テンポスバスターズ第1号店「川口店」大ヒット
森下氏は新規事業で7連敗したがその程度でへこたれていたら、こんにちのテンポスバスターズはなかった。
森下氏がテンポスを始めるきっかけは95~96年頃、たまたまテレビで家庭用品リサイクルの「生活創庫」(浜松市、後に倒産)の社長堀之内九一郎氏(後に日本テレビのマネーの虎に出演)が出演しているのを見たことによる。同社長は電柱の下に置いてある粗大ゴミの中からステレオを拾い上げて、「これは5000円で売れますね」と車のトランクに積んだ。走り去ってゆく車がベンツだった。
森下氏はこれを見て「家庭用品のリサイクルというのはそんなに儲かるんだ」と衝撃を受けた。そして、会社で新規事業として提案した。だがすでに新規事業7連敗で1億4000万円損を出していたこともあり、企画に賛同する人が1人もいなかった。
それならばと言うことで森下氏は仕事の合間にリサイクル屋を訪ね、業務用冷蔵庫などのリサイクル屋の実態を調査した。そして、キョウドウの主力商品である業務用食器洗浄機に関係するリサイクル事業として、「業務用厨房機器のリサイクル店」を計画するのである。森下氏はその実行を熱心に社員に説いた。オーナーで創業社長の森下氏が本気でやると覚悟を決め、キョウドウの経営は弟の森下和光氏らに任せるということで、この事業計画は離陸した。
こうして森下氏は神奈川県大和市の現リサイクルセンター「タウン」(後に倒産)から中古品を仕入れることにし、そこで創業メンバーの研修を受けさせた。
「当時リサイクル屋というとほとんどが個人営業だった。20~30坪の小さな売り場面積に集めてきた中古品を修理して、山のように積んで置くスタイル。粗大ごみ扱いの製品を5000円、1万円也のおカネをもらって補修・再生するので、原価はタダどころかプラスアルファー。売れれば丸儲けだった。きつい、汚い、危険の3K職場でイメージが悪い商売だったが桁違いに儲かるので、リサイクル屋の店主は高級マンションに住み、ベンツなど高級外車を乗り回していた。銀座のクラブや馴染みのスナックで湯水のようにおカネを使っていた。そんな閉塞的な業界で強いリーダー企業がないものだから、新規参入するに際しては、それまでの常識を覆した超大型店を作って世間の度肝を抜いてやろうと考えた。そしてそういう大型店をいち早く全国展開し、圧倒的なシェアを取れば勝てると考えた」(森下氏)
こうして森下氏は97年3月、埼玉県川口市の外れに計1000坪の倉庫を借りて中古厨房の看板を掲げ、川口A館(500坪)・川口B館(500坪)を開店した。大ざっぱにいって駐車場付きの食品スーパーが2店舗開店できる広さである。だが店が大き過ぎる割には売り物の中古品がそろわない。そこで手分けしてリサイクル屋や閉店・廃業する飲食店の情報を集め、中古品をかき集めた。知名度がまるっきりなく、開店して3ヵ月間は売上30~40万円に対して経費が200万円を超える月が続いた。そこで新聞社各社に今までにない超大型リサイクル店ができたので記事にして欲しいと売り込んだ。そうしているうちに5月に朝日新聞埼玉版の記者が訪れてテンポスの記事を書いた。これが引き金になり日経新聞の記者が訪れ、全国版で記事にした。これが大反響を呼んだ。飲食店を開業しようと考えている人たちにとっては待望のリサイクル厨房屋が開業したのである。全国各地から問い合わせ電話が鳴った。また、この記事をきっかけに客が殺到した。中古品も集まるようになった。
森下氏はリサイクル品は市価の8~9割引きという「たまげる安さ」で販売した。当時はまだリサイクル販売の流れが確立していず、廃棄品・粗大ごみとしておカネをもらって回収したものが持ち込まれており、それで大儲けできた。
「こんなに儲かって罰が当たるのではないかというほど儲かった。そこで当社が大儲けすることに熱中していたらこんにちのテンポスはなかったと思う。私は価格はどこよりも安くし、赤字にならない範囲で安く売るようにした。蓄財するより投資して多店舗展開を図ることに重点を置いた。後に『安く仕入れたら安く売れ』『儲けるな・儲けろ』といった標語を作り、店長・社員に任せられる仕組みを作って来た」(森下氏)
森下氏は97年11月には「川口C館」(500坪)をオープンした。顧客の要望に応じて、中古品だけでなく新品の店舗用設備・備品の販売を開始した。この際森下氏は思い切った価格破壊戦略に打って出た。中古品の原価がタダ同然で粗利が非常に大きく大儲けできるので、新古品は6~7割引、新品も価格破壊戦略で売る方針をとった。テンポスの最大の成功要因は、中古品のリサイクル店と新品のディスカウンター店の2つの価格破壊戦略をとったことにある。このようなビジネスモデルは日本では初めてであった。
森下氏は翌98年6月には中古品の総合再生センターとして「川口D館」を設置し、川口にリサイクルの牙城を作った。そして98年11月には中小零細のフードビジネスの支援サービス第1弾として、店舗設計・着工をスタートした。創業して1年8ヵ月ですでに単なるリサイクル厨房機器店ではなく、新古品・新品も扱い、店舗設計・着工も行う飲食店支援サービス業の顔を持つようになるのである。これがテンポスの現在のコンセプトである「フードビジネスの総合プロデューサー」の原点である。
テンポスは創業して2年目の99年には東大阪店(900坪)、川崎店(1000坪)、幕張店(900坪)、福岡県(700坪)、FC金沢店(600坪)と大型5店舗を次々にオープンした。なおも2000年に川崎再生センター(1000坪)ほか熊本店など3店舗、02年6店舗と全国に展開した。
テンポスの得意先は中小零細や個人経営の飲食店、初めて飲食店をやるといった人たちが多かった。森下氏はそんな得意先に対して01年6月には「繁盛店のノウハウを指南するオーナーズスクール」の定期開催をスタートした。森下氏は、「資本力で大手に対抗できない個人経営など中小零細の飲食店のお助けマン」を方針にしたのである。
02年12月には創業してたった5年半でジャスダック市場に上場した。そのビジネスモデルは「ニュービジネス大賞最優秀賞」を受賞するなど高く評価され、03年8月にはジャスダック市場の信用銘柄に採用された。一方、03年には上場企業としては初めての試みである現社長とエリアマネージャー7人で争う「社長の椅子争奪バトル」を開始、マスコミの注目を集めた。2013年には第3回社長争奪戦の結果、42歳の平野忍氏が社長に就いた。
テンポスは現在では全国に直営・FCで47店舗展開し、リサイクル業界では圧倒的なシェアを占めている。なお、川口店ではいま中古・新品の厨房機器だけで2000点、食器備品類を入れると13万点がそろっている。
テンポスバスターズの転機
テンポスは業界の「異端児」「暴れ者」「ならず者」などと冷やかされてきた。それはテンポスのビジネスモデルがリサイクル業界の慣行を破る一方では、新品の価格破壊によって既存の厨房機器業界に価格競争を持ち込んだからだ。
森下氏は川口店を創業後、店舗がある程度増えると不明朗だと評判の悪かった中古品の買取価格の一覧表を作り、一覧表に基づき公正に買取を行なった。極めつけは中古業界では画期的な1年保証をつけたことだ。現在ではモノによっては5年保証もあるが、これによって中古品でも安心・安全であることが担保された。その結果、不明朗な買取価格で営業していた個人経営の多いリサイクル屋は大打撃を受けた。一方、既存の厨房機器業界は新品の価格破壊の影響で、寡占市場に風穴を開けられた。
しかしながらテンポスの得意先は個人経営者や中小零細企業者が多く、ニッチな市場であった。中堅、大手チェーンともなると専門メーカーに統一製品を大量に発注、店舗の標準化を図るので中古品は使わない。テンポスはニッチ市場には強かったが、マス市場に弱かったのだ。
その結果テンポスが「川口店」を開業してから10年、06年頃になると成長力が弱まってきた。特に大都市圏から地方都市に出店すると、黒字化するのに1年以上かかった。テンポスはこれを機に転換期を迎え、次の成長戦略を模索した。その結果飲食店経営の周辺業務、例えば不動産情報、内装工事、外食企業の再生などの事業を行なう「フードビジネスの総合プロデューサー」を志向することになるのだ。
06年といえばホリエモンこと、ライブドアの堀江貴文氏が1月に証券取引法違反容疑で逮捕され、2月には同社の株価は100円割れを起こし、時価総額は7300億円から986億円に落ち込み、ライブドアの凋落が明らかになった時だ。森下氏は07年頃株式の信用取引にのめり込んだ。目的は信用取引の儲けを活用しM&A戦略を実施、次の成長のタネを見つけることであった。
「自分が保有するテンポス株20%を担保に信用取引し、当初8億円以上の利益を上げた。その資金でM&Aを実施、これはと思う会社に出資、買収した。ところがどれもデューデリジェンス(多面的な資産査定)が甘く、トータルで5~6社買収したが、そのほとんどは1~2年で失敗した。貸付金の回収不能が1億円以上も発生した。そこで損失を取り戻そうと、07~08年にかけて一時期総額20億円を超える投資を行なった。けれども度重なる新興上場会社の不祥事で市場の信頼性は損なわれ、株価は値下がりした。当社もそのあおりを受けて株価が5分の1以下に暴落、信用取引の担保力がなくなってしまった。保有していた1部市場の株価も下がり、追証が発生、株の売却でしのいだが銀行借り入れ分は追加の担保もなくなってしまった」(森下氏)
その結果、森下氏が証券会社に預けていた担保株式が08年2月には市場で売却されそうになった。そこで会社が森下氏に2億円融資し、売却を防いだ。森下氏はこの責任をとって社長を退き、取締役グループ長に就いた。対外的には会長を名乗っている。その後自分の収入から融資を受けた2億円を返済し、現在8000万円台に減ってきた。テンポスの株価もどん底の時から比べれば現在は15倍(14年5月20日前場825円)に値上がりした。また、森下氏が社長を務めるステーキレストラン「あさくま」を来年3月に上場する予定で、会社からの融資は年内に完済できる見通しだ。
ステーキレストラン「あさくま」の再建支援に取り組む
森下氏は私利私欲を肥やすことはなく、信用取引で得た利益は全てM&A資金として会社の発展のために使った。5~6社への投資失敗で、損失は15億円程度に上った。
「そのような投資の一環として、06年に資本・業務提携を結び再建支援に入ったのがステーキレストランの『あさくま』だった。5億円で買収したが、これもデューデリが非常に甘かった。最盛期店舗数120、売上高179億円もあった会社が13年連続赤字を続け、不良資産だらけになり純資産がたったの1億円しかないことが分かったのが1年後だった。いつ倒産してもおかしくはなかった。それでも『あさくま』のブランドは生きており、儲かっている店もあった。経営に失敗した創業社長を追い出すのは忍びなく、私が創業社長の下であさくまの経営部長として経営改革をスタートした」
森下氏はこう続ける。
「最初に取り組んだのは従業員の意識改革だった。『あさくま』は名古屋が発祥、たいへん歴史のある飲食チェーン店だ。残った人たちは長く務めている人たちが多く、真面目で打たれ強く文句は言わないタイプの人が多かった。けれども自分から挑戦したり、明日を切り拓いてゆこうとする気概に欠けていた。そこで意識改革の第1弾として、パーソナルテーマシート(PTS)を作製し、外食企業の基本であるQSC(品質・サービス・クリーンリネス)、仕事の能率などの項目ごとに、自分が何をやらなければいけないのかを書きだしてもらい、具体的な行動目標にしてもらった。店ごとに少しずつ違いはあったが、1年も経つと問題点をキチンと把握できるようになった。けれども07年の決算では売上げ数字は全く上がらなかった」
森下氏は07年には日本テレビの「マネーの虎」(01年10月~04年3月放送)に出演していた小林事務所の小林敬氏(56)をスカウトした。それは森下氏がテレビで家庭用品リサイクルの「生活創庫」の社長堀之内九一郎氏(マネーの虎に出演)がベンツに乗っているのを見て、テンポスの事業を思い立ったのと同じで、不思議と「マネーの虎」人脈に縁があった。
「小林は、自分で飲食店100店舗を経営していた。05年には長崎オランダ村の跡地を使った食のテーマパーク『キャスビレッジ』をプロデュースしたが、開業から6ヵ月後には資金力不足で本業まで倒産させてしまった。それ以後、倒産しそうな飲食企業を立て直しては、そのたびにその会社の古株の幹部から追い出された。それは小林が経営者目線で立て直しをやっていたからで、立て直しが終われば古株にとって邪魔な存在でしかなかった。私はそういう立て直し方ではなく、社員目線を大事にして社員と一体となって立て直しをしてゆけば、最後は社員と一緒に立て直しの喜びを味わえる――そういう立て直し方をするべきではないかと説得した。そして小林に『当社にいる限りクビになる心配はしなくていいから、立て直しを成功させよう』と共闘を申し出た。それをきっかけに『あさくま』再建で小林との二人三脚が始まった」(森下氏)
これを機に「あさくま」の奇跡ともいえるV字回復がはじまった。森下氏は「あさくま」がダメなのは「FLコスト」(材料費+人件費)が高いことだと分かっていた。一般的にFLコストは対売上高60%前後が儲かる店の基準だが、「あさくま」は店によってバラバラだが人件費比率が35~45%もあり、FLコストが65%~70%もあった。最大の原因はパートの勤務時間が重なるなど無駄が多く、勤務シフト表がきちんと整っていなかったからだ。
森下氏は小林氏と手分けして店を訪ね店長とじっくりと話し合い、1店1店最適の勤務シフト表を作っていった。ほぼ1年がかりで、パートを一切辞めさせずにシフト表を完成させた。森下氏と小林氏が協力して「あさくま」の再建に取り組んだ結果、08年の決算では経常利益は数千万円の赤字ですんだ。森下氏は08年に社長に就任、本格的に「あさくま」の再建に取り組んだ。