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【新・外食ウォーズ】「Smile&Sexy」の経営理念を柱に「小林-加治」の二人三脚で、9期連続増収増益へ。物語コーポレーション 代表取締役社長・COO 加治 幸夫

物語コーポレーション会長・CEO(最高経営責任者)の小林佳雄(66)は2011年9月、グリーンハウスから転身し執行役員を務めていた加治幸夫(57)を社長・COO(最高執行責任者)に抜擢した。実は小林と加治はまだ修業時代、フランス料理の名門「コックドール」に勤めたことがあり、先輩と後輩の間柄である。勤務した時代が異なり一緒に働いたことはなかったが、今から22年前の1992年に開催されたコックドールのOB会で、ふたりは初めて出会い意気投合した。その後小林は物語コーポレーションの社内報を創刊、「Smile&Sexyでこの日本国に革命を起こそうぜ!」と「革新宣言」を発した。「Smile」は「笑顔」「元気」「マナー」「表現力」のこと、「Sexy」は「自分物語をつくろう」「個性を豊かに表現しよう」という意味である。加治は小林の「革新宣言」に共感し、その日から自分を「社外物語人」として活動してきたという。以来20年ほど交流が続き、小林は10年11月にはグリーンハウスの執行役員だった加治に後継社長を頼むのだ。東日本大震災が起こった直後の11年4月、加治は物語コーポレーションに入社、11年9月に社長に就いた。あれから3年余、加治は小林と二人三脚で歩み、14年6月期では売上高約268億円(前期比18・9%増)、経常利益約21億円(同5・0%増)、当期純利益約12億円を実現した。9期連続増収増益である。加治と小林の〝ふたりの物語〟は新しい会社物語をつくり出そうとしている。


物語コーポレーションと小林佳雄の物語

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物語コーポレーション会長の小林佳雄は、「一人ひとりの物語が会社をつくる。会社は物語でできている」と言い、組織より「個の尊重」を大切にする会社をつくってきた。11年9月には信頼する加治幸夫を社長に抜擢した。本稿は物語コーポレーション社長の加治幸夫の物語にスポットライトを当てるが、その前に物語コーポレーションをつくってきた小林の物語を簡単に振り返る必要があるだろう。

 物語コーポレーションは郊外型大型店の「丸源ラーメン」(100店舗)、郊外型大型店でテーブルバイキング(食べ放題)式の「焼肉きんぐ」(122店舗)を主力に、大型店の「お好み焼本舗」、和食専門店の「魚貝三昧げん屋」、「寿司・しゃぶしゃぶ ゆず庵」(タッチパネル方式)など5業種10業態、310店舗(直営店157、フランチャィズ店153)を展開している。小林は1948年1月生まれ。父はサラリーマン。母きみゑは小林が満1歳の49年12月に、おでん屋「酒房源氏」(約12坪。愛知県豊橋市広小路)を開業した。これが物語コーポレーションの前身である。きみゑはおでん屋を成功させると、豊橋市に天ぷら割烹、駅ビルに「わっぱ飯店」を開店、合計3店舗を経営した。69年には株式会社「げんじ」を設立した。小林は母の飲食店経営の成功もあり〝大金持ちのボンボン〟としてなに不自由なく育った。68年に慶大商学部に進学、大学4年の時就職活動をするのが嫌で、1年間の休学届を出し親から100万円もらって渡米した。アメリカで勉強するつもりだったが、異文化に揉まれ1年間遊んで帰って来た。社会を少し舐めて就職活動したせいもあり40社ほど受けて全敗した。結局73年に慶大を卒業するとフランス料理の老舗「コックドール」でウエイターを1年、その後豊橋市の老舗和食店「みなと」で1年間板前修業し、75年に母が経営する「げんじ」に入った。だが会社は赤字経営で、小林を入れるのに板前を1人辞めさせたのが実情だった。ここから小林の苦闘が始まったが、小林が人間として大きく変わるのは、79年に母の後を継ぎ社長に就いてからだ。
社長の仕事は「意思決定する」ことにある。
社長が意思決定しないことには会社は動けないし、業績も左右する。小林は自分が意思決定することで成功しようと失敗しようと、学習効果が上がり感性が磨かれ、自分の考えが形成されるということを学んだ。小林は他人任せにせず自分で意思決定し、「自分の物語をつくる人こそが幸せに生きることができる」と、「個」を尊重する企業文化をつくっていくのだ。
小林は社長に就き「意思決定」を積み重ねる中で人間として目覚めた。以来研鑽を積み豊橋市では地域一番と言われる高級和食店を育てていった。小林はバブル時代の89年2月、に「しゃぶ&海鮮源氏総本店」(豊橋市)をオープン、多店舗化に踏み切った。90年12月には「大衆活魚料理店源氏本店」(後に「魚貝三昧げん屋」に業態転換)を開店した。バブル崩壊後の92年5月、豊橋市に本社を開設した。95年12月には焼肉第1号店「焼肉一番カルビ」を開店し、多角化を進めた。97年6月には母が設立した株式会社「げんじ」を現在の「物語コーポレーション」に改めた。

加治幸夫の物語

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 さて加治幸夫は東京・日本橋の鉄鋼会館の宴会場で92年に開催されたコックドールのOB会で小林と初めて出会い、意気投合した。今から22年ほど前のことである。加治は当時グリーンハウスに勤めていた。
「小林さんと初めてお会いした時、まだ社名は『げんじ』でした。店舗数も4店舗だけ。小林さん自身坊主頭で、まだ板前でした。OB会での出会いの後、はがきで礼状をお出ししたら、小林さんからは便せん2枚に書かれた丁寧な手紙が届き、恐縮したことがあります」(加治)
 加治は1956年12月、東京生まれ。父は後に富士銀行(現みずほ銀行)の支店長を務める堅実な家庭で育った。だが早い頃からバンド(音楽)のギターに熱中した。都立保谷高校時代は大学進学の予定で家庭教師を就けて勉強していたが、高校2年の夏休み、親戚のおじさんが新宿・中村屋の社員として勤務していたのが縁で、1ヵ月ほど中村屋サロンでアルバイトをした。これが加治を飲食業に飛び込ませるきっかけとなった。
「父の仕事の関係で小学校で3回、中学校で2回転校しギターに熱中するようになりました。高校2年の時もっと世間を見たいといった好奇心からアルバイトを始めたのですが、中村屋サロンは今でいう高級カフェ・レストランでした。昼はカレーやドリア、夜はビール、ワインなども提供しました。店内の内装はホテルにも負けない豪華さ、壁にはシャガールやルノアールなど本物の絵が飾ってありました。また高価な音響施設からクラシック音楽が流れて来ます。室内空間、音楽、厳選されたメニュー、洗練されたサービス……どれひとつとっても素晴らしく、レストランというのは総合芸術なんだと確信しました。とにかく今までに経験したことのない楽しさ、 私のやりたい仕事はこれだ! と思いました」(加治)
 加治はこの時期、腎孟炎にかかり5ヵ月近く入院するが、この時同じ病室に入院していた出版社の編集者の影響で、本を読むのが好きになった。中でも城山三郎の作品が好きで全部読んだが、その中でも最も影響を受けたのが『勇気堂々』であった。一農夫の出身でありながら近代日本の最大の経済人となった渋沢栄一の生涯を、明治維新の激動期の中に描いた作品で、自分の生き方を決める指針となった。こうして加治は76年に高校を卒業し、19歳の時にフランス料理の名門「コックドール」に入社し、レストラン「四季」(当時東京・銀座)のウエイターからスタートした。日本のホテルやレストラン、飲食業界に多数の人材を輩出した「コックドール」で修業したことが、後に加治を物語コーポレーションの社長に導くのである。加治はコックドールには約7年間83年まで務め、84年~87年の4年間はアメリカンレストラン「ハードロックカフェ」、カジュアルイタリアンレストラン「カプリチョーザ」などを展開するWDI(東京都港区六本木)に勤めた。
「コックドールを辞めた後WDIに入る前の27歳の時、すかいらーくの入社試験を受けて落ちました。理由は自動車免許がなく車通勤ができなかったからです。そこでこの機会に免許を取ろうと教習所に通いました。その時費用を稼ぐために夕方6時~深夜12時までロイヤルホストでアルバイト、午前1時から朝5時までANA(全日空)が経営していたファミレスのアニーズの厨房でアルバイトしました。その時代のロイヤルホストの店長とは今でも付き合っています」(加治)
 加治はWDIを経て88年(当時31歳)に産業給食のグリーンハウス(東京都新宿区)の外食事業部門であるグリーンハウスフーズに転職した。同社は外食事業ではトンカツレストランの「新宿さぼてん」を展開、また持ち帰りのデリカ事業も展開していた。加治は以来23年間、2011年3月まで同社に勤めた。
「社長の田沼千秋氏は創設者の文蔵氏の息子です。75年慶大経済学部卒業、野村證券勤務を経てグリーンハウスに入社。80年に米国コーネル大学大学院ホテル経営管理学科を卒業したエリートです。一方ではピアノを弾くなど音楽やカラオケが大好きで、音楽好きの私と波長が良く合ってかわいがっていただきました。田沼氏はコーネルクラブジャパン会長を務め、同大学出身の星野リゾート社長の星野佳路氏やキリン社長の磯崎功典氏などを軽井沢のゲストハウスに招き、親しく交流しました。そういう時には私も同行させてもらい、人脈を広げさせてもらいました」(加治)
 田沼氏は「社員一人ひとりに創業者精神を!」という考えの持ち主で、新規事業の創設に熱心だった。加治は子会社のグリーンハウスフーズの執行役員に抜擢され、田沼氏と二人三脚で様々な新業態開発を担当してきた。
「商業施設のフードコートに『新宿さぼてん』のテークアウトショップを開設したり、東京ビッグサイトに『カフェカレー王国』を出したりしました。中でも40年に1回空くかどうかと言われる新宿京王モール(17坪)の出店は思い出深いですね。女性対象、健康食というテーマを与えられ、おかゆの新業態『粥餐庁』(かゆさんちん)を開発しました。これはいまでも月商1200万円を売るヒット店舗になっています」(加治)
 加治が中心になって開発した「粥餐庁」はその後少しずつ広まり、現在、都市部の商業施設などに合計9店舗展開されている。グリーンハウスは慶大の食堂運営受注からスタート、企業や工場の給食事業へと発展し、66年12月にはレストラン第1号店となるトンカツ「さぼてん」新宿店を開店、また、67年1月には中国料理「謝朋殿」新宿店を開店し外食事業に本格参入した。もともと中国料理事業には熱心で、加地は90年代後半頃から中国料理の新業態の開発を手掛けるようになった。

「小林‐加地」の二人三脚物語

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一方、物語コーポレーションを率いる小林は2000年11月には東京・赤坂に東京本部を開設、焼肉業態を20店舗以上展開し上場すると意気込んでいた。ところがBSE(牛海綿状脳症)問題が発生、深刻な焼肉離れが起きようとしていた。小林は新業態開発の必要性を感じ、知見のある加地にも相談し、中国料理の新業態開発に挑戦した。初めからうまくはいかなかったが試行錯誤を繰り返しながら、コンセプトを固めていった。こうして01年6月、郊外型大型ラーメン専門店「丸源ラーメン 三河安城店」(愛知県安城市)の第1号店の開店に漕ぎ着けた。これが月商4000万円を売る大繁盛店となり、物語コーポレーションは面目を一新、快進撃を始めるのである。
 このような時期を経て小林は、「自分の物語を一生懸命に描きたいと思う人が、会社という場所に集まって切磋琢磨すれば、自然と素敵な会社物語ができる」ということを確信するのだ。
こうして小林は10年11月、グリーンハウスフーズ執行役員の加治に物語コーポレーションの次期社長を要請した。加治は「カリスマ・小林」の後任に就くことに一抹の不安はあったが、「これも自分の人生物語」と前向きに受け止め、11年4月に物語コーポレーションに入社。11年9月に社長に就任した。早いものであれから3年余が経つ。加治は14年11月に行われた筆者のインタビューに、こう答えた。
「M&A(企業の合併・買収)ではなく、自前であと2つ3つ新業態を開発し中期的に売上高500億円を目指す。飲食大企業ではなく、食いもの屋魂を持った飲食大生業を目指したい」
 加治と小林の二人三脚で10期連続増収増益が実現しようとしている。今後どんな新しい「物語」が生まれてくるのか、なかなか興味深いのである。

(文中敬称略)

〈新・外食ウォーズ〉
外食ジャーナリスト 中村芳平

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