—先ずはファミリーマートのコンビニエンス事業を行っている御社が飲食業を始めたのはどのような経緯でしょうか。
長い話になりますが、僕はまったく資本関係も縁もない2代目なのです。そもそもファミリーマート1号店でアルバイトをしていたのが29年前で、その後、1回抜けまして、
前オーナーが設備会社を運営していたのですが、副業として始めたファミリーマートの2号店を出すので法人化することになり、店長として入ったのがきっかですね。それが25年前くらいですね。その後は各店の店長を歴任していた、そんなある時に、前社長と当時の上司が突然、飲食業をすると言ってきたのです。そして、その上司が「サブウェイ」のFC事業を引っ張ってきて、市ヶ谷にオープンさせる事になったのですね。ところが、前社長が店長を僕に任せたことから、前任の部長が急に辞めてしまい、結局、僕がそれも急に取締役となり、ファミリーマート全店とサブウェイを見る統括店長となったのです。前社長は現場も知らないし、顔も出さないというスタンスでした。サブウェイはそれなりの結果を出していたのですが、やはり経営的に難しいと売却しました。そして、「牛角」からオファーがあり、こんどは僕からやらせてくださいと言って「牛角」のFC事業をはじめました。牛角も出始めのころの加盟でしたので上手くもいき、飲食店は面白いと思ったのですが、バブル崩壊と狂牛病の影響で売上も厳しくなり売却にいたりました。コンビニ事業で、FCの重さと大変さを判っていたのですがね。でも、いつしか、オリジナルの飲食店を運営したいと考え、スタートしました。
—それが、酒と米と水の店「こうや」ですね。
そうです、オリジナルのお店です。今はもうないですが神田に出店しました。そこらはなかなか大変でした。実は、頼まれて、昨年からうちの経営となった吉祥寺の日本酒専門店「須弥山」が日本酒の店を出したいと思うきっかけでしたね。16年前「牛角」をやっているときに「須弥山」に出会い、通いながらどうしても日本酒の店を経営したいと思ったのですね。そう、日本酒との出会いもこの店なのです。それで神田に酒と米と水の店
「こうや」を出店したのですが、素人がやり始めたので普通の居酒屋になってしまい、
日本酒にはたどり着けなかったです。現実的には難しかったですね。でも、どうしても日本酒と和食の店をだしたく、出店したのが「神保町 傳」です。
—今ではミシュラン2星の店となりましたね。
「神保町 傳」は、日本酒の店を運営したかった僕と、和食の店を出したかった長谷川、今の社長ですが、彼との出会いがあり、一緒にはじめました。最初は資本金もだし、社員としてやっていましたが、現在は分離して独立経営という形となっています。当初は客単価7、8000円でしたが、美味しい料理とそれに併せた日本酒を提供することで、客単価がだんだんと上がってしまって。やはり1万円を超すとなると、日本酒を普通に売るのが困難となってしまうのですね。僕は、基本、気軽に日本酒を楽しみたいと考えていましたから、気軽に美味しい和食をお腹いっぱい食べて日本酒が呑める環境と、気軽に日本酒を飲める店を出したかったのです。だから「新宿 酛」は1500円から3000円で気軽に、しかも立ち飲みで飲める。5、6000円で、きちんとした和食と日本酒が楽しめる「新橋 酛」を6年前、ほぼ同時に出店しました。当時はそういったお店がなかったですね。
—6年前の当時に日本酒専門店、さらに立ち飲み業態というのはハードルが高かったと思うのですが。しかも「新宿 酛」は地下という場所を選ばれましたよね。
そうですね、日本酒の立ち飲みは、当時は四ッ谷の「鈴伝」さんくらいだったと思います。ほぼほぼ、日本酒専門、しかも立ち飲みの店はなかったですね。僕は気軽に楽しく日本酒が呑めて、しかも昼間からも呑める店にしたかったのです。だから表通りではなく、人目につかないような、ちょっと隠れた路地裏が欲しかったのです。でもなかなか、物件がなかったので、だったら地下でもいいだろう、斬新でもあると決めました。
—それでもオープン当初から専門店らしく日本酒をしっかりと揃えていましたが、蔵元さんとの関わりはどの様にされたのですか。
それは、ほんとにご縁がありまして、船橋市の矢島酒店さんのおかげです。「こうや」をはじめた当初に日本酒専門店をしたくいろいろと酒屋さんに相談したのですけど、あまり、相手にしてくれるところがなかったのです。そんななかで、矢島酒店さんは、一緒にやりましょうと言ってくれ、親身になって頂き、全面的に応援してくれました。この店は大丈夫と酒販店さんが蔵元さん達も多く紹介してくれて。私もですが、千葉(現GEM by moto店主)も私以上に興味を持ち、自ら勉強の為に初めは自費で蔵元へ通い、日本酒の魅力にはまり徐々に蔵元さんとの関係を広げて行きました。それでも直接取引ではなく、酒販店ありき、現在も矢島酒店をメインに3、4社と取引させて頂いています。「新宿 酛」は当時でも30種類、今は60種類くらいもっとありますね。
—でも当時はインパクトがありましたよね。
そうですね。でも、苦労ばかりで、知られるまで時間がかかった。周りは反対というか否定ばかりでしたが、当時の店長島田の頑張りもありそのうちにお客さんがついて、新たなお客さんを紹介してくれました。当時はSNSや食べログもそんなでなく、口コミで徐々に広がり、認知が広がっていきました。まだまだ、日本酒を知らない人が圧倒的に多かったと思います。そう考えると、日本酒はメジャーではなかったですね。吉祥寺の一角には日本酒の店が多くありましたが、新宿はまだそんなになかったですしね。
—ご自身が日本酒をお好きだったのですね。
日本酒は好きですね。日本酒は日本の伝統文化ですし、勉強すると奥が本当に深いです。なによりも面白いと思うのは、食事との合わせ、お酒のマリアージュです。当時の「須弥山」で、勉強させてもらいましたね。でも、ほんとうに気軽に飲める店はなかったですね、当時は。だから、いろいろ気軽に飲んで欲しく、グラスも小さくして、70から80ccで提供しました。
—店名「酛」の由来はやはり、日本酒からですよね。
色々な意味での基本という解釈ですね。酒造りの大事な部分であり、このお店もお客様にとって大事な店でありたい。また、お酒を飲みながら一日を振り返ってまた明日から気持ちよくスタートできる原点に返るというか。そんな意味も込めました。
—それは、新しい世代の若い蔵元さん達へも貢献されたのではないですか。
そうであったらいいなと思います。でも、まだまだやらないことがあります。現在、酒販の総量のうち日本酒は6,3%しかないのが現実で、売れているのは一部のお蔵さんに限られ、全体としては難しいですね。お蔵さんのM&Aがあるというのも聞いています。だからこそ僕らはもっともっと日本酒飲んで頂かなければならいのです。日本酒を造るのには、とてもとても大変で手間がかかるのです。そんなお酒を飲んで頂く。やることは、まだまだいっぱいあります。
—今後の展開はどのように考えられているのでしょうか。
具体的には言えませんが、日本酒が基軸です。もっとお客様の日常生活の中に日本酒を取り込んでいきたいのです。何処にだすか、日本酒と何を一緒にだすかが、ポイントと考えます。だからこそもう都心部にはこだわりません。僕はグローカル、グローバル&ローカルを目指しています。これは、地域と世代という観点から一石を投じたいと考えています。東京でも空白地帯と言われるところがいっぱいありますよね。住宅立地でも、こんなところにあったらいいな、楽しいかなと考えます。そこに都心部で広げたものを大きな商圏でなく、小さな商圏、地域に根ざしたお店少しできたら良いなと思っています。そしてもっと身近に、日々の生活や日常の中に日本酒がある。そこを重要に考えて「GEM」の千葉もfacebookで書いていましたが、日本酒が家庭なかにあるのが本来の姿と思います。僕たちは先ずは呑んでもらう、知ってもらうのが僕たちの仕事です。知ってもらい、家で飲む機会を増やすことです。データーにもあるように週4、5は家のみというなかで、1回、1,5回はうちにきて飲んでもらい、知ってもらえたらと思います。
—ということは、どちらかといえばカジュアルな店となるのでしょうか。
そうですね。その方向です。いって1万円までの店ですね。だけど、凛とした店ですね。日本酒をしっかりと売ることをスタンダードにした店です。それは、私たちがもっと日本酒を知ること。つまり、なぜこのお酒は美味しいのか、料理とこの日本酒は何故相性が良いのかをお客様に伝えられるように社員も日々勉強しているところです。そして、なにより基本としているのは、品質のために徹底した管理です。恥ずかしい話ですが、お店を出し始めたころ劣化があった時には日本酒を処分したりもして、一時期、在庫が減ったことなどのほんとに苦労もしました。言えないほどのすごい赤字にもなりましたが、品質の管理は徹底していました。
—認知され、軌道に載り始めたのはいつ頃ですか。
1年ですね。新宿、新橋、どちらもノーゲスの日もありましたが、絶対に負けない、絶対に大丈夫とあったのでしょうね。自分には。それにこれに負けたらこの日本酒の世界に戻れないとうまでの想いもありました。ほんと、お客さんがつくまでの1年間は苦労しましたでけど、遣り尽くす、諦めないが私のポリシーでもあるので、いつか花開くと思いながらでした。結果やってよかったです。
—しかも千葉さんという日本酒界のカリスマも輩出しましたしね。どのように育てられたのでしょうか。
千葉もですが、新橋の鈴木(現店長)も日本酒のサーブの仕方、マリアージュとか、千葉とはまた違った本当に素晴らしいのですよ。三者三様ですが、みな、日本酒が面白いと自主的に勉強していましたからね。僕は基本的にあまり表にはでないスタンスでやってきたので、経営も予算を持たせ、個々に任せています。もっとも月1回、会議をおこなった時にやりとりをしますし、普段もコミュニケーションもしっかりとります。当たり前のことですが、上手くいかない時は、こんな変化をさせたらとか、切り口を変えてみたらどうかというようなことは具体的に言いました。それにスタッフがきちんと同調してくれたということです。その後はよく自分で考えなさいと。ただ足りない時はフォローもしますが、あまり怒らないで、どうするのかなぁと、ひたすら待ちましたね。我慢、我慢です。でもやる人はひとりで勝手に育ちますね。
—1年間いろいろご苦労もあったようですが、売り上げが達成された時はいかがでしたか。
それは、それは、嬉しかったですね。やったーと社員たちと心から喜びました。私は売り上げではなく、お客さんの数が大事といいます。現在3回転くらいですね。しかし、新宿がこんなに滞在時間が長いとは思いませんでした。1500円くらいで帰るのかなと。色々少量で呑めるからもあるのだと思いますが、実はこのお店、秘密があるのです。色々と考え、計算された仕様になっているのですが、カウンターも壁の腰部分も高さを1メートルと通常より低いのです。しかも床がカウンターに向かい、上へ傾斜しているのです。そうすると自然に体がカウンターに寄り、姿勢が楽になるのですね。皆さん気づきませんけどね。女性に日本酒を飲んで欲しいと考えデザインしてもらいました。当時から料理もきちんと出しました。初代料理人は島田(現吉祥寺「プラットスタンド酛」)ですが、もともと、彼も料理は素人でしたが「こうや」で勉強をしました。その後も厨房は全て料理人、職人です。
—吉祥寺の「プラットスタンド酛」はどのように創られたのですか。
吉祥寺はもっと、もっと大衆化する予定です。それは小商圏の原点にしているからです。吉祥寺って、住宅立地ですよね。住んでいる方がどんな形で利用するのかを知りたかったです。認知されるまで少し時間がかかりましたが、ようやく認知されてきました。始めは立ち飲みでしたが、難しいので座りのほうが良いと考え、リニューアルをかけて全席椅子席のコの字カウンターにしました。お客様の反応はマチマチですが概ね受け入れていただいていると思います。難しかったらずっとそのままでなく、ブラアッシュアップしていけばいいと思います。吉祥寺は実験店舗なのでも、軽い造りにもなっているので、こんどは、ステップ2として形を変えてもいいと思います。
—酛は拡散して行くのでしょうか。それぞれに個性がありますよね。
それはわかりません。僕は同じことが出来ませんというかあまり好きではないのです。それに皆がやっていることはやらない。ないものを創ったほうがいいと思っています。なので、私の押しつけではなく、千葉の考えをできるだけ尊重し、やりたいことするために「GEM」を創りました。日本酒単体でいくのも、いいかと思いました。どんな温度帯で、どんな風に日本酒を飲ませるかを知ってもらう良い機会かと思います。それは熟成なのか、グラスの形なのか、どんな形でもいいのです。そこにこだわるのもいいかと。その店長のパーソナリティにあったお店になればいいなと思います。新しい形の日本酒の店も創りたいですね。頭のなかにはいくつかあり、既に動いています。
—経営者としてのスタンスはどのようなものでしょうか。
先ほども言いましたが、育つまで待つ。その我慢をしてたら、みんなが育ったのですよ。ただ、どうの方向、形にしていくかというビジョンは共有しています。僕は、ビジョンと会社の理念教育を最も重要としていますから、しっかりと行いますね。京セラの稲本さんが仰っている利他の精神を学び、お客様の満足が私たちの満足という考え方。僕らが満足を上げていくことが、お客様を楽しませる。そいったなかで、僕たちが存在する訳、存在し続けるには何かを考え続けることにあると思います。今年、創業30周年となりますが、これから先、100年企業にするためと、続けるためには何をするのか、何が出来るかを考えなさいと。つまり、存在続けるのが1番難しいし大事ということです。お店を出したら5年、10年と続けるには、何をするかを考えることだと言います。
—一番のポイントはなんでしょうか。
楽しい事です。一番のポイントはやっていて楽しいこと、それがお客様を楽しませることに繋がります。弊社の会社の目的は、【私たちに関わる全ての人々に、楽しさと安心、喜びと感動を与えられる場所、空間を創造し会社を繁栄させ私達の心と生活を豊かにさせて頂きその恩恵を社会に様々な形で貢献させて頂く為に存在し続ける事を目的とする】とあります。僕の仕事はこの目的に沿って、どう考え行動できるかの環境を創ることなのです。楽しませることは、難しく、技術がいるのですね。それは、苦しいこと、大変な事も沢山ありますが、それを乗り越え自分がどこまで楽しめるかということなのです。
—今、日本酒がブームと言われ、日本酒が始めてのお客さまも増えていると思いますが、どのように対応しているのでしょうか。
僕はブームとあまり感じてないです。今6,何%と言われるシェアを10%、15%と引き上げてはじめて何とか日本酒が知られてきたなと思います。私たちはこの日本酒をどう楽しませるかを、個々の店長はもっと出来るはずです。そこは僕と共有していますし、日本酒の勉強をしっかりとしていますから。だからこそ沢山の人にお店に来て頂ければ、日本酒は美味しい、楽しいと思っていただけるのですが。もっと努力しないとダメですね。
—平井さんのDNAはどのように継承されていくのでしょうか。また、「須弥山」のように、今後、他の店を引き受けることなどは考えていますか。
次の世代は、今の各店の店長達が育てていけばいいと思います。僕が考えることを彼ら彼女らはしっていますから、彼らがいいと言えば、店を出させていきたいと思います。2、30店舗やるかは別にして、ある程度の数を広げていけるでしょう。そのパーソナルに合った店が出せればいいですね。しかし、自分でも耐えたなと思います。任せると人は育つのですね。「須弥山」はその名前を残したいと想い引き受けましたが、今後はお店のM&Aの話が合っても受ける気持ちはないですね。いろいろなお話はありますが、それよりも、僕は人を育てたいですね。人が育てば店はつくれますからね。僕は新しい形の日本酒の店を創りたいですね。頭のなかにはいくつかの案が既にあります。
—あとは、日本酒が家庭に広がることですね。また、海外進出は考えてられますか。
そうですね。一家に1本、日本酒があるようにしたいですね。ある意味一石を投じることになりますが一升瓶でなく4合瓶サイズも広げたいですね。品質的な管理もですが、独身の小さな冷蔵庫に入るサイズですよね。実際、沢山のお蔵さんは四合瓶をつくっていますし。あとは、酒販店さんにも頑張ってもらわないとですが、在庫の問題などいろいろな弊害が出てくると想いもありますが。徐々に変わっていくと思います。海外については。僕は、基本的にインバウンドをどうするかという考えですが、一度は海外で勝負したいですね。日本酒を判るようなNYやパリなどの都市に出したいですね。今後は2020 年に向けて、すぐにでもスタッフの英語の勉強やメニュー創りなどへも取り組んで行きたいですね。
—最後に経営者としての平井さんのポジションは。
常に情熱と客観的両極があるということですね。日本酒は沢山の人に飲んで頂くには情熱が必要ですし沢山の日本酒がある中から好き嫌いは別にして客観的にお酒を見ていく。
経営もそうで、情熱がないと経営者は出来ないですし、常にジャッジが求められることが多いですから、客観的でないといけない。そう思っています。
—今回は貴重なお話をありがとうございました。
(インタビュアー:西山とみ子)