大山:前田さんは、そもそもなぜ料理人になろうと思ったのですか?
前田さん:もともとは学生時代に、友達の家とかに泊まりに行ったりした時に、つまみを作るのが結構好きで。それでその時によく友達・仲間内から「絶対料理人になった方がいいよ」なんて言われたりしたのもあって、それをそのまま鵜呑みにしてこの世界に入った感じですね(笑)。
大山:東京に来たのは、どういう経緯だったんですか?
前田さん:正直、僕(調理)専門学校のときに結構遊んでしまっていて、気が付いたらみんな就職活動を始めてたり、というかもう結構決まりだしていたんですね。僕、何も就職活動していなくて『あれ、もうみんな決まってるの?』って感じでした(笑)。僕は1年コースだったんですけど、一緒につるんでいたやつの多くが2年コースだったので、2年目があるからそいつらは遊んでいて。で、僕も一緒になって遊んじゃっていて、1年コースのやつらは結構みんなもう決まり始めてて『あれ、やばいな』と思って就職浪人になりそうで(汗)。その後まだ間に合うところを受けてみたりしたんですけど、そういうところって1人の募集に何十人も来たりとかも多くて、全然ダメで。
大山:大ピンチですね(汗)。それでどうしたのですか?
前田さん:そうしたら担任の先生が、その後僕が働かせてもらうことになる「乃木坂 神谷」っていう和食屋の神谷さんが専門学校に講師として来てたんですけど、その関係で仲が良いから神谷さんのところで募集枠あるから、東京でよかったら紹介できるよって言われて。それで、もともと僕、和食志望ではなかったんですけど『和食も面白そうだなぁ』と思って。それで神谷さんに面接に行ったんですね。その時に神谷さんにランチを出してもらって食べた時に、若い頃って和食っていうより、もっとこってりしたようなものが好きだったりするじゃないですか。初めて本物の和食を食べて『あ、和食ってうまいんだな』って思わせてもらったというのがあって『和食をやりたい』って決意して。『神谷に入れば、こんなに美味しい料理が作れるようになるんだ』っていうのがあったりして、それで和食の道に行こうというのが東京に来たきっかけですね。
大山:専門学校は、どこへ行っていたんですか?
前田さん:大阪です。
大山:大阪なんですね。それで翌年から「乃木坂 神谷」に行って、修行はどんな感じでしたか?
前田さん:まだまだ労働基準法も全くないような世界でしたし(笑)、それこそリアルに「上の人間がカラスが白って言ったら白なんだ」って普通に言われていましたし、軍隊的なような(汗)。理不尽なことで怒られたりしても、それに反論というか『それは違います』って言うだけで「口答えするな」って言って怒られる世界でしたね。
大山:1日のタイムスケジュールは、どんな感じでしたか?
前田さん:当時はこれ外に言うなって言われてたんですけど(笑)、朝6時に起きて、6時10分にはお店に入って、大体早い時で夜中の12時半、1時半ぐらいに上がれる感じですね。寝るのが早くて夜中の2時(汗)。
大山:下宿で入られていたんですよね?
前田さん:そうですね。当時マンションの1階部分に店舗があったんですね。それでそこの2階に寮があって、先輩とかは(上がる時間が)12時とか。僕らより30分〜1時間ぐらい早く上がっていて、片付けを終わらせて寮に戻ると、今度は先輩の風呂待ちがあって(汗)。先輩が風呂入るまで、先に入っちゃいけないみたいなのがあって『僕らより先に上がってるんだから、もう入っててくれよ』って感じだったんですけど、店出て寮戻っても先輩はゴロゴロしてて、お風呂入ってないから入れないし(笑)。
それで当時先輩とかも喫煙者が多かったのでみんな寮で吸ってたんですけど、吸うなとは言われないんですけど、たばこを吸う時は、寮自体が二段ベッドが3つある感じでベッドの上しかくつろげる場所がないんですよ、下っ端は。そのベッドから一歩降りたら、タバコはそこで吸うんだけど正座で吸わないといけないっていう変なルールがあったりして、もう地獄でしたね(笑)。
大山:絵に書いたような昔の職人の世界ですね(汗)。それで結局神谷さんで、何年働くんですか?
前田:そのグループで丸5年ですね。神谷さんの直営店にいたのは僕は3~4か月なんです。
神谷さんが顧問をしている料亭みたいなところが結構あって、その料亭の厨房に神谷さんの弟子を入れるような制度があって。それで銀座の料亭に移ってやっていたという感じですね。
大山:学んだ一番大きな事って、何だったんですか?
前田さん:忍耐力です(笑)。あとは料理に対しての向き合い方とか姿勢、というのは本当先輩方はすごかったですね。ただ、それってもちろんすごいことなんですけど『僕が目指しているのはこれじゃないな』っていうのを思い始めたのもありましたね。
僕は、細かい技術を極めて極めて…っていう厳しい日本料理というよりは、もっと気楽に自分の料理を食べて欲しかったし、どちらかというと仲間が集まれるようなお店を将来自分でやりたいって思ったときに、コテコテの高級和食店ではないなと思ったのが強かったので、和食の世界を出ようと思って。どちらかというと居酒屋寄りで、でも料理も安売りしたくないので、ちょうど良いバランスのお店でやれたらいいなと思って、それで「薫風」に入ることになるんですよね。
薫風 (クンプウ)
https://tabelog.com/tokyo/A1307/A130701/13024437/
大山:まさに現在の前田さんの料理人としての原型が、その時に出来上がったという感じですね。「薫風」とはどんな出会いだったんですか?
前田さん:神谷さんのグループを出てから、1軒和食屋で働いたんですね。その時はまだ和食屋だったんですけど、もうちょっと崩した感じのところでやりたいなって思って探してた時で。ちょうど僕が入った時、2番手という立ち位置で入って、ある時料理長と社長が喧嘩して料理長が辞めちゃったんですよ。
僕は24歳で、社長が「お前、もうできるだろう」みたいな感じで、和食屋の料理長になっちゃったんですね。それで1年ぐらい頑張ってやったんですけど、自分の成長がそこで止まってしまっている感じがあったんですよね。教えてもらえないので、自分で調べたりとか、普段からお世話になってる先輩とかに相談したりとかはあっても、やっぱり直接教えてもらったりとかができないし『このままだと料理人人生として、今がピークになっちゃう』って思ったんですよね。
大山:すごいですね。普通は仕事を任されて嬉しいと思うと思うのですが。
前田さん:その時が25歳ですね。そんなことを考えていて『これは店を移ろう』と思って、いろんな人に相談し始めたら、4店舗ぐらいから声をかけてもらったんですね。結構魅力的なお店とかもあったりしたんですけど、各店舗に面接行ったり、営業中の雰囲気を見に行ったりとかしてて、「薫風」いいなぁって思ってたら、「薫風」の社長が元々お互いに名前だけは聞いていて、向こうは「同い年で和食料理屋で料理長やってるやつがいる」っていうような感じで噂を聞いていたみたいで、僕は僕で『同い年で、六本木で居酒屋経営者でやってるやつがいる』っていう感じで聞いていて。
それで「会ってみれば?」って周りからも言われながらも、ずっと『いいよいいよ』ってお互い会おうとしないでいたんですね。次にお店を移るタイミングで「薫風も1回会ってみなよ。2号店出す予定があるから人を探している」ってすごい言われて。それで1回飲もうって感じで飲みに行って。
大山:それで意気投合した感じですか?
前田さん:いや、その時にベロベロに酔っ払って喧嘩になったんですね(笑)。喧嘩になって意気投合というか(笑)。当時若かったのもあって、あいつ気合い入ってるなとかいう感じで喧嘩になったものの、認め合ったっていう感覚で「うち来るんだろう?」みたいな感じで向こうも言ってくるし『行ってやるよ!!』みたいな感じがスタートでした(笑)。
大山:アツいですね(笑)。それで料理長へと成長していくわけですね。
それで「薫風」に入って、1年ぐらいになる頃に2号店出すって言いつつも1号店の方が忙しすぎちゃって。
それでも毎日こなしてやってはいたけど、だんだんと気に入らなくなってきて社長に『俺は2号店を出したいって言うからその力になりたいと思って来たのに、やろうとしないのは何なんだ』っていうので、また喧嘩になったりとかしながらで、それで「やってやるよ」みたいな感じで本格的に動き出したんです。 僕としては、誰かの下についついてやりたいっていうのがあったので、僕が入った当時は僕の1つ年が上の人がいて、その人が料理長をやっていたんです。もう1人洋食・フレンチをやっていた人がいて、その人は僕より一回りぐらい年上だったんです。だけどその料理長の2番手っていう感じでその方はやられていて。そのフレンチをやってた人から学ぶこともすごい多かったし、そこで結構洋食系は学べたっていうのはあるんですね。
大山:なるほど、そこで洋食を学んで「総作料理」の基礎ができていくんですね。
前田さん:それで2号店を出すっていう時に最初僕を料理長でやりたいって、社長は言ってくれてはいたんですけど、 『僕は料理長は嫌だな。フレンチの人がいるから、その人が料理長でどうだろう。その人の下についてもっと学びたい』っていう話を僕がして話がまとまってたんですね。そしたらもともと1号店の方の料理長だった人が、2号店のオープン1か月ぐらい前にバイクで事故って手術して、オープンに間に合わないってなってしまって。そうなったら「1号店、いわゆる本店を知ってる人が誰もいなくなっちゃうから、だったら前田さんが残って本店の料理長をやってほしい」ということで、僕は本店の料理長として結果残ることになったんです。そして事故した方が戻ってきて、僕は1号店・2号店に行ったり来たりし始めていて、その後もう1人入った厨房の人がイタリアンをやってた人で、僕的にはすごい学べることが多くて、いろいろ聞いたりとか一緒にやってても面白かったですね。
大山:いろんなジャンルの料理人を採用するというのもユニークですね。
前田さん:はい。それである時社長が、僕の人間的なキャラだとかを見て「表に出したい」と言ってくれて。1号店も2号店も厨房は奥まった厨房だったから、僕のことを出したいっていう話をすごいしてくれてて。それで、近々3号店を作るから、そこで料理長をやって欲しいって言われて。3号店はカウンターメインのお店でカウンターと個室2つのお店になったんですけど、そこで「お客さんと接客しながら料理を作るのを見せて欲しい」と言われて。
お店は、2号店のワンフロア上に3号店を作って、そこがカウンターメインで。だから同じ1つの店舗だけど、2階と3階とあるっていう感じでそこのカウンターで僕が立ってそこでやらせてもらいました。
そこからだんだんと『いつかは独立したい』って想いが出てきて。僕ら世代の人、みんながそうだったんですよね。むしろ独立をしないと駄目なやつみたいな、「できるやつは独立して当たり前」みたいな時代だったんですね。実際僕は20歳ぐらいの頃から『いつか自分でお店やりたい』っていうのがあったので、余計にそう思っていましたね。
大山:そこから独立を本格的に意識していくことになるんですね。
前田さん:そうですね。「薫風」の3階がオープンした頃に松下(現在一緒に働いている創業メンバー)が「薫風」に入ってきて、松下とはそこで出会ったんです。
独立するって時に、最初は僕とつね(「日いづる」の創業メンバー)の2人で。つね自身も名古屋でフラフラしてたので『将来俺自分で店やるから、その時にお前がちゃんと飲食店でやっていたら店長として迎え入れるから』って言って、つねが名古屋から出てきてどこで働けばいいかわかんないって言うから、「薫風」を紹介して東京に出てきた次の日から「薫風」で働き始めるという感じでした。なので、僕が独立する=つねも連れていくっていうのは、「薫風」の中でもありましたね。
左がつね(浅井)さん、右が松下さん
大山:「薫風」の3号店出来て、どのくらいで独立だったんですか?
前田さん:3号店できてからは5年ですね。
大山:社長には前々から言ってたとはいえ、辞めるってなるとどんな反応だったんですか?
前田さん:頑張れと背中を押してくれました。とはいえ、最初は六本木で探していなかったんですね。さすがにそんな近場でやったら悪い、申し訳ないという気持ちもあったので。カウンターに立ってやってたので、お客さんもそれなりについてくれていたんので、六本木でやるってなったらそのままお客さん連れてきちゃうことにもなるし、それはさすがに仁義としてやっぱりできないなっていうのがあったので、他の場所で探しましたね。
大山:それはそうですよね。どの辺で、探していたのですか?
前田さん:いろんな土地の店舗を50軒以上見て回って、最終的に麻布十番で仮契約までして、本契約の当日に破談になったんです。結構背伸びした条件の店舗ではあったんですけどね。ここ(日いづる)の1.5倍ぐらいで、ツーフロアでやろうとしてて。そしたら本契約当日になって、ロフト席もあったんですけど、ロフト席は使えないっていう話になったり、入り口も1階部分は今あるまま使うと消防法で引っ掛かるから1階部分は完全にスケルトンにして作り直さないと駄目だとか(汗)、さすがにその条件だと話が違いすぎるっていうので僕も怒っちゃったんですね。
大山:契約予定日の当日にそれはやばいですね(汗)。
前田さん:そうしたら、そこに来てた大家さんも仲介業者に怒ってしまって。大家さんも「前田さんには申し訳ないけど、1回この話流しませんか?」って言われて、そうした方がお互い気持ちいいだろうしっていうので、話が流れて。その数か月後、最終的に「薫風」の社長が「六本木でやりなよ」って言ってくれて。よその町でやるよりは確率上がるし、飲食店なんて当時は3年持つ店が何%とかそんなレベルだって言われて。それで六本木を視野に入れて探し出して、最初に出てきたのがこの物件だったんです。探してくれた不動産の方は僕が当時2軒目で働いた和食屋の時の(料理をやめて不動産に勤めた)後輩で、まだ世に出る前の物件を持ってきてくれたんですよね。
大山:元々は、飲食店の物件だったんですか?
前田さん:もともとはピアノラウンジですね。半スケルトンの状態で、そこから作った感じですね。
大山:オープンしてお客さんのリアクションは、どんな感じだったんですか?
前田さん:初月は、ほぼ毎日満席だったんですよ。やっぱり「薫風」からの料理長が独立したっていうので、「薫風」のお客さんがみんなわーって来てくれて「いつ入れるの?いつ入れるの?」って1ヶ月ぐらいは予約パンパンの状態だったんですね。めちゃくちゃいいスタートダッシュが切れて。ただ2ヶ月目、3ヶ月目ってどんどん売上が落ちていった感じでしたね。もちろん期待してそこでずっといついてくれるお客さんもいれば、悪い意味じゃないんですけど「薫風」のお客さんが面白がって「ちょっと見てきたよ」みたいな感じで、「薫風」に戻る人も多かったりして、噂好きの人っているじゃないですか。なので初月は忙しくて、だんだんだんだん売り上げが落ちていって、恐怖体験でしたね。
大山:その頃僕、一度お邪魔しているんですよね(笑)。そんな時期があったんですね。
前田さん:5月のオープンで売上良くて、6月、7月って夏場に向けてどんどん売上落ちていって、8月ぐらいはオープン月の半分ぐらいだったんですよね『これはまずいな、このままじゃどうしよう』って思ってたら、9月ぐらいから上がり始めて、年末に向かって上がっていって年末にドカンって感じだったんですよ。年明けもまた落ちるだろうと思ってたら、思ったより落ちなくて1月〜3月も良くて、春ごろ1周年迎えた頃には、また毎日忙しい感じが続いていましたね。2年目ぐらいから、平日でも待ちのお客さんが出始めたんですね。エレベーターホールに立って待ってくれているから、そこにビールを持っていて『ビール飲んで待っててください』ってやったりしてて、1組出たらまた1組入って、そんな状況で。
「一軒ちょっとどこかで飲んで来るよ、また後で来るから」っていうのがあったりしたので、近くにウェイティングできるお店があったらいいなって思って、3年目に入った時に近くに「紋大志」を出した感じですね。
大山:居心地の良い、いいお店でしたよね。
前田さん:今でもあの店良かったって言ってもらえるお客さんがいますね。松下のキャラもあるから、根深いファンはすごい多かったですね。あっちの方がお客さんとの距離が近くて、あっちの方が好きだったってお客さんが多いぐらい。あれはあれで良かったなぁとも思いますし。
ただ失敗の1つとして、全く別のお店っていう感じでやれば、もうちょっとよかったのかもしれないですけど、僕的にもちょっとウェイティングに使えたりとか近くにある利点を生かしてっていうことばっかり考え過ぎちゃって、結局オープンした時にお客さんが2つに割れて、どっちも赤字っていう状態になったんですね。
大山:そうだったんですか!どちらも入っている印象でした。
前田さん:はい、それでこれはまずいってなりましたけど、「紋大志」の方も半年ぐらいで、黒字化はできたんですよね。すごい儲かるっていうのは少なかったんですけど、トントンぐらいでずっと走ってて。2年ぐらいやって暖簾分けのような形で松下に譲って営業していたんですが、続けていく中で都市計画の話が出て、立ち退きの話が出たんです。
「紋大志」の方は実は雨漏れがあったり、排水が弱くて厨房の水が10センチ溜まっていたりとかで、お店としてギリギリ成り立ってるっていうのがあって、立ち退きの話が来た時に真っ先に出ますって言いました。それでまた松下に『日いづる戻っておいでよ、一緒にもう一回やろうよ』って言って、今に至る感じですね。
大山:そうだったんですね。古いビルでしたもんね。それからコロナに入っていく感じですね。コロナ禍はどんな感じでしたか?
前田さん:コロナ禍は僕のキャラ的に周りからも「時短営業とかって言われても、どうせ前田さんやるんでしょ?」っていうふうに見られてたんですよ。それでやっても「そのまんまやないかい」って思って(笑)。時短営業も守らずに隠れて営業して、それでコロナが明けた時に、果たしてそれってコロナ乗り越えたって言えるんだろうかって変にひねくれてしまって。国がそうやって定めて、みんなで頑張って乗り越えましょうって言ってるんだから、それに従ってやって乗り越えればいいじゃんって思っていました。
大山:そうですよね。難しい判断でしたよね。それについて今はどう思いますか?
前田さん:今思えばやっとけば良かったかなって。売上とかのお金的な部分だけじゃなくて、ファンを繋ぐっていうところですね。(時短要請に従ったことによって)一旦お客さんが完全に切れてしまったんですよね。もちろん常連さんで「8時までだったら8時まで行くよ」とかって言ってくれるお客さんはもちろんいたんですけど、そうじゃないお客さんも多かったし、元々うちのお店のお客さんは、メインが40代〜50代の方だったんですけど、その辺りのお客さんが一番コロナ禍で出なくなった世代の方達でもあったので、会社で下の人間に飲み行くなって言ってるところで、俺行けないよっていうお客さんが当時実際にめちゃくちゃ多かったんですよね。だから、どのみちやっても(売り上げは)知れていたんですけどね。だったらもう真面目に守ってやろうと思ってやったんですけど、結局お店ってやっぱりお客さんの「代謝」ってどうしてもあって、いつも来てくれる常連さんがだんだん来なくなって。でも代わりにあの人が来るようになったっていう良い代謝が常にあったりはするんですけど、コロナによって代謝が完全に途切れたっていう感覚だったんですね。
大山:それはわかる気がします。その間に街も変わりますしね。特に六本木は変わりましたよね。
前田さん:そんなんで余計にコロナが明けても、前に来てもらってた人たちは来なくなっている。でも街の状況も変わっていて簡単には新規が取り込めない状況のままコロナが明けて。安心できる状況ではなかったですよね。
「紋大志」もそうですけど、都市開発で立ち退きがあったけど、コロナで開発が完全に止まってしまって、結局街から人が減っただけという感じで。六本木自体も代謝が進まないままコロナが明けちゃって、そんな中でうちもやっぱりお客さんの戻りが悪くて、当時来てもらってたお客さんとかも、コロナの3年の間で実は結婚してもう外にあんまり出なくなっちゃったとか、IT系の人なんかはリモートが9割だから会社には1ヶ月に1回しか行かないんだよとか、そうなると飲みに出れないみたいな話が多くなって、本当に一番のターゲットの世代のお客さんが、コロナでごっそり抜けちゃった感じだったんですよね。
大山:そうですよね。お店としてコロナの前後で、変えたことっていうのはありますか?
前田さん:単価をちょっと上げました。正直、単価上げってすごい怖くてずっとやってこなかったんです。オープンしてからずっと同じ値段でやっていたので。人によっては、高く感じる人もいれば、安く感じる人もいるのは、もうどの価格帯でもそれは絶対にあると思って、お客さん全員に合わせることは無理だし、やるなら今しかないと思って単価を上げたんですね。
大山:なるほどですね。改めてですが「日いづる」といえばメニューがないというユニークなコンセプトですが、今はどんな形態、単価でやっているんですか?
前田さん:そうです、基本的にはメニューがなくて料理はおまかせコースっていう形をとっています。コース料理だけなのか、飲み放題をつけるのか、ドリンクを別にしてオーダー制にするのかっていうので、価格帯も変わってくるんですけど、以前は大体6000円〜8000円ぐらいの価格帯だったんですけど、それを7000円から8000円、9000円という感じにグレードを上げました。あとはドリンクのグレードによって値段が変わりますね。うちは焼酎と日本酒に力を入れてやっているので、焼酎だけなら7000円。日本酒も飲み放題につけるなら8000円という形でやっています。よく言われるのは、会社の経費で落とせるのは5000円までなので、できれば5000円以内でって言われることもあるので、5000円のコースも残してあります。ショートバージョンで、場合によって延長してもらうという感じです。
大山:何より僕は「店主に会えるお店」というのは、めちゃくちゃ貴重だと思っているんですよね。そんなお店に本当に頑張っていただきたいなと思っているのですが、これからの「日いづる」もそうですし、前田さん個人がやっていきたいことは何ですか?
前田さん:僕はすごい泥亀(焼酎)を、昔から応援しているじゃないですか。僕それを応援している理由の1つとして、この前仙人(泥亀プロデューサーの野村さん。通称:泥亀仙人)が久しぶりに来てくれて話してて『やっぱりこの人好きだなぁ』って思えたのは、仙人が今年67か8とかで「わし、もう1発花火を打ち上げたい」と言うんですよね。67~8でそんなこと言う人って世の中に何人いるだろうって。そのぐらいの年で世の中の人だったら、自分のやってた夢も子供や孫に託したりとかして、自分はいかにいい落ち着いた老後を過ごせるかっていうことを考えそうなものを仙人は、そう言っていてそれに対してシンプルに『仙人好きだなぁ』って思って。自分も60代後半になった時に、もう1発花火打ち上げてやろうと思って、まだこのままじゃ終われないって言える男でいたいなって思って。それで『仙人、もう一回一緒に頑張ろうよ』って言って、お店で泥亀とコラボした泥亀祭りをやったりして。
お店の常連でもあり、長らいお付き合いのある「感謝ノ焼酎 泥亀」の野村さん
大山:いいですね。お店、会社としてはどうですか?
前田さん:うちとしては、まず1つの目標として今年17年目に入ったんですけど、オープンした時の目標だった20年を目指してやっていこうと思っています。 20年続くお店にしたい想いでオープンさせたので。それと同時に、やっぱりコロナやいろんなこと、この16年の間にあった中で、やっぱり飲食店っていい時期もあれば悪い時期も必ずどこのお店もあると思うんですよ。
特にコロナの時にお酒主体の業態って時にはいいけど、悪い時もあるし昨今の米騒動じゃないけど、米がどんどん値上がってる中で、麺とかもいいなぁっていうふうに思って、麺の開発をさせてもらうっていう話を最近進めています。家庭でも食べられる、もちろんお店でも出しますしお土産で買ってもらえたり、通販も対応できるようにして、食品事業もやっていけたらと思っています。
やっぱり飲食が好きなので、好きっていう気持ちがなかったら、とっくにこのお店も辞めてたと思うんですよ。なので、自分自身が好きじゃないと続かないと思っていて。やっぱり好きっていう気持ちがあったから、今までやってこれたんですよね。自分でお店やっていたら気持ちが折れる時もあれば、気分が乗らない時もあるけれど、そんな時に辞めることって簡単なんですよね。辞めるのは簡単だけど、ずっと僕みたいに飲食畑で来た人間が辞めて何ができるの?って思うし、好きという想いを大切にして愚直に一歩ずつ頑張っていきます。
大山:ありがとうございました!僕もまた、お店使わせてもらいます!
編集後記
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