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【新連載 大衆酒場の創世記】第一夜 武蔵小山『牛太郎』 新井城介

大衆酒場は、誰よりも優しい友人である。
寄り添い、身を委ねれば、すべての言葉に素直に耳を傾けてくれる。
洒落た警句や、野暮な横槍なんていらない。欲しいものはただ静かな慰安と、
挫けそうになる心を、少しだけ痺れさせてくれる幾杯かの酒だけなのだから…。

平成の世を席巻した名だたるチェーン店が崩壊して行く現代、
いよいよ「個店」の時代が始まろうとしている。
よその店にはない強烈な個性、徹底したホスピタリティー、
週何度でも通えるリーズナブルな価格設定…。
そのオリジンは、今も昔も人々を惹き付けてやまない老舗大衆酒場にあった。
友よ、すべての答えは昭和の黄昏の中にある。


帰路の導線をナビゲートする絶妙な立地設定

牛太郎は戦後まもなく、浅草の繁華街で産声を上げた。カジノフォーリー、オペラ座、木馬館。映画やオペラ、レビュー、浅草は日本の文化の先頭を走っていた。
そんな中、隣のお好み焼き屋、染太郎と共に菊水通りで人気を誇ったのが牛太郎だ。

もともと菊水通りという名前も、凌雲閣と呼ばれた浅草十二階の解体後、浅草雷門1丁目交差点に凌雲閣を模した仁丹塔が完成。その周りにできた飲屋街の中で人気を博した焼きとん屋『菊水』に端を発している。

「浅草の牛太郎は、もともと母親の旦那の姉さんがやってた店で、お隣りの染太郎さん共々、ずいぶん繁盛していたみたいです」。
開店を控えた仕込みの手を休めないまま、現在の牛太郎の店主、城さんこと新井城介さんが穏やかな口調で語り出す。

「だんだん店が忙しくなって来て、もともと洋傘の行商をやっていた親父が浅草に呼ばれたんです。その後、北千住店の店長を1年つとめた後、現在の武蔵小山で独立しました」。

入口の額洋傘という、当時としてはハイカラな商品。当然、客筋はお洒落好きの富裕層だったのだろう。牛太郎には今も当時の面影を伺わせる額が飾られている。入口の大きな暖簾をくぐり、入ってきた壁を振り返ると、「がんばれ新井君 中村勘三郎」と署名された大きな写真のコラージュがある。
「当時、洋傘が縁で中村勘三郎さんに可愛がられていた親父が中村さんのお邸で撮影してもらったものみたいですね。右下、親父と一緒に写っている坊ちゃんが近年お亡くなりになった18代目の勘三郎さんです。3歳の頃だと聞いています」。

よく見ると額のコラージュの下地になっているのは、1958年に歌舞伎座が製作し松竹が配給した『赤い陣羽織』という邦画のポスター、十七代中村勘三郎の映画デビュー作だ。左下で勘三郎さんと微笑むハンサムな伊達男こそ、武蔵小山牛太郎の創立者、城さんの父、新井清一郎氏である。面長で端正な顔立ちは、どことなく今の城さんに通じるものがある。

「最初の建物は、洒落者で凝り性だった親父が銘木センターから全国の高い木材ばかりを取り寄せて建てた豪華な木造建築だったんです。客も一度に40〜50人は入れる店で、従業員も常時8人くらいいて、店の上に住み込みで寝泊まりしていました」。

現在も暖簾の上に記されている名キャッチフレーズ、「仂く(はたらく)人の酒場 牛太郎」は当時、清一郎氏本人が考案したものだと言う。

看板「当時、三英社という大きな工場がこの近くにあって、親父はその帰り道の勤め人の方をターゲットにしたんです。駅前には何軒もの飲食店があるから、お客さんが方々に分散してしまう。でも、会社からの帰り道にいつでも、何人でも、待たずに入れる店があれば、客の導線が自然とできあがるはずだ。そう考えたのが見事に当たって、自分が子どもの頃には毎日毎日100人を越えるお客さんたちで賑わっていました。もともと武蔵小山は家内制手工業が盛んな所で、周りには町工場もたくさんあって、工員さんや職人さんたちがたくさんいたんです。毎日、何度も割りものの炭酸が足りなくなって、近くの博水社までベスパに乗って炭酸を補充に行く親父の後ろ姿を今でもはっきりと覚えています」。

わずか3分の博水社までの足にベスパを使っていたダンディな父親、中学からは近くの私立・攻玉社に通い始めた城さんも、将来は大衆酒場である牛太郎の跡継ぎではなく、一流のホテルマンになろうと夢見ていた。

 

 

利益率よりも回転率を考慮したベンチシートの奇跡

「仂く人の酒場ですから、料金は初めから思い切りお安く設定していました。利益率を考えるより、いかに効率よく店を回すか。そのためにいちばん大切なことは“回転率”ですから、椅子は4人掛けの長椅子、いわゆるベンチシートです。ベンチシートは悪い言い方をすれば、落ち着いていつまでも座ってられない。だから、長居ができない。ピーク時の客席は、1回転20分見当だったと聞いています。立ち飲みではなく、座っていて20分、今ではとても考えられません」。

その頃、子どもは飲み屋なんかに出入りしちゃダメだと言われていた城さんは、おなかが減ってくると、2階に設けられた階下への覗き窓から、目まぐるしい牛太郎の喧噪をいつも見つめていたという。

「2人とも忙しいから、ご飯は今も続いている近くの『自慢亭』に1人で出かけて行って、毎日、焼売ライスばかり食べていました。その代わり、盆暮れ正月には豪華な旅館で贅沢三昧。とにかく派手なことが大好きな親父でした。外でも、ずいぶん遊んでいたんでしょう。結局、それが自分の命を縮めることになってしまいました」。

結局、早くから身体を壊した父親は49歳であっけなく他界。
城さんは「一度、酒蔵に行って修行して来い」と言う父の課題も果たせないまま、自らのホテルマンへの夢も封印して、急に1人で店を切り盛りすることになった母親のサポートを引き受けることになった。

「洒落者でソフトだった父親と対照的に、母親はとにかく気丈な人でした。覚えている限り、どんなに酷い酔っぱらいだって全然平気でした。一度なんかは、突然日本刀を振り上げた人が店に飛び込んできたことがあった。でも、その時も、反対に威嚇して帰したことを覚えています。桐谷斎場の帰りだったのか、カウンターを黒服の厳めしい方たちが占領したこともあった。その時にもちゃんと、ある程度の時間が来たら、次の客のためにみんなに帰ってもらっていました」。

母親と息子、牛太郎の第2章の始まりだった。

 

 

労働効率と丁寧な接客を実現したコの字カウンター

客たち1「しばらくして、お店を今の形に改装して、いわゆるコの字カウンターを作ったんです。自分としては、もっと洒落た複雑なカウンターの方がよかった。でも、今度は母親が身体を悪くしてしまって、できるだけ接客が楽な方がいいと思って考え出した苦肉の策が、現在のコの字カウンターだったんです。その時に、店のキャパも半分くらいに減らして、現在の牛太郎の原型ができあがりました」。

名物の焼きとんの焼き場には母が立ち、もう1つの名物「とんちゃん」の鍋近くには昔からの従業員シゲさん、そして城さんという3人体制の牛太郎は順調に動き始めた。

「もともと、とんちゃんはお客さまのリクエストから生まれたものなんです。親父の時代、炭坑の閉山で上京して働いているお客さんが多かった。彼らに聞いた九州・築豊地方のモツ料理を親父なりにアレンジして生まれたのがとんちゃん。今もウチの名物になっています」。

もう一つの創業時からの名物「もつ煮込み」は、後に太田和彦氏の新東京三大煮込みにも選ばれた。訪れるお客の多くは、まず煮込み(写真左)ととんちゃん(写真右)、黄金のコンビと思い思いの酒を注文して、焼きとんの串が焼き上がるのを待つ。黄金のコンビ

しかし、順風満帆の3人体制も長くは続かなかった。不意に訪れた突然の母親の死で、司令塔を失った牛太郎は分裂、従業員もいなくなり、城さんは独りぼっちになった。

「もう辞めよう、店を閉めようと考えました。その後、焼き場の若手が入って復活。でも、再び彼が居なくなった時には、もうダメだ、閉めようと何度も考えました。でも、ある日、浅草時代に働いていたという夫婦が国立から訪ねて来てくれたんです。そして、『牛太郎っていう名前を残してくれてありがとう』って涙ぐまれた。ほぼ毎日来てくれる常連さんもたくさんいて、『俺の居場所がなくなるだろ』って言われる。だから、もう少し頑張ってみようって思ったんです」。

毎日、決まった時間に来店する40年来の客もいる。いつの頃からか人見知りになった彼のために、城さんは無言のままで毎日同じセットの酒と料理を出す。
牛太郎に通うために定期券を余計に買っているサラリーマン。定期的に軽井沢から通う夫婦。自らが牛太郎指南となって、一見さんに店のルールを指導するご常連もいる。みんな牛太郎が大好きで、牛太郎じゃなければいけない人たち。かく言う僕自身も、その1人だ。

「今はただ自分の年齢に合わせて、家内と2人のんびりゆったりやって行こうと決めたんです。歳に合った無理のない営業を、細く永く、ということです。時々、混雑時に対応が遅くなって怒って帰ってしまう方もいます。せっかく来て頂いたお客さんに喜んでもらいたくても、キャパシティには限界がある。でも、もう思い悩むことはやめにしました。今自分ができる最上のホスピタリティーで、1対1の接客をキチンとしていれば、きっとお客さんは足を運んでくれる。そう思えるようになったんです」。

城さん1
最近は大衆酒場好きの女性たちが増え、牛太郎はその頂点の一つとしてたくさんの女性ファンが訪れる。みんな城さんから注文を聞かれるまで大人しく座り、飲み終わったら食器をカウンターの上に片付け、ダスターできれいにして帰って行く。心配だった焼き台は長年の常連の1人が元プロの技を活かし、ボランティアで手伝ってくれている。

みんな牛太郎が大好きで、いつまでも牛太郎に通いたいから、自分にできる範囲の努力をする。殺伐とした競争に晒される飲食業界の中で、老舗の大衆酒場がみんなに愛され、たくさんのフォロワーを生み続ける理由が、城さんの優しい笑顔を見ていると、なんとなく理解できたような気がした。
今日も牛太郎は、ご常連たちの満面の笑顔でぎゅうぎゅう詰めになっているはずだ。

『牛太郎』
住所:東京都 品川区小山4-3-13
電話:03-3781-2532
営業時間:平日 14:30~20:00、土祭日 11:30~18:00(売切仕舞)
定休日:日曜日

■著者プロフィール 森 一起
1956年佐賀県生まれ。プロのミュージシャン、作詞家としても活動してきた異色のフリーライター。コピーライターやエディターとして、数々の有名誌を手がけてきた。現在は、「料理通信」やグルメ情報サイト「dressing」などで、飲食店を題材にした人気連載を執筆中。

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