スペシャル企画

クロスロード〜外食経営者のルーツと転機〜 vol.3/株式会社デイドリーム 代表取締役 亀岡佑祐氏

この企画は外食経営者の「クロスロード」、すなわち人生の転機となった出来事や自身のルーツについて、ライフチャートを経営者自ら描いて頂き、それに沿ってこれまでの人生を深掘りしていくインタビュー企画となっています。

第3回目は、愛媛県松山で焼肉を中心に全9店舗展開している株式会社デイドリーム 代表取締役の亀岡佑祐氏にお話を聞きました。地元松山で生まれ育ち、20代の大阪で売れっ子ホストとして活躍、その後地元に戻り素人ながら飲食の世界に飛び込んだ異色の経歴の飲食店経営者です。システム開発のIT企業も運営するまさに二刀流経営の誕生秘話についてお聞きしました。


ロード1

  • ・おばあちゃん子
  • ・団地のみんなとバンド活動
  • ・ピザチェーンでバイト
  • ・音楽専門学校で大阪へ

 

幼少期の亀岡少年はどのような感じでしたか?

亀岡さん:家族構成は親父とおかんがいてて、弟と妹がいます。僕は愛媛県の松山市ってところで生まれて、おかん方のおばあちゃんが車で30分くらいのところにいて、親父方のばあちゃんが、車で1時間ちょいぐらいのところにいたので、週末はどっちかのおばあちゃんのお家に預けられてるみたいな感じだったんですよ。僕としてもそっちの方が良かったし。

なんでだったかは、わかんないですけどね。笑 当時親父が働いてたかどうかもわかんないです。笑

 

大山:おばあちゃんっ子なんですね。

亀岡さん:そうですね、めっちゃばあちゃんっ子ですね。不自由なく育ててもらった感じですね。

当時、団地に住んでまして、そこに同級生や学年がずれてる子とかいて、普段はその子達とずっと遊んでましたね。僕、喘息持ちだったんですぐ体力がなくなってしまうんですよね。僕と弟は喘息がひどくて。なのでサッカーとか野球みたいな運動はしてなかったんです。

 

大山:そうなんですね。今経営者をやっているわけですけど、リーダーシップをとってみんなと引っ張る、みたいな子ではなかったんですね?

亀岡さん:そうですね、あんまり。ぼーっとしてましたね。笑

 

大山:その後ですが、中学〜高校に上がって印象的な出来事とかは何かありましたか?

亀岡さん:中学の時だと、僕らの時代はまだちょっとガラが悪い感じがあったんです。小学校で仲良かった友達が「あれ?(悪くなってる)」みたいなね。先輩とかも。だから自分もそういう道に進むんだろうなって感じでしたよね。でも意外とそっちにはがっつりは進まなくて、それというのもバンドをしていたんですよ。団地のやつらの影響で、楽器に目覚めたんです。中学2年生だったと思います。X JAPANとかL’Arc~en~CielとかGLAYとかそういった音楽をやっていました。

大山:世代ですね。笑

 

大山:それで高校を卒業してすぐに大阪に行くのですか?

亀岡さん:いえ、高校卒業して、一年地元で就職しているんです。高校時代は変わらずバンドをやりながら、バイクなんかも好きでしたね。高1から400ccのバイクに乗ってました。

高校に入ってくらいからやっぱり「都会に行きたい」というのがあったんですよ。だけど何の目的で行くかっていうのも決まっていなくて。高校1年の頃から、バイトはしてたんですけどね。お金を稼ぐっていうのが結構、性に合ってるとは思っていました。それで高校3年生の時に同級生らがデリバリーのピザ屋でバイトをやりだして、僕もそこに入ったんです。地元にあるお店で「ロイヤルハット」っていう四国では、数十店舗展開しているところなんですけど。

そこで僕元々バイクに乗るのが、好きなわけじゃないですか。バイクで配達をしながら、地図を覚えつつ裏道を駆使して、気持ちよく走って「こんなんで仕事になるの?」「こんなんでお金もらえるのってめっちゃいいやん!」みたいな感じですよね。笑

それで同級生と卒業したらどうする?となったときに、「(まわりが)ここに就職するわ」ということだったので、それなら僕も一緒にやろうかなみたいな。大阪に行きたかったんですけど、貯金もなかったんで、お金も貯めなあかんしというわけで。

 

大山:それでそのロイヤルハットに就職したんですね?

亀岡さん:そうですね。でも最初からちゃんと言ってました。「1年ぐらいで辞めると思う」ということは。

 

大山:飲食店との接点はそこが初めてということですか?

亀岡さん:いや、その前にも何個かあったんですよ。うどん屋でバイトしたり。でもまず、人生のターニングポイントというとロイヤルハットの社員ですね。楽しかったですね。グラフもぐいっと上がってるところです。

 

ロード2

  • ・バイトでキャバクラボーイ
  • ・No.1ホスト→燃え尽き帰郷
  • ・二度目のホストもNo.1
  • ・26歳、地元松山で起業

 

地元を離れて大阪へ。そこで大きな人生のターニングポイント、夜の街へ。

亀岡さん:高校を卒業して、ロイヤルハットに1年間就職するわけです。お金を貯めてその次に「専門学校行くか」ということで。大阪の音楽の学校に行くんです。バンドをしていたんで、裏方の学校に行ったんですよ、PA(音響)の。大阪は全てが都会やから、僕都会のビルの街並みとかも好きやし、もうめちゃくちゃ楽しかったですよ。

高校生の頃にライブに出るのが気持ちよくて。リハーサルの時間とか、先輩達と月1で活動してるときの空気感とかが好きだったので「裏方がしたいな」ということで19、20歳で専門学校に行きました。それで卒業するときに、PAの道に進むかどうかってなったんですけど、その当時って「10年間ぐらい修行せなあかん」みたいな時代だったんで「いや、安月給で10年無理やな」って。笑

それで専門学校の2年生のときに、僕キャバクラのボーイを始めたんですよ。20歳とか21歳ぐらいのときですね。キャバクラのボーイ始めて、割とすぐ幹部候補にさせてもらったんです。「お前いいな」みたいな感じで。

 

大山:ご自身のどこが買われたと思いますか?

亀:雰囲気ですかね。でも、ピザ屋のとき僕社員してたじゃないですか。なので仕事をさばくのうまいんですよ。要領がいいと言いますか。

 

大山:ここで(グラフが)上がっていますね。これは収入にも比例していますか?

亀岡さん:そうですね。アルバイトでしたけど、月20~30万円ぐらい稼いでましたよ。キャバクラは時給も高いし、「亀ちゃんちょっとあそこの席着いて」と言われて、お酒飲ませてもらえるんですよ。「お酒飲んでいいの?」って。時間経つの早いし、タバコ吸っていいし、それでお金もらえるので。

お客さんにも喜ばれるし、キャストの女の子にも喜ばれるし、終いにはシャンパンも入ったりして。シャンパンとかも額がでかかったですよ。ゴールドで50万円くらいのシャンパンだったので。ピザ屋のときはバイクで配達してるのが楽だと思っていたんですが、キャバクラの仕事を始めてみると「こんなんでいいの?」「こんなのが仕事?」って思いましたね。最初は嬉しかったです。でもそれに慣れてくると「いや俺、女の子よりずっとお客さんを喜ばせてるやん」と思ってきてしまったり。僕の指名が多かったんですよね。なのでいろいろ思うところはあって。

 

大山:なるほど。だから(グラフが)ギザギザしているんですね。亀岡さんに会いに来てる人が多かったのですか?

亀岡さん:いや、もちろんメインは女の子ですよ。でも100席ぐらいあるお店だったのでいろいろな被りがあるんですよね。メイン(指名)の女の子がいて、その子がどうしても外れちゃうじゃないですか。そういうときの時間つぶしには僕がもってこいという感じでしたね。そんな環境の中で、お店の女の子たちに「亀ちゃん、ホストしたら?」って言われて。

 

大山:それは大きな転機ですね。21~22歳くらいですか?

亀岡さん:まあまあずっとモテ続けたんで、人生。笑 「いけるやろ」と軽い感じでした。別に10年も修行せんでいいし、水商売とのお金の高低差が激しいし「やってみるか」と。専門学校の卒業を機にですね。

僕がその時、考えたのは、どれぐらい稼げるかわからないですけど「稼いで自分でライブハウス作ったらいいやん」と、そう思ったんですよ。

もちろんホストはもう短期勝負で。多分一般的に勤めるよりかは額がでかいし、チャレンジできるんだったらしておきたいなと。

 

大山:起業精神みたいなものは、20代前半からあったのですか?

亀岡さん:実は自分のじいちゃんが、母方も親父方も経営者だったんですよ。ちっちゃい工場と土建屋なんですけどね。だから結局そういう(経営者の)マインドが染み付いてたかもしれないですね。

 

大山:ホストに勤めてどんな感じだったんですか?

亀岡さん:大型新人が入ってやるぐらいの気持ちで行くわけですよ、自分は。「来たで」と「大阪揺れるで」と。笑

オールバックで、面接に行ったのを覚えてますわ。笑

「お前オールバック?」って、言われたの覚えてるんですけど。21歳の時ですね。

お店がその当時、一番有名なお店だったんですよ。アクアってところだったんですけどその時は大阪でめちゃくちゃ有名で、でも僕はホストを知らないから、キャバクラの子に「アクアに行ったら?」って言われて。右も左もわからないのですが。でも自信はあるんですよね。「俺が席着いたら取れるもんやろ」と思ってましたね。

売れっ子ホスト時代のイケイケな亀岡さん。「あと半年働いてたら、(道頓堀の)グリコのマーク、俺になってたくらい(売れてた)すよ!」が現在、すべらないテッパントーク。

 

大山:ただ、入店してしばらくは苦労するわけですよね?

亀岡さん:お客さんって2種類いて、「指名で来る」か「新規で来る」か。新人の僕らが席につく場合は新規という、まだ誰も指名するホストがいない子とかお店が初めての子ですよね。そういうお客さんには、僕らはチャンスを平等に与えられるんですよ。

それでお客さんがテーブル着くじゃないですか。3人いっぺんにホストの僕らがつくわけですよ。大体10回転ぐらいしてたと思います。それで順番とかのルールもいろいろあるんですけど、全然喋れないんですよ。先輩方のレベルが高すぎて。

 

大山:そうなんですね!亀岡さんでも全然喋れなかったんですか?

亀岡さん:全然喋れないですね。場を乱したらあかんとかいろいろあるんですよ。自分はすぐ結果が出ると思ったら、全然(結果が)出なくて徐々に自信がなくなっていくわけですよ。後輩も入ってきて、後輩とかは指名取り出すのに僕だけ3ヶ月ぐらい全く指名取れなかったんですよね。

 

大山:そんなに苦労したんですね。ここで(グラフが)落ちますね。

亀岡さん:落ちますね。僕それまであんまりお金に困ったことがなかったんですけど、そのとき覚えてるのが親戚のおじちゃんがお店に来て「親戚が大阪の大学に勤めるから、その家探しついでにお前ところ寄るわ」って。それで来てくれて話していたら「お前、困ってるんか」といって2万円を渡されたのだけ覚えてるんですよね。その2万円がめっちゃでかかったんですよ、その時の僕からしたら。「え!?2万円も、もらっていいの?」って。笑

 

大山:それぐらいお金がなかったんですね。

亀岡さん:そうですね。でもそういうの言えないですよ。言えないけど察してくれて、2万円を渡してくれたんです。嬉しかったですね。

それでもまぁ、売れないですよ。店の中でお客さんは取れるもんと思っていたけど取れないから、その当時ってキャッチしたらあかんかったんですよ。営業時間中にキャッチしたら駄目だったんで、仕事終わってからナンパしなさいと。営業後に必死でナンパして番号を交換してみたいな。笑

 

大山:そこからどのように来店まで繋げていくのですか?

亀岡さん:いやでも、ナンパして仲良くなったりするのは簡単なんですよ。最初は難しかったんですけどね。徐々に覚えてきて、番号交換を1日10件するまで帰らないとかあったりして。ただ番号は増えても「次お店に来て」というのはなかなか言いづらくて。相手側はそんなつもりじゃないわけじゃないですか。それを商売に変えないといけないというときが難しくて、すごく苦戦しましたよ。

 

大山:そこからどのようにブレイクしていくのですか?

亀岡さん:そういう日々がずーっと3ヶ月続くんです。ひたすらそれをやり続ける、と。そうするとちょっとずつ、来てくれる人が増えだしたんですよね。ちょっとずつ。相変わらず中ではお客さん取れなかったんで。全然。外で知り合いになったお客さんが来てくれるようになっていくんです。

 

大山:それで徐々に指名というか、可愛がってくれる人が増えてきたということですね。

亀岡さん:そうですね。その時に転機があって、キャバクラのときのお客さんが「1回お店行くわ。亀ちゃん、頑張ってるらしいね」と。男性のお客さんですね。お店の女の子のお客さんなのですけど、そのキャストの女の子とも仲良かったので。

それでその来てくれた日に、200万円使ってくれたんですよ。100人ぐらい在籍している大きい店で1日200万円は、その当時すごかったんですよ。300万円で売れっ子と言われた時代だったんで、「いきなりうるさいやつが、200万円いったぞ」と。笑

でも「どうやらあいつのエースおっさんやで」みたいに言われてめっちゃめっちゃ恥ずかしかったんですよ。笑

 

大山:それをきっかけに覚醒していくわけですね?

亀岡さん:そうですね、その後ですよ、4ヶ月とか5ヶ月とか。やっぱり売れ出すと自信もつきますし、新規が取りやすくなりますよね。そこから、あんまり覚えてないですけど1年ぐらいでNo.1になりましたね。

新人No.1を取って、No.1を3ヶ月ぐらい連続で取ったんですよ。

それが結構、インパクトが大きかったと思うんですよ。新人が有名店で3ヶ月連続でNo.1取るというのはなかなかなかったんで。

 

大山:すごいですね。当時、接客業のスキルを磨いたと思うんですが、大事なことって何だと思いますか?

亀岡さん:やっぱり大阪なんでね、「会話」ですね。そのお店(アクア)のときは、まず自分でそういう道に行けばすぐ売れるもんやと思っていたわけですけど、全く売れなくて衝撃を受けて、そこからズドンと落ちて、自分のプライドは砕けつつ、でも「正常に保たなあかん」と思って。まだ若かったから気持ちの整理がつかないまま、毎月毎月の戦いを乗り越えようと必死だったんですよ。

徐々にトップ10の戦いから、次はナンバー5以内の戦いになって、ずっと心休まるときはなかったですね。お金が増えても、自分を騙し騙しというか、最初の頃って、「新人No.1になったら景色が変わるんちゃうか」って思ったんですけど、全然満たされないんですよね。次は「トップ10に入ったら」という具合に、ずっと追いかけっこで「No.1だったら景色変わるんちゃうかな」と思って、頑張ってNo.1になった時に「もう疲れた」みたいな感じが本音だったんですよね。自分にも余裕ないし、お客さんにも「無理させて楽しんでないんちゃうかな」って。

それで「もうあかん」と思って、1回ホスト辞めたんです。半年ぐらいニートしてたんですよ。ゆっくりしたかったから。貯金を切り崩しながら。

いよいよ貯金もなくなって、一回愛媛に帰ってどうしよっかなって。それで以前勤めてたピザ屋に戻って働かせてもらって、その時に心が満たされたんですよね。1日の終わりが充実してるわけですよ。多分時給1,000円以下ぐらい。ホストのときは月給200~300万円ぐらいあったと思いますが、満たされない。

「これなんやねん」と思って。そのときに読んだ本が「見返りを求めず貢献しよう」と、そんなことが書いてあって、それでぱっと目が覚めて「俺、貢献してなかったな」と。それでピザ屋で2~3ヶ月とやってるうちに心が満たされて「俺もう1回ホストやりたいな」「俺自分のことしか考えてなかったな」って感じで。

 

大山:それでまた大阪に舞い戻るわけですか?

亀岡さん:そうですね。それで第2回目のホストをやりました。次は大阪のミナミだったんですね。当時、北新地の頃の先輩が独立したお店が、ミナミにあってそこに行きました。メリーゴーランドというお店です。

最初にどういう待遇で働いていこうかって話になったんですよ。「幹部でもええで」と言われたんですけど、1年ぐらいブランクがあったし、僕は貢献する気満々だったから、プライドとか全部とっぱらいたくてヒラのホストからまた始めました。時間が経ってしまっているのでもう値打ちがないんで。お客さんも全然切れちゃってるし、さらでやるしかないって感じでした。

ただやっぱり、めちゃくちゃ恥ずかしかったですよね。「あれ、なんか見たことある」とかって言われるし、ヘルプに着くのとか嫌やったんすけど「そんなの関係ない、笑かしたんねん」て開き直ってましたね。笑

 

大山:それは大きな転機ですね。

亀岡さん:そうですね、「やれることやったろ」の精神だったので。それで、アクアのときは1年半かけて売り上げが500万円ぐらいだったんですけど、メリーゴーランドでは半年ぐらいで500万円になったんですよ。その時、心がめちゃ満たされてて「全然あの頃とは違うわ」って思いましたね。与えられたタスクをこなすんじゃなくて、主体的になったのがそのメリーゴーランドというお店でした。

 

大山:そこからホストはどういうきっかけで辞めるんですか?

亀岡さん:僕、26歳でホストを辞めたんですけど、その時はもうめちゃくちゃ売れてて、どれぐらい売れてたかっていうと毎日お客さんが10組ぐらい来てたんですよ。3組来てたら売れっ子って言われたのが、10組だったんでなかなかいなかったと思います。ですけど「僕がいくら頑張っても社長を抜くことはできない」というのはあったかもしれないですね。あとはプレーヤーの限界っていうのがあって「これいつまで続けるんだろう」って思ってしまって。

 

大山:それで起業を決意するわけですね?

亀岡さん:そうですね。まとまったお金があったので。

 

大山:そこから大阪で商売をするという選択肢が一番現実的かと思うのですが、愛媛に帰るのですよね?どのような状況・心境だったのですか?

亀岡さん:いろいろな要因があるんですけど、まずおばあちゃんが、ガンになったって聞いて、お見舞いに行くわけですよ。飛行機に乗るときに当時は本を4~5冊ぱっと買うんです。その時に読んだ本に「ガンになったら肉を食べなさい」という言葉があって。あとは僕が26歳の時にドラマの「坂の上の雲」をやっていたんです。それを見て「故郷で頑張らなあかんのちゃうか」って考えたんですね。やっぱりばあちゃんっ子だったんで。

 

大山:ここで食に対しての気持ちが芽生えてくるわけですね。

亀岡さん:そうですね。

 

ロード3

  • ・減価率って何!?
  • ・創業メンバー全員の脱退
  • ・コロナをチャンスに4店舗開業
  • ・飲食店向けシステムを開発し上京

 

 

故郷 松山で独立開業。飲食店経験0、素人の挑戦。

大山:数ある選択肢の中で、松山で商売するって決めたわけですね。なぜ焼肉をやろうと考えたんですか?

亀岡さん:(はたから見たら)簡単そうじゃないですか、焼肉って。ただ現実としては参入障壁は高いですよね。その当時はまだ、お肉のルートとかが決まっていてやっぱり新規では入りづらかったですね。

 

大山:それでどのように開業に向かっていくのですか?

亀岡さん:大坂で繋がりがあった焼肉のフランチャイズ、暖簾分けみたいな感じのお店があって「そこでいいんじゃないの?僕もやってみよう」みたいな感じでしたね。暖簾分けなので、「別に看板は自由に変えてもいいよ」という感じで、スーパーホルモンを開業するんです。小栗店というお店です。

まず商売しようとした時に、僕1人で個人プレーヤーとしてはやりきったから「チームを作ったらきっと面白くなるやろう」と思って、その時に気が合う同級生のやつに声かけてみて。後はピザ屋のときの後輩1人で全員で4名で立ち上げたんですよ。

それで、2ヶ月ぐらい修行できるところがあるから1番信頼してたやつに行ってもらって、メンバーに指導してもらって。同級生曰く「これ儲かるで」っていうので、やってみたら全然儲からないと。笑

 

大山:最初から苦労するわけですね?初月の売上とかわかります?

亀岡さん:13坪で30席で250~300万円ぐらいですね。やばいというかそれより何より、原価っていうのを知らなかったんですよ。笑

「なんやこの原価率って?めちゃくちゃお金だけかかってるやん」って感じでしたね。「300万円の売り上げあったら、利益で100万円ぐらいは入るんちゃうかな」と思ってたんですよ。今はもちろん営業利益が見えるよう会計していますが、その頃は営業利益とか粗利とかの概念なかったんで「何それ?」って。わからなかったですよね。笑

 

大山:そこからどうやって改善していくんですか?

亀岡さん:そこからはもう調べるしかないですよね。「原価率ってこうじゃないとあかんらしいで」って。素人だったんで、無駄が多すぎたんですよね。しばらく(グラフが)下がってると思いますが、最初はすごい苦労しました。

 

大山:他にはどのような苦労がありましたか?その後会社の中でどんなことが起きるんですか?

亀岡さん:まず最初は「気の合うやつらと一緒にやったらおもろくなるやろな」って思ってたんですけど、そうはいかなかったんですよね。ホストのときってもう全国から集まってくる奴らで、ガッツがあるんですよね。人生かけてるってやつが多かったので。だから「僕の友達たちも劣らないないだろう」と思ったいら、心の甘さが目立つところがあって。こっちは本気で商売しようとしてるのに、そういう姿勢の違いみたいな部分があったんですよね。それで4人で創業して3ヶ月くらいで1人辞め、3〜4年で1人辞め、7〜8人で最後の1人も辞めって感じで今は全員いないですね。

あと僕1店舗目は自己資金でやって1年ちょいぐらいして、「銀行から借りれるよ。出店できるんじゃない?2店舗目やろうか」みたいになって。そのときに調子乗って僕、ポルシェ買ったんですよ、中古やけど。笑

出店1店舗目のときに全部貯金使ってたから、2店舗目を出して1店舗目は12~13坪のところで30席、2店舗目になると25坪ぐらいで50席ぐらいのところにしたんですよ。ありえないぐらい最初忙しくて回らなくて「これレジ入れなあかん」となったんですよ。
手書きの伝票はもう無理があるんで話し合った結果、そのときの店長と事務員さんにこういうレジがあるから、100万円ぐらいのレジを買うんです。キャッシュないけど貯金を切り崩したら買えるからその店長と事務員さんが「買ってきますね」と言って。
そこから何日か経って「あれどうなった?」と思って、話を聞いたら新店舗の2店舗目のレジだけでいいのに1店舗目の分のレジも買っちゃって。笑
100万円なら何とかなるけど200万円って言われた瞬間、200万はないしって。笑
金借りるという考えはなかったし運転資金とかっていう概念もなかったから「あと100万円どうしよ」となって、それで本当に2日ぐらい考えて、結果3ヶ月でポルシェ売りました。笑 ローンだけ残ってるみたいな。笑
最初はそんなのばっかりでした。笑

 

大山:その後、32~33歳くらいで(グラフが)上がってきていますが、これはどういうきっかけなんですか?

亀岡さん:そこからチームを作り直して、毎年出店していたんですよね。4店舗~5店舗目のときに、多分30歳ぐらいなんですけど。(上述の通り)立ち上げメンバーに不安というか、甘いなというところがあって。毎年出店していき店舗や人が増えていってる中で「ずれ」を感じていくんです。ただこの「ずれ」っていうのは「僕らが素人だから」ってその当時は自分で答えにしたんですよね。それで、「わからないなりに2~3年続けていけたら、どこかでこいつらは変わってくれるんだろう」って思ったんですよ。

そうなったら僕は経営者ぶってお店に立たず、会社にもあんまり行かずに商工会議所とか外部の集まりとかに参加する。そっちの方が居心地いいんですよね。やっぱり経営者の集まりなんで。そっちに傾倒したというか、ちょうど(商工会で)中枢にやらなあかんことを任されたんでね。

 

大山:店舗の経営以外の活動をし始めたっていうことがきっかけで好転していくのですか?

亀岡さん:お店を任せてたら、勝手に変わってくると思ったんですよね。「多分今言ってることって時間が経たないと解決しないんだろうな」と。「気づくのに時間かかるんだったら、1回引いてみた方がええんちゃうか」って感じですね。それで、2年とか3年ぐらい任せたらがくっと下がったんですよ。会社が本当に存続できるかどうかのレベルになって。「これはあかん」と。「立ち直せるのかな?」って感じだったんですよ。キャッシュもがんがん減ってるし。2016年ごろですね。「いやこれ終わるな」と思ってましたね。笑

 

大山:逆効果だったんですね。そこからV字回復するのは、どういうきっかけですか?

亀岡さん:そこで猛烈に本を読んだり、コンサルを入れたりしてやり方がわかったんですね。「経営ってこうするんだ。これだったら例えば10人社員が集まっても、まとめられるな」と。今までは各々が言いたいこと言ってて、方向性が定まってなかったんですよね。

そこで「情報を共有することが重要なんだな」とかわかるようになってきて。

 

大山:なるほど。あとこの企画でインタビューをしていますと、他の皆さんは大抵、コロナ禍のタイミングで(グラフが)下がるんですけど、亀岡さんの場合は爆上がりですが、全然影響はなかったのですか?

亀岡さん:そうですね、コロナは全然関係なかったですね。むしろ追い風です。焼肉なので換気が良いということで売り上げは良いですし、あとは一等地の物件がぼこぼこ空くので、そこを逆張りして出店へ向けて動き出したのもあって。

 

大山:コロナ禍の2020年から2024年まで何店舗出店したんですか?

亀岡さん:松山市内で4店舗ほどじゃないすかね。距離が近いので焼肉だけでなく、おでん屋さんやMIXバーなんかもやっています。現在、全9店舗すべて松山です。

 

大山:すごいですね。まさに逆張りですね。あと亀岡さんといえば、飲食店向けのシステム開発・提供もされているのですよね?いつから構想して、どのようなプロダクトですか?

亀岡さん:実はそれはコロナの前から取り掛かっていて、まさにさっき言ったどん底のときぐらいから取り掛かったんですよ。

本を読んだりして学んでいくことで、本当に目からウロコのオンパレードなんですよ。原価率とかも「なるほどそういう仕組みがあるんだ」と、方向性がバチッと定まっていくんですが、その一方でそれらを実現しようと情報も膨大ですし、自分たちがやりたいことを既存の業者さんに限界があるな、と思っていて。

勤怠とかPOSレジとか発注とか棚卸など、それぞれ別々でやってたんですけど、それらが繋がっていればタイムリーに経営判断できる、日々の振り返りができるなと思って。

 

大山:それで自分たちで作ったのですね?すごいですね。笑

亀:そうです。最初に経営のバックオフィスの一元管理ツールの「davinci」を開発して、今は飲食店特化の人事評価システム「Newton」というのを開発し、そちらをメインでやっています。そのために2023年1月に単身東京に出てきたんです。

 

大山:まさに二刀流ですね。システムを構築し拡販するために東京に出てきたわけですが、お店を守ってくれてるスタッフに対してどういうふうに思ってますか?

亀岡さん:うちのスタッフはいい子ばっかりですね。スタッフ全員です。

スタッフの状況によるんですけど。やっぱり松山ではもうちょっと広げたいですね。あとは関東も考えたりします。スタッフの月収は50万円〜にしたいんですよね。離職されるのはやっぱり嫌ですし寂しいですからね。

昔やっていたバンドじゃないですけど「チームで出店を成功させたな」とか「チームで乗り越えた」っていうのが飲食店の面白いところですよね。みんなで成長していることを味わいたいから僕がまずチャレンジして、そこにスタッフもついてきてくれたら嬉しいなっていう気持ちなんですね。1人でじゃなくて、チームで山を乗り越えたいですね。

 

大山:最後に、今後会社をどのようにしていきたいですか?

亀:昔、富士山に登ったことがあるんですが、あまり覚えてないんですよ。何をするかというより誰とするか。チーム一丸となって「もうちょっと頑張れ」とか「今しんどいけど、あそこまで行ったら休憩しようや」とか、しんどかった時に支えあったりした記憶が一番良いものだと思うんです。

それと一緒で、一緒に山登りができるチームを作りたいですね。同じ目標に向かっていくという。うちの会社として目指してる山のゴールを理解できるか。高め合えるか。そういう組織を自分なりに作っていきます。

 

取材後記

亀岡さんと最初に出会ったのは、飲食店経営者としてではなくレストランテック経営者としてでした。常に笑顔のナイスガイといった第一印象でしたが、その経歴のすべてがまさにテッパントーク。人生そのものがキャラクターという濃い生き様の経営者です。システム開発・拡販にも力を入れていく一方で、松山での飲食店展開も今後積極的に行っていくということで引き続き注目していきたいと思います。(聞き手:大山 正)

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