙ってやったって感じですか?

大澤さん:狙ってやりました。1、2年ぐらいは頑張って定着させたいですね。競合はいないんですよね。いかに定着させるかだと思いますね。これでしばらくやってみて昼の売り上げがあんまりにもマイナスならやめますけど。頑張って定着させていくところです。

 

大山:そしてこれからというところでは、僕は非常に埼玉という土地も東京の隣でありながら、なかなか僕らも取材に来させてもらうことが少ないんですけど、ただ注目するべき自治体じゃないかなと思うんですけど、今後どういう風に会社をしていきたいお店をしていきたいっていうのは思っていますか?

大澤さん:全ては「たくとみ」から始まってるので。「たくとみ」の揺るぎない実績があるから「おおとみ」や「つくし」に挑戦できています。金融機関さんにも結構信用されているかなと思います。今後は本店の「たくとみ」の店舗を大改装します。大きいお店なので投資額も大きくなります。そのために「おおとみ」と「つくし」を出した、と言っても言い過ぎではないぐらい。

この実績を持って「たくとみ」を強化していきます。なぜかっていうと、500万の売上目標だったのが、今は1000万超を売る店にまで成長しました。ただ設備と店としての器、動線、客席が全然伴っていなくて、現場のマンパワーでぶん回してる感じなんですよね。そこを整えてモデル店舗にして、改めて最強の「たくとみ」を作って、そこで整ったら同じパッケージを直営で違う町に出していく。みたいな感じにしていければと思っています。

 

大山:埼玉発のとんかつの名店、いいですね!この(「おおとみ」のような)飲み屋業態っていうところに関して、また熊谷エリアでの展開に関して、野望とか展望はあるんですか?

大澤さん:熊谷エリアで出すのはゼロではないです。全然ゼロではないけど、相当いい場所の情報が来れば、もちろん食いつきますよ。そんな感じですね。焦ってはない感じですね。まずは屋台骨である「たくとみ」を埼玉一のとんかつ屋にできるようやっていく、静岡のさわやかハンバーグみたいになれたらいいですね!

 

大山:会社として数値的な目標などあればお聞かせください。

大澤さん:これホームページにも書いてあるんですが、年商10億の世界を見てみたい。計算だと10店舗から15店舗ですかね。この5年以内、そのためだけに動いているっていう感じですね。10億企業になったら野望がまた見えてくるんじゃないかなと思っています。そこの世界を知りたいですね!

 

大山:そこまで行ったらまた取材をさせてください(笑)。ありがとうございました!

 

編集後記

私が20数年前の学生時代、ストリートダンスをやっていた時に仲良くなったのが大澤さん、たくやです。人とは違うユニークなアイデアを持った、まさに飲食に向いたそんな若者だったと今思い返せば、納得するところです。人を大切に夫婦二人三脚で自分の目標にただひたすら向き合って前を向いて歩んでいく、そんなたくや(大澤さん)を今後も応援していきたいと思います。(聞き手:大山 正)

 

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