【Interview】一級建築事務所として数多クライアント企業の店舗・空間デザインを手掛けながら、関西と関東に合わせて15店舗もの飲食店と食物販店舗を展開する株式会社カフェ。代表の森井良幸氏の、その求心力に密着した。
-設計事業を行いながら、飲食店事業も始めたきっかけを教えてください。
社名でもあるカフェというのは、元々所属する個展のグループ名だったんです。当時はデザイン会社だと、個人名を名乗るところが多かったので、珍しかったと思います。会社の名前をカフェにするんだから、実際にカフェも出そうということになりました。当時スタバもなかった時代、エスプレッソが飲める店がなかったんです。そこで、南堀江の路面に、デザイン事務所兼フロントを16席程のエスプレッソバーにしました。他にやっていないことをやっていたことがお客さんを集め、創業1~2年目から仕事が入り始め、3年目以降には順調に仕事が舞い込むようになりました。それと、独立前に勤めていた内装会社の社長が、祇園にモダンチャイニーズレストランと南青山に「ZONA」という家具店など複数店舗を展開していたことにも影響を受けているかもしれません。出身が一緒のSIMPLICITYの緒方さんも、デザインと飲食という珍しい道に進んでいますからね。
-設計事業と飲食事業、その二本柱を続けられていることの意義はありますか。
インテリアデザイナーや設計会社は、飲食店の事業者とは負っているリスクの大きさが違うということを、実感して来ました。でも、それを背負うことによって、ドキドキ感を味わって、自分も同じように生きている感覚を得たかったんでしょうね。若いスタッフに色々なところで食べる経験や、自前の店舗をデザインする経験を、クライアントへの提案やアドバイスに活かしてほしいという考えもあります。ただ、クライアントの店舗と業態が被ってしまうようなことはしたくない。むしろ、違うことをやっていて、こういう風になりたいというモデルケースを築かなくてはならないんだと思います。
-設計に進んで、独立するまでの経緯を教えてください。
大学進学する時、京都芸術短期大学の本当は服飾デザイン課を選考してようとしていました。けど、入試前の夏期講習で騒ぎすぎて先生に入れてもらえなかったんですね。それで仕方なく建築課を選考しました。その建築課も、単位が取りきれず中退しました。そんな時恩師に、「建築家やインテリアデザイナーになったら、相手は東大や京大卒のエリートばかりだから、人とは違うことをしなさい。同じことをやっても、勝ち目はない。」という言葉を受け、それが他とは違うことをやるという今日の発想の原点になったんだと思います。その後アメリカで3ヶ月ほどブラブラ過ごして、アルバイトニュースで見た建築事務所で2年間勤め、またそのあとアメリカを放浪。京都の碁盤の目で狭い空を見て育ったから、もっと広い世界を見たかった。オリジナルがなく、ヨーロッパのフェイクをしているアメリカの街並みは、勉強になりました。帰国すると、友達のお父さんの設計施工会社で5~6年勤めました。その時、出向先で出会ったのが、現スペース役員の岡島さん。君はいいと評価してくれると同時に、百貨店の内監業務などを通じて外国人デザイナーや著名な建築家の仕事ぶりを間近に見る機会を得て、独立に向けての自信を養うことが出来ました。そこで、職場の同僚や弟と5人で始めたのが、株式会社カフェでした。小さい時から、言ったことは、嘘つきにならないように実行するタイプなんです。
-設計業を行いながらの飲食店経営、どのような業務配分で行っているんですか。
設計9割、あとを飲食店経営といったところでしょうか。飲食店展開においては、内装とメニュー設定、ブランディング、最終的なトータルコーディネートを見ています。オープン後も継続して見れていないのが課題なんですけどね。設計案件は年間平均50件程度。今までトータルして1000件ぐらいは携わってきたと思います。
-直営の飲食事業に関して教えてください。
関西に11店舗、東京に4店舗を展開しています。来年は4店舗を計画していますよ。ピッツェリアと今までやっていない和の業態、それからカフェと米粉のクレープ店「eight turn crepe(エイト・ターン・クレープ)」も出店予定です。
-既存のお店の業態は、どういったものですか。
今までダイニング業態のデザインをたくさん手掛けて来ましたが、社名がカフェでレストランが好きで飲食店を始めたというのもあって、カフェとレストラン、それからスイーツ店を展開しています。3年前までは手探りでやっていましたが、心斎橋のクロスホテル1階に2011年春「「TABLES CAFE」」をオープンする時には、日本のブランドのカフェを作りたいという思いが出てきました。屋号に鉤括弧を付けることで、テーブルの角を意味しているのと同時に、会話の区切りに用いるスタイルを貫く日本人としてのプライドを表したかった。テーブルの上に会話を創出しながら、食事から食器に至るまでテーブルの上にあるものを全てデザインするのがコンセプトです。
-設計を行う際の手法を教えてください。
ファッションも、今まで見たことのないものが評価されていた時代から、それぞれのブランドの持ち味を組み合わせたコラボレーションが良しとされる時代へと変わっています。建築でも、既存の要素をミクスチュアするような、サンプリングの手法を取ることは多くなってきましたね。けど、元々負けず嫌いですからね。デザインする時は、真似できるならやってみ、その代わりとことんめんどくさいことをやるというスタンスで臨んでいます。
-参考にしている建築家はいますか。
あんまりいないんですよね。でも、感覚が似ているなと思うのは、Neri&Huですかね。上海に新しく出来たジャン・ジョルジュがプロデュースしたイタリアン「MERCATO」やモダンコリアンの「Chi-Q」、上海の「The Waterhouse At South Bund」というホテルのメインダイイング「Table No. 1」、家具屋のデザインなんかも手掛けている、欧米から凱旋帰国を果たした、今上海で評価を受けている建築家です。
-設計者として感じている役割とは。
デザイナーの立ち位置って、モーターで言うとエンジニアだと思うんです。店員がレーサーでオーナーがスポンサー。オーナーの予算と現場の力を落としこんで、足回りのいい車にチューニングするのが、自分の役割です。勝算のない時は、レースに出ない方がいいということもアドバイスします。とにかく、全体のバランスを見るようにしています。
-設計を行う業種も多種多様ですね。
商業ビルからアパレル、家具、ウェディング施設、飲食、歯医者、住宅、マンション、クラブ、ゴルフのクラブハウス、ホテルまで、多業種を扱うようにしています。そうすることで、医療業界の常識を飲食に用いるなど、他業種のノウハウを他に持っていくことが出来る。料理も一緒で、そうすることで業態をミックス出来ると思うんです。
-設計を行う際に、経営的な観点からもアドバイスするんですね。
デザインって仕組み造りだと思うんです。それぞれ案件によって条件と材料は異なるから、違う料理が出来る。事業オーナーに敬意を持ちつつ、その思いを自分なりの料理に代えて代弁しているようなもの。だから、デザインをする時には、打合せにはなるべく出るようにして、経営や内装、建築、お皿から料理、またスタッフの顔つきに至るまでを全て見ています。勝ち技はたくさん持っていますよ。経営者のリスクを分かっているから、経営も飲食店もデザイン出来ると思っています。
-設計で印象に残る仕事はありますか。
32、3の頃でした。代官山の商業施設で、創作和食の萬葉庭とカフェ・ダイニングバーのAFRICAの2フロア、二店舗が出来た時は嬉しかったですね。東京の真ん中で仕事が任せてもらえたと思いましたね。
-その頃、森井さんが手掛けられた個室居酒屋の忍庭やAZOOLも、全盛の時代でしたね。デザイナーズレストランブーム以降の方向転換をどうされたんですか。
デザイナーズレストランブームが去ってから、何が来るのかは模索していましたね。でも、元々いかにお金を掛けずに店舗を造るかということを考えて来ましたが、空前のデザイナーズレストランブームで一転、お金の掛けられる店が造れるようになった。それで力が付いたんだと思います。何でも出来るようになった。昔の知恵や方法をブラッシュアップして、今に展開しています。口コミや紹介で、仕事を取って行きたい。報酬は、事業の投資コストに合ったものでいい。一件一件を実直にやっていったら、気付けばクライアントはリピーターばかりになっていました。
-どんな設計者でありたいですか。
先生ではなく、商業デザイナーでありたいと思います。儲けるために手助けが出来る、外部ブレーンのような。
-これから、どんな事業者と仕事がして行きたいですか。
経営がずさんだったり、儲ける意欲のない人ではなく、生々しい商売をしている一生懸命な人と仕事がして行きたいですね。
-設計業者選定においてのアドバイスがあればお願いします。
人の物件だからとちゃんと責任感を持ってくれているか、自分の名誉や作品作りのためにデザインしようとしていないか、見極める必要があると思います。一緒に儲けることを考えてくれる人と仕事をした方がいいですね。それによっては、F1と一緒で、お金のないチームでも勝てることがあるんです。それだけ、チーム編成って大事だと思います。
-東京のオフィスを紀尾井町に移転したのは、どのような経緯だったんですか。
人と違う生き方がしたかったのに、似た人が集まると快楽がなくなる。以前オフィスのあった中目黒は、そうなって来ていました。異端であることで、自分の存在感を見出したい。紀尾井町は、エリート学校に転校してきた気分で面白いですよ。デザイン会社なのにって、東京の人にも変わっていると思われたいですね。
-創業から18年。今までを振り返って、いかがですか。
苦節18年。今までに裏切りや仲間割れ、ねたみから、周りがばらけて行く挫折も味わいました。けど、正直に一生懸命やる。そして今でも仕事をする。人生でデザインに出会えたことが本当に幸せだと感じています。飲食店もやりながら。所有欲は、あまりないですね。まだまだ過程だけど、店造ったり、会社造っているのが本当に楽しいんです。
-設計者としての理想像を教えてください。
箸から街まで、デザインすることの領域に限界はありません。けど日本って、考える人を分業すると思うんです。だから、まとめて見ると、バラバラになってしまう。理論的に街造り出来る人は他にいるから、感性でやって行きたいんです。一つの感性で、割り箸から街まで。
-今後の事業展開の展望をお聞かせください。
今まで海外では、10物件ほど設計を手掛けて来ました。今は上海で、クラブの内装設計なんかもやってます。今後は、上海や香港、NY、パリといった海外の案件にも注力して行きたいですね。もちろん引き続き日本でも。それには、デザイン事務所の人数も増やしたいです。また直営の飲食事業でも、みんなが狙わないところで、新しい展開を考えています。真似されちゃったら困るから、それは言いませんけどね。
森井良幸氏プロフィール
1967年、京都の呉服店に生まれる。京都芸術短期大学中退後、設計事務所、内装会社勤務を経て、1996年に株式会社カフェを設立。大阪と東京に拠点を置き、カフェ経営に携わるとともに、ブティックやクラブ、ダイニングやカフェ、集合住宅や複合商業施設の内装設計や建築設計を行う一方で、15店舗の飲食店も経営する。