スペシャル企画

クロスロード〜外食経営者のルーツと転機〜vol. 11/株式会社RC・クリエイティブグループ 常務取締役 中野 真吾氏

この企画は外食経営者の「クロスロード」、すなわち人生の転機となった出来事や自身のルーツについて、ライフチャートを経営者自ら描いて頂き、それに沿ってこれまでの人生を深掘りしていくインタビュー企画となっています。

第11回目は、山陰エリアと東京エリアで飲食店を中心に事業展開をしている株式会社RC・クリエイティブグループ 常務取締役の中野真吾さんです。誰からも愛され、礼儀正しくひたすらアツいナイスガイな中野さんの知られざる過去、上京物語、「何のために命を使うのか」というミッションに至るまでの苦悩、居酒屋甲子園全国大会出場秘話、これからの展望などについてお話を伺いました。


株式会社RCクリエイティブ・グループ

常務取締役 中野 真吾氏

出身地:大阪府堺市

生年月日:1988年3月20日生まれ。

企業ホームページ:https://rcgroup.co.jp/

ロード1

  • ・荒れていた地元・大阪堺
  • ・バスケ少年
  • ・ヤンキーオールスター中学校
  • ・顧問の先生に「バスケしたいです!」
  • ・高3夏、焼鳥屋で飲食と出会う

 

大山:真吾くんはどこで生を受けて、どんな幼少期を過ごしていたんですか?

中野さん:僕は大阪府の堺市に生まれ、ずっと和泉の方で育ちました。めちゃくちゃ貧乏でもなく、めちゃくちゃ金持ちでもなく、普通の生活をしながら生きてきたって感じですね。でも、その頃からイケてる先輩みたいな人たちに憧れはずっとありました。

 

大山:運動や熱中しているものなどはありましたか?

中野さん:空手、柔道などの格闘技系、ピアノやエレクトーンもやったんですけど、全部やめて小3ぐらいからはずっとバスケをやって登校中もずっとドリブルしながら行ってたのを3〜4年続けてました。

 

大山:スラムダンク世代ではありますよね?

中野さん:スラムダンク世代ではあるんですけど、でもそれを見て強烈に感動してどうではなく、シンプルにバスケが楽しかったんだろうな。周りはサッカーや野球をしてたけど、僕だけずっと一人でバスケをやっていました。群れて何かするのが、あんまり好きじゃなかったのかもしれないです。やりたくないことはやらないっていう。

 

大山:クラスの中では、どんな感じのキャラでした?

中野さん:クラスの中では、めちゃくちゃスレてるってわけでもないんですけど、小2・小3の時は毎朝朝礼の前に一番後ろの席でずっと喧嘩してました(笑)。なぜか髪の毛の引っ張り合いをずっとやってるみたいな。何に勝ってたのかもわからない。でも毎日喧嘩してんな〜みたいな(笑)。

 

大山:地元は、結構荒れてたような感じ?

中野さん:地元は荒すぎてました(苦笑)。釣りも好きでよく釣りに行ってたんですけど、池に行くと小6とか中1ぐらいの人たちが、原チャリに乗って来るみたいな感じだったですね(笑)。

 

大山:やば。早すぎ!中学の時は、どんな感じですか?

中野さん:ヤンキーみたいなやつがいっぱい集まって来ている中学で「あーなんかすげーやだな〜」みたいな感じのスタート(笑)。中1の始業式なのに、もう短ラン!?先輩パンチの金髪!?みたいな(笑)。でも案の定そういう友達は増えたんですけど、バスケ部に入ったんです。バスケやってる時はヤンキーたちに関わらないで良かったので。でも部活をサボり出すと良くない友達と遊びだすので、どんどん成績も落ちてくる。だからまたバスケをやって自分を立て直す。その繰り返しでしたね。

大山:確かにスポーツって、そういう役割あるよね。それで中学卒業すると、高校行くわけですか?

中野さん:中学の時それなりにバスケで成績を残したので当時推薦入学で、私立高校に入りました。「どうせ俺キャプテンでしょ?」ぐらいの気持ちで行ったら、上手いのが2人ぐらいいたんです。それ見た時点でやる気なくして、結果悪い子たちとまた遊び出しちゃうんですよね(苦笑)。

そんな時、たまたまバスケ顧問の先生が目の前通りがかって、ギャグで「バスケしたいです!」って言ったら、「お前センスあるのにもったいないぞ。明日から来い」って言ってくれて、一回辞めてたのにまた拾ってくれたんですよ。そこからまた頑張って、でもまたグレる時期があってを繰り返す感じでした。最後の最後は、高校唯一の仲間から、やっぱ戻ってきて欲しいと言ってくれて、ちょうど(遊んでいた)環境にも嫌気がさしちゃってたタイミングだったんで戻って更生していきました。そこで頑張るというのを覚えて高3の夏くらいにアルバイトで飲食に出会いました。

 

大山:そこで飲食と出会うんですね!

中野さん:最初は焼き鳥屋さんだったんですけど、飲食オモロ〜ってなってそこにいた先輩が初めて、武力以外で尊敬できた人だったんです。先輩として初めて慕える人たちに出会えて、そこからほぼ週5くらいで働いてました。

 

大山:武力以外ってのが壮絶な環境を物語ってますね(笑)。高校を卒業して、大学に進学するんですよね。

中野くん:はい、大学はそもそもそのエスカレーター式だったので。ここでギャンブルを覚えるんですけど、バイトしてスロット行って稼いでみたいな(笑)。学校には行ったり行かなかったり。だからギャンブルが、コミュニケーションツールだったんですよ。

 

大山:今の真吾くんでは考えられない(堕落した)感じですね(笑)。大学進学して荒れた環境は、変わっていくんですか?

真吾くん:ある程度落ち着いて、次はだんじり祭りに入りだしちゃうんですよ。だから大学時代はバイト先か、青年団かみたいな。

 

ロード2

  • ・メルボルンへ語学留学
  • ・語学学校を主席で卒業
  • ・だんじり祭り青年団
  • ・親族の会社で社会人人生スタート

 

大山:大阪の下の方はお祭りが激しいと聞きますよね。なるほどそのお話はまた後でお聞きするとして、留学していたのはいつですか?

中野さん:大学卒業後ですね。オーストラリアのメルボルンに留学に行きました。現地で語学学校に入ったんですけど、最初は1番下のクラスでほぼ幼稚園レベルからのスタート。でも半年後に一番上のクラスの昇格テストを主席で卒業したんです。今まで勉強にしてもバスケにしても大きな成功体験っていうのがなかったけど、自分の成功の方程式みたいなのがちょっと生まれた瞬間でした。学びで成功して、数字がついてくる。努力は裏切らないって。

 

大山:すごいですね。でもそもそもなんで、留学したのですか?

中野さん:レゲエが好きで、クラブに遊びに行ったり、先輩がD Jで英語を使っててかっこいいなって。本当にシンプルに。大阪行っても絶対できないからもう飛んじゃえって(笑)。それで留学を決めた頃、だんじり祭りの青年団の代表をやっていて、彼らを半年置いて外に出るのは結構大変な事だったんです。一年間お祭りがあって、そのうちの半年っていうのは結構大事、でも留学する事を決めた。行くからには目標設定をめっちゃ高く持ちました。

ジャパニーズイングリッシュじゃなくてネイティブな英語をしゃべる、そのためにホームステイ先の男の子の発音とかをずっと聞きながら練習したり、先生にいわれた事を素直にやる、宿題も徹底的にやる、予習のために早く学校に行ってフリースクールにも全部行って、って生活をしていました。俺も一から基礎をしっかりやって、素直に学べば何でもできるんじゃないかと思えた瞬間でした。

 

大山:素晴らしいですね。今までは、何かやってもあまり続かないみたいなことで、10代の時は生活していくわけなんですけど、そこで頑張れたのはなぜだと思いますか?

中野さん:後輩たちに対して顔をつぶしたくないということ、ですね。

 

大山:だからそういう意味では、ちょっと悪い遊びも覚えたけども、青年団に入ったことっていうのは結構でかかったわけですね?

中野さん:めちゃくちゃでかったです。28歳まで青年団にいたので、仲間が圧倒的に増えました。今でも青年団の子達とは繋がっています。

 

大山:そこから東京に来たのはいつですか?

真吾くん:帰国してからしばらく青年団のことや祭りで忙しかったんで、仕事ができなかったんですが、僕のじいちゃんの葬式の時に今の会社の会長と久しぶりに会って、僕の母が会長に「この子、飲食やってるんやけど会社(現職のRCクリエイティブ・グループ)でどう?」って。そのご縁があって入社しました。

 

大山:それほど祭りの結束って強いのですね。僕なんかは東京で、周りにそんな祭りに魂をかけるみたいな人ていうのは、あんまり聞いたことはないんだけど、やっぱりあるのですね。

中野さん:今振り返っても意味わかんないですよ(笑)。でも、熱くなってましたね。この1年のためにやるやんぞ!みたいな。お金も発生しないし、なんなら,運営費というお花代って言って、タオルみたいなのを1000円とか3000円とかで売って、20万くらいお金集めて、みたいな。でもこれはチーム作りでも同じなんですよ。仲間集めてきて、そいつら楽しませてチーム作ってみたいな。

 

大山:確かに。お金が発生するものじゃないからどうチームを作りかって確かに重要そうですね。それでどっぷり祭りをやっているわけだけど、お母さんが会長に、飲食で面倒見てくれないかって言われた時っていうのは、どう思ったのですか?

中野さん:ちょうど青年団としてのメインの役目が終わるぐらいのタイミングだったんです。自分が青年団上がって社会に出た時に、後輩から見てしょぼい人だったら嫌だなみたいな思考に切り替わったんですよね。だから絶対成功してやろう。先輩が真吾君でよかったと思ってもらえるように、そして彼らが社会に出た時に、最後の最後俺に連絡してくれるような存在になりたいみたいなのが芽生えたんですよね。金銭的にも知識的にも、何があっても彼らを助けられるっていう状態を作りたかったっていうのがあって。

 

ロード3

  • ・不本意での上京
  • ・人を元気にするために命を使おう
  • ・STI nextでの出会い
  • ・居酒屋甲子園全国大会出場、有楽町店オープン・ブレイク
  • ・島根でNo.1の店舗を作る

 

大山:じゃあ、いいきっかけだったんですね。それが23、4歳くらいのタイミングということですね。場所はどこで働いたのですか?

中野さん:まず研修で島根県に行きました。当時は今の会社がいろんな事業をやっていて、電気事業、LEDの販売、パソコンの設定を代行する仕事、居酒屋の広告作り、スナックも営業してたのでスナックの子たちの送迎をして、その後パソコンの設定の勉強をして、また営業して・・・みたいな感じで、1ヶ月毎日16時間働き続けました。そのうち、パソコンの設定代行する事業部を大阪で立ち上げようという話になり、(現)社長と僕ともう一人で行きました。大阪でもお祭りしながら仕事をするみたいな生活。

 

大山:そうかまだお祭りには関わっているわけですね。営業は難しくはなかったですか?

中野さん:最初は全然営業できなかったんですけど、3ヶ月目ぐらいからいきなりグンって成績が上がり始めて、某電気屋さんの全国ランキングトップ10に入りました。「給料も上げたるわ!」って言われたタイミングの次の給料日の直前に「今日からRCはもう営業に入れません。東京で不祥事を起こした御社の社員がいます」と。その日に大阪での仕事がなくなってしまいました(苦笑)。不正行為をした従業員がいたんですね。

それでじゃあ次は島根か東京かの二択になり、「じゃあ東京行ってきますわ」って、それで出てきたのがスタートですね。

 

大山:そんなきっかけだったんですね。当時からRCグループは東京にも飲食店があった?

中野さん:ありました。四谷三丁目駅「主水」っていう店をやってて、そこが赤字になってたので、業態変更しようっていうタイミングで入らせてもらった。「トーキョー天ぷら 善丸」ていうマジでダメダメな店なんですけど(笑)。大山さんと出会った時はだいぶもう手直しした状態でしたね。

天ぷらで「米福」って今めちゃくちゃうまくいってる会社さんがあるんですけど、そことの共同で何か一緒に業態作っていきましょうって流れになって、当時流行ってた、ストップかけてくださいスタイルのフリッター式の天ぷら業態に変えるんですよね。

 

大山:そうだったっけ?それくらいのタイミングで真吾くんとは会っているけど覚えてないかも(笑)。

中野さん:そのお店、3ヶ月で700万の赤字。従業員もめちゃくちゃ抱えてたし、当時は歌舞伎町にも店があって、歌舞伎を閉めたタイミングで、そこの給料高いスタッフも四谷三丁目に来たからもう大赤字。それで3ヶ月目ぐらいに店長が「ごめんなさい、働かせられません」ってアルバイトを全部クビにして社員3人でやってました。そのうち、天ぷら業態は無理だよってなって、また主水っぽく戻していこうとなり、そこから今の看板メニューでもある鯖しゃぶを戻しつつ、島根料理に戻しつつみたいな感じでやっていた感じですね。

 

大山:それが24歳くらいの時ですか?

中野さん:そうすね、24ぐらいですね。そもそも不本意で東京に来てるんですよ、自ら来てない(笑)。だから、なぜ東京で仕事しないといけないのかわからなくなってきて、何か言われるたびに、「俺祭り出れないんだったら辞めますから」ってずっと言い続けた(笑)。祭りのために1ヶ月に1回連休をくれて夜行バスで大阪に帰って、2日間休んで次の日の始発で東京帰ってきて仕事してっていう生活を繰り返してました。

 

大山:そうだったのね。全然知らなかった(笑)。ただここら辺からグラフがちょっと上に向いていくのはどういうきっかけだったんですか?

中野さん:このド底辺にいる時に、大阪で働いたバイト先の先輩だった人に会いに行ったんです。仕事のモチベーションはどうやって上げるのかみたいな話を聞いた時に、中村文昭さんの【あきらめなければ夢は叶う】っていうDVDを見ると、無条件にモチベーションが上がるっていうのを教えていただいて。当時アマゾンで1万円ぐらいしたんですけど、聞いたから買わないといけないと思って買いました。

結局DVDが何を言ってたかっていうと「あなたは何のために働いて、何のためにお金を稼いで、何のために命を使うんですか?」みたいな話。だから、「何のために」っていう追求を自分にした結果、青年団の子たちが言ってくれた言葉や、バイトしている時にお客様が言ってくださった言葉が、「真吾くんに会ったら元気になる」だったんですよね。「あ、僕は出会った人を元気にするために命を使おう」って決めたんですよ。そのタイミングで初めて自分で飲食という仕事を選択しました。

 

大山:覚悟が決まった瞬間というわけですね。

中野さん:第一の志に決まった瞬間でした。「俺は人を元気にするために命を使うんだ!じゃあどうやったら人を元気にできるんだろう」っていうのを考え出したら学びの意欲が湧いてきて。それで、てっぺんに行こうってなったんです。

ちょうど大阪のセミナーで大嶋啓介(居酒屋てっぺん・居酒屋甲子園の創業者)さんが来ると聞いて、当時の店長と2人で見に行ったんです。せっかく東京にいるのに「てっぺん」にまだ行ってなかったので、次の休みの日に予約して行かせてもらったんです。そこで目の前に立ってたのが和田くん(元てっぺん社長・居酒屋甲子園 現第9代目理事長)だったんですよ。「何見て来られたんですか」って聞かれて、中村文昭さんのDVDを見てこさせてもらいましたって言ったら、クロフネカンパニーっていう中村文昭さんの会社で働いてた子が、当時修行で店長として「てっぺん」で働いていたんです。

 

大山:それはまた偶然ですね。今一緒に、居酒屋甲子園を盛り上げる活動をしているというのも感慨深いですね。

中野さん:はい。後ろを振り返ると、中村文昭×大嶋啓介っていう本が売ってたんですけど今思えば当然。でも、そこで中村文昭と大嶋啓介が繋がったんです。それで文昭さん大嶋さんの本をアマゾンで片っ端から全部買って読んでたら、アンソニー・ロビンスってコーチングの先生が出てきて、そこから枝分かれしていって平本あきお先生に出会い・・・と、どんどん登場人物が増えていって学んでいったという感じです

 

大山:勉強したい欲に火がつくわけですね!当時の和田くんはどんな役職だったのですか?

真吾くん:総料理長でした。ちょうどあの「てっぺん」の朝礼の本の新しいのが出るぐらいの時ですね。

 

大山:20代後半みたいな感じですね。そこから30代入ってまたグラフがピュッと上がっていきますが、ここは何があったのですか?

真吾くん:文昭さんに出会い、「てっぺん」に行って学ぶということを決めて、毎週いろんな店に勉強しに行くことになって、お金を全部そこに投資しました。「てっぺん」の卒業生の方がそういえばいたなって思って、調べて、「絶好調てっぺん」に行ってみようと思って行ったんです。

 

大山:歌舞伎町の雑居ビルの9階にあった頃の絶好調てっぺんだ。

真吾くん:はい、友達と行ったんですけど、その時に目の前にいたのが、あの松村さん(「絶好調てっぺん」副社長)です。

 

大山:おー!当時、松村さんが店長の時ね。

中野さん:それで松村さんがバッジをつけてて、利き酒師のバッジなのかなと思ったら「接客の大会(S1サーバーグランプリ)で日本一取ったんだよ」って。そこから「ぜひ利酒師の勉強しな」って言っていただき、帰ってすぐ勉強を始めて。翔くんの店( ろばた翔 )も紹介していただいてその店で飲んでいる時に、結さん(翔さんの奥さんで「ろばた翔」の立ち上げメンバー)にお声かけいただいたのがSTI nextという(笑)。

STI next
スーパー店長育成会:店長たちが営業後に集まり切磋琢磨交流を深めた伝説の飲み会。その後、数多くの飲食店経営者が誕生。nextとついているのは、前進は「てっぺん」時代に現「絶好調てっぺん」の吉田さんが店長時代に立ち上げたSTIを継承したため。

「明日こういう会があるんですけど、行きますか?」って言われたのが、STI nextの第2回目だったんですよ。六本木の「日いづる」開催で、目の前に座ったのが笠松さん(ダイヤモンドダイニング・第9回S1サーバーグランプリ優勝)で、そこからこう人脈がドゥワーっと広がっていくという(笑)。

 

大山:当時は熱かったですよね!その頃から、同世代との交流が始まっていくということですね。四谷三丁目はいつぐらいまでやってたんですか?

真吾くん:30歳過ぎぐらいまでやってましたね。いろんな業界の人と出会うようになって、繁盛店作る人は場所なんて関係ないみたいに、なぜか勘違いしちゃって。チームは作ってるはず、料理もそこそこ美味しいはず、なのになぜ売れないんだ!?っていうのが分からなくなってる時に勇気を振り絞って、「お話聞いてくれませんか」って大山さんにメッセージしました(笑)。

 

大山:そうでしたね。今だに鮮明に覚えていますよ(笑)。

中野さん:六本木の bird酉男man (バードマン)に行って色々お話を聞いていただき、次は店に来ていただき、料理も食べていただいて「美味しいし悪くない。でもマーケットってあるよ」っていうのを教えていただいた(笑)。でもすっと受け入れることができず、またもがきながら頑張ってたんですけど、他の人からもやっぱ場所っていうのはあるよと。絶好調てっぺんさんも下北沢を閉めたっていうのを聞いて「あの会社でも締めることあるんだ」っていうのを聞いて、すごく衝撃で。

「お前はパワーがあるのにこんなところに閉じこもってちゃいつまでたっても花開かないよ、日本橋とか、もっと多くの人に関わるところに行ってちゃんと輝いた方がいい」っていうのを言ってくださって。それで四谷三丁目を締める決意をして、三越に移動しました。

 

大山:日本橋に集中するということになるんですね。これは非常にいい決断だったのかなっていうふうに思いましたね。

真吾くん:会社の人たちもみんな気を使って言えなかったみたいですね。死ぬほど頑張ってたのを見てくれてたんで。

 

大山:日本橋はとてもうまく行っていましたよね。2店舗までなって。それでこの35歳くらいにグラフがぐっと下がっているのはどういうことですか?

中野さん:(立ち退きが決まっていたので)物件の取得ができないというところでしたね。三越のチームを作るのも大変だったんですけど、それは徐々に良くなっていき、業界的にもいろんな先輩に会うことができ、学ばせていただき、外食5G(現 JFRX)への参加もそうですし。でも物件を決めれない自分がいたんです。その時に自分は自分のことしか考えてなかったなと思ったんです。本当にこの会社のビジョンを考えてたら、店はこういう場所に出して、こうしていけばいいんだっていう道筋ができると思ったんですけど、それができなかったんです。

 

大山:会社の経営陣としての気持ちが、芽生え始めるわけですね。

中野さん:それで大嶋さんの研修で受けたポリシー10箇条っていうのを名刺に入れてたんですよ。1.感謝の気持ちを伝える。2.出会った人を元気にする、みたいな。それを見た時、一語一句間違えずにすらすら言える自分がいなくて。そのタイミングで名刺もなくなった。嘘の名刺を作るの嫌だってなっちゃって。それと物件が見つけられない、どこにすればいいか分からないみたいなタイミングがリンクして、めちゃくちゃ病んでしまいました。

 

大山:そうだったんですね。知りませんでした。三越前があって、日本橋があったタイミングぐらいで、四谷三丁目をちゃんと閉めましたよね。で、日本橋がなくなるっていうタイミングで、また物件を探してけど見つからなかったということでうよね?

中野さん:見つからないというか、もう何からすれば!?みたいな状態だったのでその時に、OBU Companyの高木 隆二さんに電話をさせていただいたり狩野さん(和音人 代表)に会いに行ったりしたんですけど、やっぱ先輩たちが言ってくれたのは「ボタンをかけ違えてるだけだから大丈夫だよ。お前はいろんなことをインプットして、アウトプットしてチームを作ってるのもわかるけど、その情報を1回整理して、シンプルに自分がもう1回、何のために命を使って何をなしたいのか。今までお前が人のために尽くしてきたことは。なぜやってきたのかみたいなのをちゃんと振り返りなさい」って言っていただいて。10時間ぐらい閉じこもり自分の理念をもう一度見直した結果、自分理念として出てきたのが

“自他共に感謝の気持ちを忘れず、心を込めて人生と真摯に向き合い、志高く学び、挑戦し成長し続けることで、大切な人の心に火を灯し、好循環の核で在り続けます。”

この言葉は暗記しようとしたわけではなくて、自分はこう生きたいというのがそのまま表されていた。よし、これでいこう!それを名刺に刻み、そこからはとにかく絶対成功させるんだという考えで「どうやったらいいですか?」って先輩方に話を聞いたりしてるところに、ポンって物件がでた。それがここだったんですよ。

しまね料理とさばしゃぶの店 主水 有楽町店
東京都千代田区丸の内3-2-3 二重橋スクエア B1F

 

大山:二重橋スクエアですね。コロナで撤退した三菱地所さんとしては、珍しい居抜きの物件でしたね。

真吾くん:当時みんな賛成はしてくれなかったんです。「今、商業施設!?」みたいな。でも「ここまで来たら成功させるしかない!ここで成功させればみんな誇ってくれるだろう!みんなダメだと言った場所で花探してやろうじゃないか!」それで全力で生きていたらそのタイミングで居酒屋甲子園の全国大会出ました(笑)。2023年なのかな、コロナが開けてからですね。

 

大山:ね(笑)。運気が上がったのは良いかもだけど、スケジュール的には大変だったでしょうね。でもそれでもやっぱり大阪のそのベースがあった上で、だんじり祭りの仲間たちに出会いっていうか、後輩、あとかっこいい大人たちと、先輩に出会った中で、紆余曲折ありつつも、東京での成功というか、頑張りにつながっていったと。居酒屋甲子園全国大会と二重橋のオープン重なったわけだけど、その時のエピソードを教えてください?

中野さん:本当は11月1日オープンだったんです。全国大会も11月1日(笑)。僕らのチームは真面目にコツコツやってきただけだったので、人前で話したり地区大会すらみんな出たくないって言ったんです。オープンは11月1日、でも僕はやっぱ出たい。だから「どうせ地区大会で勝てるわけない!別に大した事話すわけじゃないし、当たり前に俺らがやってたことを伝えることで少しでも恩返しになると思うんだよね。食べ終わったらみんな牛宮城(当時はやっていた宮迫さんの焼肉)連れてってあげるから地区大会みんな出て!」って。万が一、優勝したら全国大会の出場辞退するからって言ったんですよ(辞退できないんですけど)。

 

大山:すごいよね(笑)。勝つつもりもあった?

中野さん:正直全然なかったけど、やるからにはっていうのはありましたし「ここ十年ダテに本気で生きてねえよ、舐めんなよ」っていう気持ちはあったので、その想いを伝えられればいいな、あとそういう場所で、社長と会長に感謝の気持ちを伝えることができれば、それでいいやと思ってたんで。それで出たら優勝しちゃった(笑)。

↑居酒屋甲子園 地区大会優勝

↑居酒屋甲子園 全国大会出場

↑居酒屋甲子園 三ツ星店長獲得

 

大山:全国大会出場、非常にプレゼンも素晴らしくて真吾くんは個人としても全国で数人しか選ばれない「三つ星店長」になって、とってもいい大会だったなという感じがしますよね。実際、あの二重橋スクエアはオープン直後、業績的な部分はどうですか?

真吾くん:ありがたいことに、一度も落ちることなく今のところネガティブな状況というのは一度も作っておらず、ずっと上げてます。

 

大山:すごいよね。言えるところで何坪いくらぐらい売っていますか?

中野さん:19坪なんですけど、24年12月は990万円でした。今年に入って7月も900万、8月は800万ぐらいなんですけど、それでもだいたい前年110%ぐらいは通してきていて、大丈夫かなって。

 

大山:順調ですね。それで物件がない、本店三越前店が立ち退きで移転ということで二重橋に出店するんですけど、三越前が1年間できるとなって復活しましたよね?あの時の心境は?

中野さん:本当は全然やりたくなかったです(笑)。人は増えてなくて、チームをもう1回ここから集中して作っていけってタイミングだったので、嫌ですと(笑)。その一年のために誰かを雇ってしまうと、もしその後合体した時、うちでずっと働いている子たちが働けなくなる可能性もあるし、何のためにやるのかがわかんないから、会社には嫌だって断ったんです。ある日、社長が来て話した時、会社の財務的にキャッシュが欲しい、人員2人なら島根から出せるっていう状態だったんです。

「2人の社員が売り上げを300万、400万上げることっていうのは不可能。でもお前ならできる、ていうかもうお前にしかもう頼れる奴がおらん。今その人員限られている人員の中で勝負できるところが三越前しかない。」って言われたんです。

 

大山:そう言われっちゃったら、ね(笑)。お店はそのままなので、すぐ営業再開はできるんですもんね。

中野さん:冷蔵庫とか以外は全部出したので、また一からです。お皿も全部買い直し。実はその時、島根の状況が良くなかったので、僕がそれをやっていなかったら、向こうで2人ぐらいは実質クビになってるんです。それを阻止しないといけなかったっていうのと、シンプルにキャッシュを生み出して、なんとか延命しないといけなかったみたいな状態があった。そこまで言うんやったらやったろうやないかい!って感じですよね。でも、今いる奴らを一番大事にしたいから人は採らない。客数を減らして単価を上げるしかない。何か面白いことしたい。よし、寿司屋をやろう!と。

 

大山:だんじり魂ですね(笑)。なんか寿司屋さんも行かせてもらいましたが、クオリティも素晴らしくお店も非常に順調だった印象ですが。

中野さん:本当にありがたいことに、お客様もずっとついてくださった。ゆっくりされたい方は三越来られてました。僕に会いに来やすいのが三越だったんですよ。調理場じゃないカウンターを自分でのこぎりで全部切って、ぶち抜いて壁塗って。寿司屋っぽく見えるように(笑)。

6月末までだったのでちょっとひと段落かと思ったら、「島根の負債店を見ろ」というミッションが出来まして(笑)。

 

大山:最後に今後の展望、会社としても真吾くん個人としてお聞かせください。

中野さん:会社として、もちろん根幹である島根の店舗をもう1回ちゃんと戻さなきゃいけないっていうのがあって。今向こうでチームを作っていて、若手店長チームと、もう一人No.2が来て、その人とチームを組んで立て直しに入ってる最中なんですけど、東京でやってきたことやノウハウ等、全部そこにつぎ込んで、遠隔でもちゃんと立て直せることができるっていうことを証明したいのと、利益は向こうの方が残りやすいんで、こっちからしっかりマネジメントしていきます。もちろん月に1回ぐらいは行くんですけど、そこでちゃんと向こうでいいチーム作って、店長がまたいいチーム作れるような未来をつくりたいなと。

この間、赤塚元気さん( DREAM ON 社長)と話した時に思ったのが、やっぱ松江と出雲で一番の店作んないとダメだと思って。そこ目指さないリーダーなんていらないよね、って話だった。日本一目指さないんだったら意味なくね?って。

その時に、俺がリーダーとしてまず松江No.1。ここを僕が作っていくんだという決意をしないと会社は絶対そうならないなと思ったので今はとにかく松江の一番、出雲で一番を取るぞっていうのをずっと言い続けてます。

そこでキャッシュフローをうまく回せるようになったら、東京で高級業態も一発やりたい。そこで初めて見える景色なのかなっていうのは思っています。1000万くらいかけて20坪くらいの客単価1〜2万ぐらいの寿司屋はやりたいなって思います。

 

大山:素晴らしいですね。でもおそらく会社としては、何年でいくらみたいにもちろん定めているとは思うけれども、そういうペースでは多分ないのかもしれませんね。

中野さん:会社としては全体の数字も良くなってきてるのがあるので、やっと軌道に乗ってきた。ここでしっかり僕も飲食部門の代表になれるように頑張らないと、みんなに顔立たんなっていうのと、恥ずかしいなと思うので。みんなのおかげで、あの松江の一番の店を作ったと。あの出雲の一番の店を作ったと関わってくれた飲食業界の先輩や、仲間たちに胸を張りたい。

いつか島根の2店舗で居酒屋甲子園に全国大会に出るようなことがあれば、みんなの感謝の気持ちを伝えられるようなスピーチがきっとできるなって思う。今、近々ではその2店舗をとにかく圧倒的に売り上げを上げることに集中していきたいと思っています。

 

編集後記

今までインタビューをしてきた経営者さんたちの中で、最も人の名前が出てきたの記事となりました。それは人から学び、人に恵まれ、人に感謝をし、人を大切にしている中野真吾くんの人生、そのものを物語っているのだと思いました。己と向き合い常に自分の役割を模索しつつ、決して諦めず前を向き続ける真吾くんと同社をこれからも応援していきたいと思います。(聞き手:大山 正)

 

 

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