-檀上さんが飲食に携わった経緯をおしえてください。
高校卒業後に旧センチュリーハイアット(現ハイアットリージェンシー東京)に入社しました。調理希望でしたが、35年前はホテルの厨房の敷居は高く、すぐには入れませんでした。最初はレストラン課でのサービスに始まり、次に洋食調理部へ配属となりました。それこそ社員食堂からのスタートでした。その後、日本で最初にサラダバーやデザートバーを始めた「カテリーナ」に配属なりました。そこからフランス料理に入り、楽しさを見出して勉強しました。結局11年間、メインキッチンまで4箇所をバランス良く経験させてもらいました。
-なぜ「スペイン」というジャンルを選んだのでしょうか?
最初から独立を視野に入れていたので、独立のために3年くらい任せてもらえて、開業に必要なことが学べるような街場のお店を探していました。その時に、条件とあっていたのが恵比寿にオープン予定のスペインレストランでした。ホテル時代は年に一度、スペインのマドリードからシェフを招致して1ヶ月間に渡りイベントを開催していましたので、スペイン料理は作っていました。ところが、本場に行ったことがなかったので、自分の目で見に行かなくてはならないと思い、急遽スペインへ向かうことにしました。ホテル時代にお世話になったシェフに連絡をして、マドリッドのレストランの厨房を紹介してもらい、恵比寿のスペインレストランがオープンする前に少し時間をもらって、本場の現場を体感しに行きました。最初は言葉もわからず、かなり困りました。これではまずいと思い、一旦帰国し、語学学校に通い、再度スペインに行きました。その後、1ヶ月くらい働きました。
-開業に「スペインバル」という業態を選んだきっかけはなんですか?
恵比寿で任されてシェフをしていた3年間も毎年スペインへ行き、仕事が終わってから街へ出かけて食べ歩きをしていました。そうしたなかで、「スペインバル」に飲みに行ったときにカルチャーショックを受けました。「これは面白い」と思い、もし、「バル」という要素を日本に持ってきたら、居酒屋文化もあるし、恵比寿の小さな店だったら、土地柄からこだわりのある人も多いし、成立するのではないかとそのときに考えました。3年働いている間にスペインバルに魅了されていくと同時に、スペインバルを開業しようとの思いが固まっていきました。
-独立の地を恵比寿に決めた理由を教えてください。
バルセロナオリンピックが開催された92年からの3年間を恵比寿のスペインレストランで働きました。まだガーデンプレイスや駅ビルもない頃に、都市再開発の情報を得たこともありますが、自分が恵比寿の街で働きながら街が変わっていくことを実感したことが大きいです。94年にあの場所を見つけてから、それこそ基礎工事中で建物がないときに契約をして、完成まで1年間待っていましたから。
-2階に「レストラン」、1階に「バル」という2つのスタイルを持つ店となったのはどのような経緯だったのですか?
当時スペインレストランは東京に結構ありましたが、どこも古典的で、「バル」という言葉を打ち出したところはありませんでした。ワインも10種類くらいしか置いていなくて、どこも似たようなワインが並んでいたくらいでした。まさにオープン当初は、今回の調布と同じような感じで、カウンター6席と、4名掛けのテーブル3つの18席のコンパクトな店内のカウンターに「タパス」を並べた本場スタイルの小皿料理でスタートしました。ただ、パエリアがないと成立しなかったのでパエリアも置いて、バルとレストランの中間の位置にあたる「メソン」というスタイルにしました。それから10年後に1階を借りられることになり、スペインバルをそのまま持ってきたようなスタンディングの「バル」をオープンしました。同時に、2階のカウンターを排除してテーブル席だけにして完全なレストランに改装しました。スペイン現地では、レストランがバルを持っているケースが多く、1階が「バル」、2階が「レストラン」という理想の形になりました。
-バル開店当初に、スペインバルブームがくることを実感していましたか?
当時はイタ飯ブームでした。「人がやっていることをやるよりも、違う畑で」と思っていた時に、スペインでバルを見て面白いなと感じました。ブームを起こそうなんてこれっぽっちも思ってなくて、これなら食っていけるかなと思ったことが、ジワジワと広がっていった印象です。1階のバルが出来てから1、2年の間にイベリコ豚や生ハムの輸入が解禁になったり、エルブジの出現があったりと、いろんな要素がプラスになって、スペインの風が吹いたのだと思います。
-どのくらいの頻度でスペインを訪れていたのですか?
通い出して25年、季節をずらしながらいっていました。現地へ行ったのは、20回までは数えましたが、それ以降は数えていません。家が建つくらいは通っています。感覚を鈍らせないことも大切ですし、何度現地へ行っても新しい刺激や発見がゼロではなく、何かあります。開業してからは社員旅行も兼ねて、スタッフも連れて行っています。2店舗目がオープンしてからは、固定費が高くなり、店を休めなくなりました。しかし苦肉の策として、1階と2階のスタッフを春と秋にわけて交代で行くようにしました。スタッフも現地を体感することで、「先日スペインへ行ってきました」と胸を張ってお客さんに言えるかどうかで、本人の自信も違ってきます。それに加えて、今のようにスペインのものをインポーターさんから買えることもなかったので、ハンドキャリーでいろいろな備品なども買ってきました。お店で使う食器やつまようじや紙ナフキン、飾り物などスタッフが一緒だとその面でも助かりました。そのうち、インポーターさんたちの方から「現場では何が必要ですか?」と聞かれるようになったので、「これがあったら売れるよ、みんな欲しいはずだよ」など、そういう関係でこれまで一緒にやってきました。ワインも現地へ行くといくつかのワイナリーを回るのですが、インポーターさんを紹介したり、インポーターさんから紹介してもらったりしてやってきました。
-古典料理、いわゆる定番を出し続ける理由を教えてください。
定番料理を出すことの大切さは、料理を10年続けてからやっと気が付きました。最初の頃は定番よりも、いろいろとアレンジをして作ってみたくなるものです。店では、いつも同じものを求めるお客さんがいるということも含めて、「ここに来たら、これ」というもののクオリティを保って出すことを大切にしています。かといって全て同じでは作る側も飽きてしまうので、今は古典料理の定番を20種類、季節や日替わりを5種類いれています。
-なぜ調布にお店をだしたのですか?
両親の介護のために恵比寿の住まいから調布に3年間通いました。毎日車で2往復していたので店をやりながら永遠にこれを続けることは難しいと、2年目のときに思うようになりました。それがきっかけで、実家ということもあり、こちらに住むことを検討し始めました。調布に転居してから休みの日には、調布の街を自分で食べ歩き、一通り回りました。そのなかで、駅前に大手の飲食店はあるけれど個人店が少ないということを感じました。さらに「スペイン料理」のお店がありませんでした。僕らの年代は個人店の良さに惹かれているのに、調布駅周辺には個人店があまりなかったのです。実際に、恵比寿のお客さんのなかにも住まいが調布の人や郊外の人も多かったです。きっと、調布で食事しようとするとお店がないな・・・という感じで、職場がある都心で食事をして自宅のある郊外に帰るという人も多いと感じていました。だからこそ、今回の店は、郊外に住む人が地元で食べる場所を見つけたと思ってもらえるような店にしたいです。恵比寿の都市再開発ほどではないと思いますが、調布駅周辺の都市再開発と重なっての出店はチャンスだと思いましたし、自分が現役シェフとして、最低10年はやる店にしようと思っています。こちらに来てみてわかったのは、これからは郊外の時代だと思いました。お客さんの食文化の意識も向上し、個人店を求めていますし、出店する側もリスクは少なく始めることができますから。
-恵比寿店との違いを教えてください?
定番料理は、をほとんど変えていません。もともと古典的な料理だということもありますし、それを求めてくる人が多いからです。譲った恵比寿店は、1階をバスク料理に、2階をカタルーニャ料理へと、これから力をいれていくようです。そうなれば、より一層昔の「Tio Danjo(ティオダンジョウ)」が懐かしくなって、調布までわざわざ足を運んでくれるお客様もいると思います。価格設定については、恵比寿の時より若干単価は安く、調布付近のお店よりは若干高めという設定にしています。というのも、恵比寿に来ていたお客様には調布やもっと遠くから通勤している人も多くいましたし、調布なのに高いという感覚はないと思うからです。ただし、調布に住んでいる人や調布からほかへでない人からすると少し高いというのはあるかもしれません。それでも、ある程度の住み分けというか、わずか14席の店だったらここへ来たいと思ってくれるお客様に居心地のよい空間を作った方がよいと考えています。
-近年のスペインバル業態についてどう思われていますか?
スペインバル業態は、僕が最初に出店したとして、その後3〜4年で次の世代が一気に出てきました。今は、30代後半から40代の新しいオーナーシェフのお店は全てが、スペインへ行って帰ってきたという状態です。なかには、星付きのレストランで修行してきた人もいます。そこがまず新しい変化です。さらに、現地スペインでは当たり前でしたが、ガリシア地方やバスク地方などバルに「地域色」を打ち出した店ができ、かなりマニアックになってきたということにも驚きです。その点、今後は生存競争もあると思います。また、お客にも「アヒージョ」という言葉が定着してきて、「アヒージョは何がありますか」と聞いてくることも驚きです。洋食で育ってきた30代や40代の人たちが、毎日、日本食ではなく選択肢として「今日はワインと生ハムに行こうか」という状況に、まだまだ伸びしろはあると思います。特色を出したスペイン業態の個人店であれば、調布や府中などの規模の駅に1つあっても成立するところまで来ていると思います。逆にスペインバルの大型店舗のチェーン展開は、これ以上増えると、飽きられやすく、今後は難しいのではないかと思います。
-日本の「バル業態」における今後のマーケットをどのように予想されていますか?
バル業態は、「バル」という言葉自体が一人歩きしていることにも驚きでしたが、ひとつの飲食業のカテゴリーとして成立してきています。「バル」は一人でも出店しやすいこともあり、すでに脱サラの人を対象にコーディネートする人もいるようです。今後は、たとえば、カレーやハンバーグなどの洋食が日本の定番になったように、これから日本人が「バル」という業態を日本のものと融合させて、どういう風にアレンジさせていくのかがキーになると思います。居酒屋と同じような感覚で定着していくと予想します。
-今後の展望をお聞かせください。
僕は、数店舗のオーナーとして経営するより現場が好きなので、小さな店でも最後まで料理をして終わりたいです。店を大きくすることより、地元でもある調布の街にせっかく帰ってきたので、この店からの発信が最後のテーマだと思っています。実際に深大寺のそばとスペイン料理やワインのコラボイベントや、公民館の料理教室の依頼をもらっています。実は、両親の介護の関係でバリアフリーにリフォームする際に、自宅のダイニングキッチンも料理教室ができるようにと考えて16畳のアイランド型のキッチンを作っています。また、東京オリンピックの時には、スペイン人にシェアハウスとして自宅を貸し出すのもよいかと考えています。自分が生まれた場所から少しでも貢献できればと考えています。
(聞き手:大山 正/記事:加藤 智子)