ロード1
- ・野球エリート
- ・15歳の挫折
- ・典型的なダメ大学生
- ・圧倒的「陽キャ」
大山:まず生まれはどちらで、どんな幼少期を過ごしましたか?
鈴木さん:生まれは、お母さんの実家が山梨県の南アルプス市っていうところで、めっちゃ田舎の方なんですけど、そこで生まれました。神奈川県の戸塚とかに住んでたこととかもあったりしたんですけど、年中の時に埼玉の久喜、今の実家なんですけど、そこで育ちました。
小学1年生からずっと高校生までは野球がっつり、高校とかも特待生で行って寮生活でした。阪神の鳥谷選手とかがいた高校でした。
大山:そうなんですね!すごい。どちらの高校ですか?
鈴木さん:聖望学園という埼玉の学校なんですけど、野球の人生で言うと15歳までは年上の先輩の試合に1人だけ出ちゃう、スーパー選手みたいな感じだったんですけど、そういう強豪校に行くと、大阪とか地方出身のやつとかもいて、自分よりも体が小さいのにめっちゃ野球がうまいやつとかがいて、入学初日に「あ、ここ無理だわ」みたいになってしまって(苦笑)。
入寮して、そのまま地元の友達とかには「甲子園行ってくるわ」なんて言って、初日に挫折するみたいなのを味わって、そこでぐわーっと(グラフが)下がって行くみたいなのことがあったのが15歳ぐらいの頃です。でも「せっかく来たからにはやらないとな」って1年間はフルにサボって、2年生ぐらいから「マジでやってみよう」という感じでやって、レギュラーは無理だったんですけど、メンバーにはしっかり入れていたので、そこで1個の挫折からの成功体験っていうのはありました。
大山:スポート特待生あるあるですね、このインタビューでもよくそういったエピソードお聞きします。学校のクラスの中では、どういうキャラクターだったんですか?
鈴木さん:自分ので言うのもあれですけども、圧倒的「陽キャ」っていう感じでしたね。中学校の時とかはヤンチャ集団にはいたんですけど、先生からめっちゃ気に入られてて、評定とかも良くて。
大山:そこは見た目通りなのですね(笑)。でも勉強も頑張っていたんですね。
鈴木さん:そうですね。親が銀行員で、真面目で『野球でいいところ行くんだったら最低限勉強しないとダメだよ』っていうのはずっとあったので、中学校はサボったりとかしてたんですけど、塾ではめちゃめちゃ真面目にやっていましたね。
大山:そのあと大学生になるわけですが、どんな生活を送っていましたか?
鈴木さん:野球が終わって、ずっと小学校から打ち込んでいたものがなくなって、本当ぽっかり穴が開いたような感じでした。それで「とりあえず飲食店でアルバイトでもするか」ぐらいな感じで、地元の久喜駅前店の和民に18歳の時に半年くらい働いたんですけど、キッチンの二つのポジションしかやらないっていうやる気ゼロの早上がり要因みたいな感じで(笑)、当時は飲食店をやりたいとか1ミリも考えてなかったですね。
大山:絵に描いたような、ダメ大学生って感じなわけですね(笑)。みんなこれくらいの年齢で、飲食にのめり込んでいく方が多いのですが(笑)。
鈴木さん:はい(苦笑)。「アルバイトって言ったら居酒屋っしょ」ぐらいな感じで働いて、その後お金稼ぎのためにパチンコ屋で働いたんですよ。時給がいいっていうだけで。それで、大学1年生の時パチンコ屋でもお金足りないなってなって、居酒屋のキャッチに出会って、そこから2カ月目で手取り40万円とか稼いじゃって、70~80人ぐらいいる中で、3番目ぐらいの営業成績を残しちゃって。
大山:エリアはどこだったんですか?
鈴木さん:大宮ですね。
大山:うまくいった要因というのは、圧倒的「陽キャ」が功を奏してるわけですよね。
鈴木さん:それもそうですし、今思うと努力もめっちゃしてたなって思います。一番すごかった人が交渉に入ってたら後ろに張り付いて交渉を盗み見して、見よう見まねで全てパクっていって、その人には嫌われながらもやってましたね。それで20歳ぐらいまでバーって稼いだんですけど、ちょうど大宮の居酒屋のキャッチの取り締まりが厳しくなって、20歳の時にそこでパクられるっていう事件が起きて。それで(グラフが)下がっていって「どうしようかな」ってなっていたんですけど、それでも「やっぱりキャッチは楽だし、稼げるし」みたいな感じだったので、会社を変えて、その次に来たのが錦糸町です。錦糸町に来てキャッチをして、まだその時は全然飲食店をやりたいなんて考えていなくて。
ロード2
- ・大学中退
- ・バイトで月収40万円
- ・津田沼でキャッチチーム結成
- ・法外契約で独立
大山:そりゃやばいですね(苦笑)。条例が厳しくなった時ありましたものね。
鈴木さん:それでその時ぐらいに学校も辞めて、親には「22歳のみんなが卒業するまでは、ちょっと自由にさせてくれ」って言って自由にやっていましたね。
21歳ぐらいの時に「もう自分でキャッチグループを作ろう」ってなって、中国の方にお店を出店させて、そこに自分がキャッチで派遣するみたいな事業を21歳から23歳までやっていて。
大山:すごい。作っちゃったんですね(笑)。飲食店をやりたい中国の方がいっぱいたわけですよね。
鈴木さん:そうですね。その事業を自分でやる時に千葉の船橋に引っ越して、その中国の方が最初に出店したエリアが海浜幕張で、そこで2~3年ぐらいグループでやってました。
でもこのとき中国の人と関わったのが初めてで、もう仕事の仕方がびっくりで。焼鳥とか…
〜 中略 〜
※書けないのですが、要はひどいクオリティだということをこの間に話してくれました(苦笑)。
・・・それで「メンタル強!みたいな」
それでも1,000万円以上は売れていて、それで「これで売れるんだったら、自分でも出来るんじゃない?」と思って、1店舗目を津田沼に出店したんです。そこは居酒屋のキャッチを使ったお店ですね。「自分が集客して、オープンラストで営業して、自分で仕込みと閉め作業をやれば利益は出るっしょ」みたいな軽い感じで。それが23歳の時ですね。
大山:それが何年ですか?
鈴木さん:2019年ですね。大宮時代の時にお世話になった方に(「とっても高い金利の条件」と言い換えておきます(笑))で運営業務委託みたい形で運営をしていて、それで2020年のコロナです。それでにっちもさっちも行かなくなって、弁護士入れながら、最終的には和解をしてそのお店を買い取る形にはなって、今自分のお店になっているんですけど。
ロード3
- ・コロナ襲来で大ピンチ
- ・父親から救いの200万円
- ・社員の年収1,000万円超え
- ・10人の社長を作る
大山:そのスキームもよく聞きますね(笑)。その津田沼の店は、まだあるんですね?
鈴木さん:あります。コロナ禍も本当に一回も時短とかやっていなくて、シンプルにお金がなかったので、やるしかなかったんですよね。休むという選択肢がなかったので、やっていくと売上が徐々に上がっていくのが分かって。
大山:そうですよね。独立したばかりでまだお若いし、時短とかしたいけどできない、っていうね。
鈴木さん:はい。それでただ逆にコロナ禍でチャンスもあって、元々錦糸町の時にお世話になった大きなグループの会社のお店が津田沼にもあって、その会社は撤退するからそこをやらないかっていう話がありました。当時個人だったので、個人で取れるような物件じゃないところをいただけるっていうので『やらないか?』「やります」って即決して。2週間後から家賃90万円みたいなのを気合で始めて。
大山:おぉ(笑)。それは何年何月ですか?
鈴木さん:2020年8月ですね。
大山:すごー(汗)。ジャッジが早すぎるな~(笑)。
鈴木さん:そうですね。7月15日に話をもらって。8月からスタートみたいな。
大山:まだコロナ融資とかは通っていない時ですよね?
鈴木さん:融資がちょろちょろっと入って、売上も徐々に上がってきて「これいけるんじゃないの?」って若干調子に乗ってましたね。
そこからはある程度順調にいって、法人にして3店舗目が千葉駅です。ただ、その時ぐらいに当時のNo.2が勝手に独立しちゃって(苦笑)。それで組織をでかくすることが不安になってきて、色々学び始めたんですよね。経営者とは何かというのを。
大山:そんなことがあったんですね。大変でしたね。
鈴木さん:今考えたら自分のお金稼ぎのためだけにみんなを巻き込んでたっていうのがあって、その辺から変わり始めて、業態も「ちゃんとキャッチを使わないでやっていきたいな」っていうので、4店舗目にFCで「ホルモンたけ田」を赤羽でやって、そこもめちゃめちゃいい物件で。以前に一緒にやっていた中国の方の縁でありえないような場所を借りることができて。自分が1期目の会社だったんですけど、すべての申し込みを退けてくれて、その物件が取れたんですよね。
大山:気づきが早くて、よかったです(笑)。
鈴木さん:はい(笑)。それでその後に、自社業態でやってみようっていうので、ここ( おでんと釜たき飯 あおちょ)を作りました。今で居酒屋8店舗と、あとバーを2店舗やっています。
おもむろにテーブルにサーブされたおでんはお通し。なんとおかわり自由
大山:こちらおでんのお店ですが、どうしておでんの業態にしたんですか?
鈴木さん:キャッチ系出身の人がやっていて成功していて「自分達でもある程度は再現できるだろう」ぐらいな感じで、始めた感じですね(笑)。その中でもSNSにあげたくなるような内観やアイテムを散りばめました。そうしたらびっくりするぐらいバズってとっても調子良いです(笑)。
大山:コロナ中、仲間たちが辞めたりとか大変なことはなかったですか?
鈴木さん:もちろん大変なこともあったんですけど、うちはコロナでデカくなれたというか、当時スタートは社員ゼロで、自分と適当に当時キャッチ系で仲良くなった人たちをわーって集めて作ったお店だったので、マニュアルとかもないようなところ始めて。それでコロナが来て、当時学生ばっかりだったので、学生は稼ぎたい子はがやっぱり多かったので、毎日営業しても働いてくれる子がいて。当時学生の子たちもコロナで就職先が渋かったらしく『だったらここに就職した方がいいんじゃないか』ということで、当時の初期メンバーが半分ぐらいは今でも社員でいますね。この6年間で、社員の求人費がまだ2万円なんですよね。コロナ禍だったから人が定着したっていうのが、あるっていう感じですね。
大山:それはいいですね。必死に走っていたら、周りがついてきてくれたというか。
鈴木さん:ただ細かいところで言うと、去年上野にガールズバーを出して、それはもう本当にオープンして一瞬で横領されて(苦笑)、「終わった…」みたいな感じの事もあって「他の畑やっぱり違うんだな」と思って、そこから飲食にフルコミットしようとなりました。
大山:一瞬っていうのがいいですね(苦笑)。しくじりで言ったら、何か他にあったりしますか?
鈴木さん:一番はやっぱり当時のNo.2が独立したときですね。自分としては「なんかもっとできたんじゃないのかな」「やってあげられたんじゃないかな」って深く反省して、学びましたね。
それでいろいろな人に相談したら人材教育の「アチーブメント」っていうものに出会って。それまではお金の為だけに生きていたので、そういう人が全てじゃないんだなって事とかを学んで、考えをどんどん広げていっているので幹部陣は今そういうマインドにはなってきてるんですけど、やっぱりまだまだ全然ついてこれてない人達もいて、教育っていうところが今、一番苦戦しているんですよね。
大山:人材育成、人材教育は飲食店の肝ですもんね。永遠の課題ですね。
鈴木さん:あとコロナ禍でのやばい話で言うと、2月ぐらいから徐々にヤバかったじゃないですか。それで、2月、3月と本当にヤバくて。
コロナ融資が着金する前の話ですが、まず人件費を優先しないと…ということで、業者さんには2ヶ月支払い待っていただいたんですよね。それでもキャッシュが間に合わなくて行き詰まってるときに、電話がきたんですよね。それが父親からの電話でした。
銀行員だった父は飲食業界がいかに厳しい状況かをたくさんの企業を見て知っていたはずでした。
『大丈夫か』みたいな感じで電話をくれて。これ本当泣けるぐらいの話なんですけど『無理だったら、ちょっとは貸せるから、お前がやりたいところまでやれよ』って言ってくれて「ちょっと俺、無理かも…」って言ったら200万円貸してくれて。それがあって、今があるんです。当時、親から『差し押さえとかになるなよ』って冗談で言われたこが、実際それが来そうな状況だったわけですから。あの時に、ギリギリまで貸してくれるってう親の気持ちが嬉しくて。
大山:めちゃめちゃいい親御さんですね。どちら(父母)も一致して?
鈴木さん:お父さんですね。そう言ってくれて、なんとか厳しい状況を抜けられるかもしれないっていうのがあったので。辞めるっていう選択肢もあったんですけどね。それで融資が着金して首の皮が繋がったという感じで。
大山:その時は、まだ1店舗ですか?
鈴木さん:創業の1店舗だけですね。創業してすぐ、まず50連勤してちょこちょこ休めるようになって、コロナが来てさらに50連勤ぐらいして…みたいな感じでやばかったんですけど、そこのお金でなんとか。
大山:ギャップ涙もありましたね(笑)。
鈴木さん:これを思い出すと、いつでも泣けちゃうんですよね。
この人は優しい人に違いないと確信した瞬間(涙)
大山:普通だったら、保守的な銀行員のご両親だったら辞めといた方がいい言いますよね。だけど、銀行員としてのアドバイスじゃなくて、親としてお前がやりたいんだったらって言ってくれたってめちゃめちゃ良い話ですね。これいい話なので、カットしますね(笑)。
鈴木さん:(笑)。そのあたりから「本当にもうやるしかないな」というか「自分だけじゃない」みたいなことを思って。組織がでかくなった時に従業員のことを考えると「マジで俺って何も示せてないな」って思って。社長としてもそうですし「大事な20代前半を、ただ労働に使っちゃった」みたいな感じだったので、自分自分じゃなくて、仲間と同じ景色ぐらいは見れると思っているので、そういう想いで今頑張ってます。
大山:今29歳、30歳というところですが、会社をどうしていきたいなど目標はありますか?
鈴木さん:今の現場の従業員がめっちゃ稼げてるかって言ったら、やっぱりそうではない。でも自分はある程度、裕福な暮らしをさせてもらっているので、まずは従業員の給料を年収1,000万円というところを早く突破したいです。自分よりも年下のメンバーばっかりが働いているので、できれば20代のうちに年収1,000万円を取れる企業を作りたいなと思っていて、その為には今の店舗数じゃ全然不可能なので、20店舗から30店舗っていうところは目指していますね。ただ、100店舗とかいうよりは、とりあえず年収1,000万円を稼がせたい、という想いですね。
あとは社長を10人作ろうっていうのを目標にしていて、10人でみんな年収2,000~3,000万円ぐらい稼げるようになって、みんなの家族で旅行行ってみたいなのもできるといいねっていうのがあります。
大山:素晴らしいですね。毎年店舗数の目標みたいな、数値的な目標はありますか?
鈴木さん:元々は「年に1店舗は出そうよ」って言ってるんですけど、結果1店舗以上出せているので「1~2店舗は必ず出したいね」っていう感じです。
大山:これからやりたい業態、業種とか、やりたいことはありますか?
鈴木さん:ここは30坪ぐらいで60席くらいあるんですけど、もう少し小さいお店で、それこそドリームオンさんのお店みたいに、もっと人が輝けるような店舗を作りたいんですよね。そういう感じでお店を設計したことがなくて。今、居酒屋甲子園とかも携わらせてもらって「人ってこんなに輝けるんだ」っていうのは初めて知って、次はそういう店舗にしたいなっていうのはありますね。
大山:新宿スワンみたいな世界からよくぞ、そこまで飲食愛が芽生えるまでになりましたね(笑)!
鈴木さん:同世代でも『別に今でも儲かってるからそれでいいよ』って人はやっぱり結構いて。でも、自分はそうじゃなくて。店長とかで働いてくれてる子が、誇りを持って働けないじゃないですか。お客様にしっかり喜んでもらえないお店、それって幸せじゃないなと思って。そういう本質的ではないものよりかは、自分の収入が減ったとしても、幸せになるようなお店を作りたいなと思いますね。
大山:子供の頃からのお話聞いているので、私個人的に親心みたいな感じで感動しております(笑)。いいですね。
鈴木さん:今はそういうキャッチ系の時に仲良くなって、お店やってるやつをどうにかこうにか、居酒屋甲子園だったり、飲食愛に溢れる集まりに巻き込んいくというのと今しているところですね。
大山:素晴らしいですね。本質をついていますね!本日はありがとうございました!
編集後記
おそらく街であったら声をかけることは(でき)ないであろう、街であっても友達になることはないかもしれない、そんなイケイケな風貌の鈴木さんですが(笑)、本当に本当にナイスガイでした。何より、この人は本当に優しい。私はインタビュー中にリアルに涙を流す人と初めて会いました。それくらい心の優しい男なのだと思いました。それと同時に感謝を忘れないという謙虚な姿勢を持っているのだと確信しました。金儲けだけの世界から飲食の魅力を発信する側へ。そして仲間と共にワンランク上のステージを目指す鈴木さんの今後をこれからも応援していきたいと思います。(聞き手:大山 正)