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【新・外食ウォーズ】「第2の創業」へ――時代や世の中の変化に対応する強固な基盤を構築する 大庄 取締役相談役 平辰

居酒屋チェーン「庄や」「やるき茶屋」「日本海庄や」などを全国展開する「大庄」(東京都大田区)は、今年1月から創業以来初の「業務構造改革」に取り組んでいる。大庄は「のれん分け」方式の独立制度で急成長を遂げてきた。創業者の平辰(74)は1968年4月の創業以来46年間社長を務めて来たが、時代の変化に対応する「業務構造改革」を進めるために、今年9月、長男で副社長の平了寿(かずとし、48)に社長を譲り、相談役に退いた。大庄は平了寿新社長のもとで世の中の変化に対応する「業務構造改革」すなわち「第二の創業」に挑戦する。


協同組合庄や和食グループの設立と調理師育成

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大庄は「庄や」「やるき茶屋」「日本海庄や」の3大ブランドを中心に30業態、直営599店舗を展開している。一方、「協同組合庄や和食グループ」(理事長平辰。78社加盟、東証1部の大庄、JASDAQ上場のかんなん丸も加盟)が推進する「独立・オーナー制度」(独立のれん分けシステム)で200店舗展開。合計799店舗を展開している。

 大庄の独立制度は原則的に勤続5年以上、店長・調理長経験が3年以上になり、借入金(上限5000万円)の10%を自己負担できる者が「有限会社」や「株式会社」を設立、「協同組合庄や和食グループ」に加盟して、無担保融資を受け独立開業するという仕組みだ。一般的なフランチャィズチェーン(FC)システムとは異なる「のれん分け」方式で、契約も「大庄ファミリー契約」となっている。
 大庄創業者の平辰は1940年1月、佐渡市生まれ。生家はニシン樽のタガを作って北海道の漁師に売る竹細工屋だった。母の実家は網元で子供の頃から佐渡近海の新鮮な魚を食べて育った。これが「大衆割烹庄や」を創業する原点であった。新潟県立両津高校(現在閉校)卒業、上京し新聞配達などをしながら日大理工学部へ。60年に大学を中退、日立製作所に入社するが、サラリーマンが性に合わず62年に退社。ビニールで包装した滅菌割り箸の製造販売会社を起業。飲食店などに販売して大儲けした。だが詐欺に遭って挫折。義兄が始めた洋食レストランの店長などを経て、68年大田区池上本門寺の場末の飲食店街で2階建ての店舗兼住居を購入、若鳥焼き「朱鷺」(1階6坪14席)を開店した。
「店を開ければお客さまが来るものだと思っていたが全く来ず、1日の売上げは3000円程度。ゼロの日もあった。あんまり暇で店の回りや通りを掃除したり、ついには近所の銭湯に頼み込んで三助を志願。お年寄りなど片っ端から背中を流しながら、今度飲食店街に焼鳥屋を開店したので風呂帰りにでもお立ち寄りくださいと売り込みました」
そうして来店した客に平は、「社長」「先生」「若旦那」と、心から「おもてなし」をした。
客が疲れたといえば肩を揉み、会社帰りであれば靴を磨き、酔いつぶれれば自転車に乗せて家まで送り届けた。「ありがとうございますを10回は繰り返した」という。平は自分を無にして客に尽くす中で、接客術の神髄を身につけていった。そして1年後には常連客で連日満員の繁盛店にさせた。一方、売上金は銀行に日掛け預金し次の出店に備えた。「地域との交流の仕方」「接客術」「常連客づくりの方法」などは後にマニュアル化され、大庄の店長教育など人材育成のバイブルになっていった。
 この時期を経て平は71年11月、株式会社朱鷺(後に大庄に商号変更)を設立、現在のJR水道橋駅近くの千代田区三崎町に新鮮な魚介類などを売りにした大衆割烹「太平山酒造」を開業、大ヒットさせた。だが調理師会から派遣されて来た板前が忙しさを嫌気して「総上がり」(一種のストライキ)してしまうなど、店舗運営には苦しんだ。そんな中、平は郷土佐渡の「庄屋」をイメージした大衆割烹の店を構想、外部スタッフと組みコンセプトづくりを進めた。こうして平は73年3月、JR水道橋駅近くに大衆割烹「庄や本家店」(庄や第1号店)を開店した。
「創業期の庄やの設計思想は土間、囲炉裏、居間、座敷の4つに区切った四ツ目住宅が基本でした。大工さんのルートを活用、佐渡や地方で解体された庄屋など旧家の木材を集めました。東京のビルの砂漠の中でお袋の料理が提供できるオアシスのような場所を作ろうとしたのです。店舗名は大衆割烹『酒盛小屋 庄や本家店』とし、キャッチフレーズは『かまどの煙 鍋の湯気』としたのです」
割烹の「割」は包丁で切ること、「烹」は火を使って煮ることだ。割烹とは板前が客の注文に応じて作る刺身や寿司、会席・懐石などの和食料理のことをいう。平は「居酒屋庄や」と呼ばれることを嫌い、「大衆割烹庄や」にこだわった。平にすれば割烹料理といえば高価格の店しかなく一般のサラリーマンには高嶺の花だった時代に、その半値から3分の1の低価格で提供する価格破壊業態の「大衆割烹庄や」を作ったのだ。平は飲食業界における「大衆割烹の先駆者」であった。ここに平の歴史的な役割があったといえる。
この「庄や本家店」も行列ができるほど大繁盛した。そこで平は直ぐそばに物件を取得し、9ヵ月後の73年12月には「庄や分家店」をオープン、 141120-gaisyoku_wars02.jpg 大繁盛させた。だが調理師会から派遣されてくる板前の定着は悪く、自前で育てる以外に手がなかった。社員一人ひとりと腹を割って話し合った。その結果社員の8割が独立開業を望んでいた。そこで平は希望者を独立させるために「独立制度」を整備、会社の幹部として残る者たちには「所得倍増制度」「持店制度」(ダブルインカム制度)など、やる気を喚起する制度を作り「100店舗構想」を打ち出した。75年には独立制度適用の第1号店「庄や春日店」、第2号店「庄やひだ店」、第3号店「庄や西荻窪店」、第4号店「庄や神谷町店」を開店した。4店舗とも平が個人保証して銀行から借り入れた。ただ3号店までは平の親戚、友人などだった。だが第4号店の「庄や神谷町店」のオーナーは新聞の募集広告に応募してきた人物だった。これを機に「神谷町のオーナーに続け!」と、社員たちの間に独立開業の熱気が渦巻いた。問題は資金力だった。第4号店までは平の個人保証で銀行融資を受けられたが、個人ではそれが限度だった。そこで平が着目したのが農業協同組合の仕組みだ。東京都中小企業団体中央会に相談し、独立させた4人のオーナーと平が会員となり、81年「協同組合庄や和食グループ」が設立され、平が理事長に就いた。合計5人のオーナー社長が個人保証することで商工中金から低利融資を受け、独立希望者に無担保で貸し付けた。当初は1000万円やがて2000万円、3000万円と増額され90年には5000万円まで増額された。仮に独立開業者の経営がうまくゆかなくなった時は店舗は組合員の誰かが引き受けて運営するというシステムだ。この独立制度が整備され、「庄や」グループの大躍進が始まった。
平は「協同組合庄や和食グループの設立が大庄の全ての基礎になった」と振り返る。
一方、板前も自前で育成するがこれも「協同組合庄や和食グループ」の中核事業として発展して来た。これより先の78年4月、三崎町の庄や第 141120-gaisyoku_wars03.jpg 1ビルに従業員教育用の「日本料理専門学校」を開校し、大庄の調理長が指導した。これが次第に発展し厚生労働省・東京都認定の職業訓練校を経て現在「職業能力短期大学校 日本調理師アカデミー」となった。これによって調理師を多数育成している。大庄のビジネスモデルはこの調理師の自前養成に始まり、全国の漁港や契約栽培農家から直接仕入れを行ない、自社物流で毎日配送するシステムにある。平はそのシステムを万全なものにするために、築地市場にはグループ企業の米川水産を持ち、買参権を保有している。仕入れ食材の安全性チェックには大庄総合科学新潟研究所を持つ。さらに加工はHACCP対応のクックチルセンター・製パン工場を保有している。こうして「川上」から「川下」まで一気通貫の「食」の安全・安心の流通システムを作り上げた。これが「日本の台所になる」という「大庄」の本当の強さなのだ。
多少の荒波をかぶろうと大庄が強いのは、独立自尊の事業モデルを構築したところにある。
大庄は前期の14年8月期では約50店舗を閉鎖、連結純損益は16億円の赤字を計上した。だが今後は既存店の業態転換も含め、好調な「大庄水産」の店舗展開を拡大する一方、新業態の「もつ鍋」「べーカリーカフェ」「焼肉」など「専門店化」した業態開発に注力する。15年8月期で10店舗、16年8月期では30店舗、17年8月期では40店舗出店、閉店は毎期5~10店舗を見込んでいる。

 

大庄取締役相談役の平辰に直撃インタビュー

――新体制で「業務構造改革」を進めるが大きな改革になるのか。

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平――はい。組織変更を伴う改革で、営業時間や賃金など全ての規定も変えます。時代や世の中の流れに対応した改革になるので、かなり大がかりになると思います。いずれにせよ1年間はいろいろきついと思いますが、これを乗り切れば見通しも明るくなるでしょう。社長交代は1年以上前にやろうと考えていました。けれども周りからもう1年頑張れと励まされ、やって来たといういきさつがあります。新社長体制になって、改革も大きく前進するでしょう。

――近年、大庄が鳴かず飛ばずだったのは「協同組合庄や和食グループ」から5000万円の融資を受けて独立する人材がいなかったからではないか。

平――その通りだ。5000万円融資を受けて独立するのはリスクが大きいと尻込みする人たちが増えて来たからだ。だが新しい芽が出てきたのも確かだ。前期の店舗閉鎖の中で店長から「店を閉めずに経営させて欲しい」と手を挙げる店長が多かった。こちらとしては20年も改装せず老朽化して来たので、思い切って閉鎖しようとしたのだが、店長が「やらせてくれ!」という。そこで1年契約で社員のまま独立オーナーとして店舗運営を任せ、給与のほかに営業利益に応じた報酬を与える店舗運営委託制度を導入した。そうしたら店長がやる気満々。あの手この手の販促を仕掛け、売上高を3~4割も伸ばすところが出て来た。ここが飲食店商売の面白いところだ。店長のやる気次第で飲食店は劇的に変わります。これによって店長の月収は2~3倍増の約100万円になったのです。この成功事例が引き金になり、「俺もやりたい」と手を挙げる店長が10人ほど出て来たのです。とにかく店舗運営委託制度にはリスクがありません。一方では独立オーナー、すなわち一国一城の主として自分の実力を試すことができます。この制度が独立への近道だと認識され、もっと広まれば、当社の再成長の起爆剤になると思います」

――和食文化について

「和食文化というのは四季折々の食材を調理して提供しますが、こういう食文化は世界のどこにもありません。それゆえ調理師(板前)は『腕を磨け!』『人に尽くせ!』――と仕込まれます。寝る間も惜しんで、創意工夫するのが調理師の命なのです。それが和食が世界文化遺産になった原動力だといえます。しかし、今の和食の現場を見ていると、これまでの価値観は通じず、私たちが築いてきた和食文化を自分たちで壊しているような気がします。職人の世界はマグロ解体などショーとしては伝わってゆくと思いますが、栄養のバランスを考えた作り方、技術などが伝承されず、現実的に崩壊する危険性が出て来たと思います。このままでは『おもてなし』を基本とするサービス業はどうなってしまうのか、今一度関係者が集まって再構築する必要があるのではないでしょうか」

――海外の食文化と和食について

「私は食材探しやメニュー開発で食品メーカーの人と米国のフロリダ、ベトナム、アフリカのマダガスカルなど世界を旅して来ました。世界では日本のように刺身やお造りを作るという食文化はなく、大きな魚や肉を切るのはオノやナタとトンカチ、食べる時にはハサミを使うのが一般的です。最近海外から進出してきている日本の飲食企業でもハサミを使うケースが増えて来ています。一方、コンビニが最先端の厨房機器を開発、ファストフード業界に負けない商品を販売しています。けれども刺身や寿司、すなわち新鮮な魚介類を提供するのは苦手です。将来カウンターに寿司職人を置くような時が来るかもしれませんが、私たちはこの分野では決して負けません。食は人類の生命線です。冷凍してギロチンで切って売るような真似は絶対にしません。私は相談役に退いても協同組合庄や和食グループの理事長であり、新体制を支えてゆく覚悟です」

(文中敬称略)

〈新・外食ウォーズ〉
外食ジャーナリスト 中村芳平

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