鈴木氏の人生を変えた出会い
稲本さんからみて、鈴木社長という人物をどう評価していますか。期待していることは。
稲本 僕がはじめて彼と出会ったのは、デザイナー時代に企画した名古屋のクラブディスコでした。当時まだ大学生だった彼は、そこのお客さんだったんですよ。彼は法学部の学生で、司法書士事務所でアルバイトをしながら、司法書士になろうとしてたんです。
で、「こいつアホだな」と。(笑) 「司法書士はお前じゃなくても適した人がいるじゃん。お前ほどホスピタリティがあって、司法書士を目指すのは俺にはよくわからん」と。
鈴木さんはホスピタリティがそんなにあったんですか。当時から目立っていましたか。
稲本 やっぱり大学時代から光ってましたね。笑顔と人に対するケア、思いみたいなものはすごく感じていたので。「お前、そのホスピタリティ、司法書士じゃ使いきれないんじゃないの」と言っていました。その後、僕がバーテンダーを辞めるのにあたって、後釜で入ってもらったんです。それから彼とは24、5年の間柄ですからね。出会った時のイメージと今も変わっていません。〝人間性〟という意味では、強い、弱い、器用、不器用は置いといて、人間が良いか悪いかでいえば、僕はどこに出しても恥ずかしくないと思っています。
ただ、経営者としてどれくらいの価値・能力があるのかっていうのは、まだまだ未知数だと思いますが、彼はズルをしない。ダメなものはダメとして受け入れる力がある。そこについては僕以上に信頼していただいてもいいと思っていますね。
ところで、鈴木さんのご経歴をお聞かせいただけますか。あまりインタビューとかまだ受けてらっしゃらないみたいですね。
鈴木 そうですね。生まれは岐阜です。岐阜っていうのは繊維の街で、僕は洋服工場の息子として生まれたんですね。小さな零細企業なんですが、創業者の祖母から自然と商売人としての教育を受けて育ちました。おぼろげながら幼い頃から会社勤めという人生はあまり考えてなかったです。自分で仕事を創り、その価値をお客様にお届けしお金を稼ぐ。そのようなことをやっていきたいな、と思ってました。18歳まで岐阜で過ごし、愛知の大学に進学しました。そこで、洋服販売のアルバイトをやりはじめました。ファイブフォックスというコムサデモードをやっている会社で、当時すごく伸びていたんです。そこでトップ販売員になれば、学生ながら頑張っている販売員って注目されるかなと。実際めちゃくちゃ売りました。(笑)
お客様から「ありがとう」を言ってもらえる仕事って、すごく自分らしいなとここで実感しましたね。一方で、洋服屋さんでは物足りないという思いもありました。その後、洋服販売のアルバイトを辞めて、小さな喫茶店で働き始めたんです。その時に、友達と夜な夜な遊びに出かけ、そのお店にいたのが、稲本とニュースイングの梶田(現・ゼットン専務取締役)だったんです。
当時、僕はあまりお酒を飲めなかったんですが、稲本に「今日も飲みやすいカクテル作ってくれませんか?」と注文したら、「じゃあ、20ミリでジントニック作ってあげようか?」とか、そんなやりとりをしながら、少しずつお酒を覚えていきました。すると、稲本から「お前毎晩ここに遊びにくる時間あるんだったら、紹介するからバーテンダーやってみたらどう?」って言われました。それで働き始めたのが、名古屋の新栄のバーだったんです。
稲本 僕がバーテンダーを覚えた店です。
鈴木 そこで自分が作ったお酒をお客様に提供して喜んでもらうっていうのは、洋服を売っているときとは比べようがないくらい楽しかったです。お客様とコミュニケーションをとれるようになってからは、すごい勢いでこの世界にのめりこんでいきました。大学3年生から始めて、翌年には卒業を控えていましたが、日々のアルバイトが楽しく充実し過ぎていて、就職活動もそっちのけ。単純に法学部だから司法書士になろうと、甘く考えていました。
それで、夜はバーでアルバイトを週3日続けながら、昼間は司法書士の事務所で働いて、二重生活をはじめたんです。でも、どう考えてもバーの方が楽しいんですよ。卒業後は、本来であればそこの司法書士事務所に就職をするはずだったんですが、踏ん切りがつかなくて、そこの事務所の就職をお断りし、司法書士になるための学校にいくという口実で、バーテンダーのアルバイトを続けながら、司法書士の勉強をしていました。ですが、中途半端な勉強の仕方をして受かる訳もなく。当時の僕は司法書士の学校に行っているとは言え、プー太郎みたいなもんですよ。ふらふらしてた時、ちょうど僕が大学を卒業した翌年1995年に、稲本が名古屋の街中にゼットンを出店したんです。
それが1号店ですね。場所はどちらでしたっけ。
稲本 本町という栄のはずれの倉庫街です。ゼットン1号店の物件はこの間、全部壊されてしまって今もうないですけど。鈴木は、創業時まだいなくて、うちの二号店からの入社です。昔の名古屋の本社があったところです。
鈴木 いきなり店長として入社したわけでなく、96年11月に3週間の使用期間のアルバイトを経て、それで雇ってもらったんです。そこから正社員として、2号店目の立ち上げをさせてもらいました。それが25歳の時です。
ゼットン草創期ですね。ブワーッ、と人が群がるような人気でしたね。
鈴木 そこのお客様は感度が高く、すごいエネルギーのお客様が多かったんです。そういう店にいるのが、楽しくてすごく勉強になりました。
そして入社2年目の27歳になる時に、2号店であるオデオンというお店の店長になりました。そこで、チームがどんどん固まっていくという感覚を持ち、この仲間をおいて独立起業することがイメージできなくなりました。
そしてオデオンの店長3年目、2001年に東京出店があったんです。
鈴木 ただ店長としてお店を切り盛りしてるっていうのも、別につまらないわけじゃないんですが、もう少し大きな仕事がしたいと思い、稲本に「東京の事業を僕に任せてもらえないか」と、お願いして東京に行きました。
稲本 鈴木には営業全般を任せました。
鈴木 稲本は二つ返事で「お前がその気だったらいいよ」と任せてくれました。これで東京で思いっきり仕事ができると非常にうれしかったです。それが2001年です。
稲本 一番最初に任せたのは銀座ゼットンでした。これはアリガットの表紙になりましたよね。立ち飲みの走りをつくりましたし、多層階ビルのあの店を、僕がプロデュースした後は、運営は一切関与しなかったんです。営業と売上の責任は鈴木が持てと。
鈴木 当時稲本はお店をつくったら、オープン日から毎日現場を見に来ていました。しかし、銀座ゼットンには、オープン日に来たきり、2週間お店に来なかったんです。2週間後に来店した時は、友人と銀座で飲んで2軒目で純粋にお客様として来たんです。そこまで任せてもらっていると思うと、すごくうれしかったですね。
信頼していたんですね。
稲本 いや、ビビってましたけど、とりえあず任さないと。僕がいたら口出しちゃうし。「お前、バカヤロウ!ちょっと来い!」って言って、次の日会議ですよ。(笑)それはどうかなって。やっぱりひくときはひかないと。
それ以降、次から次へとお店の立ち上げを手がけていったわけですね。
鈴木 はい。その後「銀座ロビー」や「imoarai」、そのあと「神南軒」ですね。
「神南軒」あたりから大箱や商業施設に出店するようになりましたね。
鈴木 そうですね。2004年からです。