
株式会社ピアンタカンパニー 代表取締役
伊藤 秀樹氏
出身地:埼玉県所沢市
生年月日:1977年12月23日生まれ。
企業ホームページ:https://www.e-pianta.com/

1982年東京都生まれ。成蹊大学卒業後、各種広告関係営業、外食企業のプロモーション・広報を経て、2014年1月、31歳で外食メディア「フードスタジアム」フードスタジアム株式会社 代表取締役就任。飲食店若手経営者の会「外食5G(現RX)」初代サポーター企業リーダー。2020年3月、株式会社ミライーツを設立。飲食業界における幅広い人脈、情報を持ち、飲食企業のサポートに従事する一方、本連載「クロスロード」では独自に記事の取材・執筆を手掛ける。
ロード1

- ・競輪選手の息子として生まれる
- ・みんなの真ん中にいる主役的野球少年
- ・まさかの4%の確率で大学に行けず
- ・1年で同期10人が辞める過酷なシェフ下積み時代
大山:伊藤さんはどこでお生まれになって、どんな生い立ちでしたか?
伊藤さん:生まれは埼玉県所沢市、西武遊園地/西武球場徒歩圏内、たぶん誕生年と西武ライオンズ球場完成が同じ年じゃないかな。だから、街を盛り上げるみたいなイベントがあったのか、そこに住んでる人たちはみんな西武ファンでした。父が競輪選手で、西武園競輪場を主戦場、練習バンクにしてたので、その辺に家を買ったみたいです。
大山:そうなんですね!伊藤さん自身は、何か運動とかされてましたか?
伊藤さん:父が息子2人に野球をやらせたくて、兄貴が先に少年団に入って、僕も追うように小3から野球をやりました。
大山:キャラ的には、どんなお子さんだったんですか?
伊藤さん:結婚式の時に昔の写真をスライドで流すという事で過去の写真を見てたら、全部主役なんですよ。幼稚園のお遊戯会も桃太郎の主役だし、少年野球もずっとキャプテン、学級委員長、小学校の運動会は応援団長、当時は全然意識してなかったけどとにかく主役やリーダーを張って責任ある事をやってきてた感じですかね。
大山:優等生ですね!それって推薦されてですか?それとも自らですか?
伊藤さん:中学は選ばれたというか、誰もやるやつがいなくて担任が野球部の監督だったので「お前がやるしかない」みたいな感じで学級委委員長をしてたんです。でも小学校の時は、好きでやってたかもしれないですね。
大山:じゃあ、まとめ役みたいな存在だったんですね。
伊藤さん:そうですね、真面目だし責任感は強い子でしたね。
大山:野球はバリバリやってたわけですね?
伊藤さん:早くからレギュラーになってました。中学はマンモス校で1学年11クラスあったんですよ。教室が足りなくてプレハブ建てるほど。11クラス掛ける3学年だから、野球部とか部員数半端なくてめちゃくちゃ強かったんです。僕は2年生から試合に出してもらってたんですけど、部員100人に対して9人しかレギュラーになれない。中3の時はレギュラーで所沢市の大会では1回も負けた事がなかったくらい強いチームでした。県大会では負けましたけど。

大山:高校でも、野球は続けたんですか?
伊藤さん:高校は花小金井の拓殖大学第一高校っていう所に行ったんですけど、僕体格がそんなに大きくなくて、高校じゃ無理だなって思って。当時の野球部が、甲子園に出てたくらい強かったんです。それでラグビー部に入りました。ラグビー部は当時11人しかいなくて試合ができてなかったんです。だから一年生をめちゃくちゃ勧誘して10人ぐらい入ったんです。練習ちょっとしてルールもわからないのに試合に出されてたけど、最初の試合で肋骨折して、みたいな感じでしたよ(笑)。
大山:訳もわからず試合に出て、骨折とは災難でしたね・・・(汗)。
伊藤さん:今思えば、うちの親父が競輪選手だったので多分普通よりはお金があったんだと思います。家でもやっぱり親父の体作るのに、母がそういうスタミナつく料理を作ってたり、外食って言ったらカウンターの寿司屋だし。小学校高学年になると、夕方ラーメン食べさせられて、なんだろう夕飯早いなと思ったら「はい、寿司屋行くよ」みたいな(笑)。空腹だとお金かかるからって。初めて回転寿司に行ったのは、大人になってから。だから美味しいものは食べてきたんだろうなとは思います。幸せですね。
大山:それで飲食に出会うのはいつですか?
伊藤さん:高校3年の時ですね。うちの高校からは拓大に96%で進学できるんですけど、自分なんとそこの残り4%に見事に入りまして(笑)。大学には行けないよってなって、生活指導の先生が調理科、美容科、自動車整備科だったら、推薦してあげられるよって言ってくれて、自動車整備は手が汚れるからとか理由つけて消去法で調理学校を選んだんです(笑)。でも先生が推薦してくれる学校じゃなくて、落ちるの覚悟で一番いいと言われてた武蔵野調理専門学校を受けたら合格しました。それまでは包丁も握ったことがなくて、そこで初めて料理と出会った感じです。
大山:それはまた破天荒な(笑)。専攻は、何料理だったんですか?
伊藤さん:洋食です。今みたいにフレンチとかイタリアンとかなくて、洋食と言えばフレンチって時代。
大山:専門学校ということは、2年制ですね?
伊藤さん:1年間。1年制ですね。当時1年制が主流で、僕が入った時に初めて2年制ができた年かな。
大山:そうなんですか、では1年終わってどこかに就職という訳ですか?
伊藤さん:武蔵野って入学したらすぐ学力テストがあるんですけど、点数のいい生徒からいいホテルを受けさせてもらえるんです。当時はホテル就職が主流で、僕は東京駅の目の前の丸の内ホテルに就職が決まりました。
大山:やっぱり昔の現場だから、最初は厳しかったですか?
伊藤さん:厳しかったですよ。同期が13人いて最初の1ヶ月は座学、2ヶ月目に現場に入るんですけど、半年後に3人になってましたね。10人退職(笑)。
大山:やばいですね。1日の時間割は、どんな感じだったんですか?
伊藤さん:ホテルは朝食があるので朝5時に出社して、昼の3時には終わってましたね。学生時代は学校行って、バイト行って、朝方まで遊んで、また学校行ってってすっごい忙しかったのに、就職したら午後3時に仕事が終わって、バイト行かなくていいから何すればいいんだろうみたいな(笑)。
大山:意外とそうなんですね。ホテルだから比較的、労働環境はホワイトだったってことですかね。
伊藤さん:最初は宴会場に配属されたんですけど、宴会が入ってない日は冷蔵庫の掃除、魚を大量に捌いて冷凍する、フォンドボーをかき混ぜて濾すという、なんか全然楽しくないな、って。ホテルの和食部門の親方が厳しすぎて、若い子がどんどん辞めていっていたから、洋食の若い子が和食のヘルプに行くことが多くありました。そこで僕は認められて、お前、和食に移動して来いって誘われたんですけど、和食よりやっぱりフレンチの方が華があるなって断ったのですが、和食の親方が洋食の総料理長に、こいつは宴会部門じゃもったいないって推薦してくれて、メインダイニングに移動できたんです。そこのメインダイニングのナンバー2の人が代官山で店をやるって言って引き抜いてもらいホテルは辞めました。料理は全然できないけど、気に入られる能力はあったのかな(笑)。
ロード2

- ・代官山でシェフとしての原型が完成
- ・銀座出店前に「ピアンタ」と出会う
- ・店舗立て直しで辞められずピアンタ社員に
- ・役員として経営に携わる
大山:20歳手前くらいまで(グラフが)下がってるのは、就職してちょっと違うかもしれないなみたいになったからですか?
伊藤さん:それは、高校の時ですね。中3までは順風満帆。本当は野球選手じゃなくて、競輪選手になりたかったんですけど、プロにはなれないぐらいの能力だと気づいちゃったんです。体も小さいしガリガリだったんで親父からも止められて、人生に目標がなくなってしまった。受験塾にも行きましたが、勉強する意欲も湧かなくて学校にも行かなくなってしまったのでかろうじて卒業はしましたけど悶々とした高校3年間を過ごしました。
大山:なるほどです。転機があったのですね。ホテルは結果、どれくらい働いたのですか?
伊藤さん:19歳の時、1年しかいませんでした。当時、13人全員は会社としても必要ないから残るやつだけ残ればいいみたいな感じの接し方だし、当時の厨房って入った瞬間に全てフランス語なんですよ。フランス語なんか教わってないし(笑)。何か物を取れって指示もフランス語で言われて、みんな動けない。そうすると「使えないな」って雰囲気。次の日に同じものを取れないやつはやっぱりいじめられていきます。だから後からちゃんと調べて、次の日同じものを取れって言われた時にパッと持ってくる奴はいじめられずに可愛がられるというか。1回言ってダメな奴はもう相手にしないので、その人は居心地が悪くなる。それで辞めていく。
大山:過酷すぎますね・・・。フランス語ってことは、シェフたちはフランス人なんですか?
伊藤さん:日本人です。でも用語は全部フランス語で言う。料理の名前もフランス語だし、オーダーを通すのもフランス語。
大山:それは苦労されましたね。それで一年後にNo.2のシェフについて行ったのが、代官山のレストランという訳ですね。
伊藤さん:そうです。メインダイニングにいた副料理長が代官山でお店を出したのでついて行かせてもらって。
大山:それが20歳くらいの時ですね。そこは長く働いたんですか?
伊藤さん:2年半ぐらいです。
大山:そこの現場はどんな感じでしたか?
伊藤さん:ホテルでは働いても10時間ぐらいだったのが、そこは朝行って終電まで。死ぬほど働いてましたけど楽しかったです。シェフに気に入っていただいてたんで、なんでも教わったし、なんでもやらせてもらえた。ランチメニューも考えていいって言われたり。でも料理を作った事がなかったんで、まかないを任せられるんですけど、当時はネットもないし、本の持ち込みもダメだったので、いつもおかんに電話して教えてもらってました(笑)。
大山:今となっては、その頃の経験値はデカそうですね。
伊藤さん:はい、そのシェフのおかげで今があります。
大山:その後にどうなっていくんですか?
伊藤さん:代官山のお店のオーナーと給料交渉でもめました(汗)。当時は親方制度みたいな感じでシェフがいくらってもらって、そのお金から部下にも給料を渡すシステムで。みんな頑張ってるからもっと報酬を増やしてほしいと交渉をしてたら、喧嘩になってみんな辞めていったんですよね。
大山:それは大変ですね。シェフごとってことですよね。
伊藤さん:昔はシェフが人(スタッフ)を持っていて箱で動いてたんです。だから箱ごと移動するんですけど、次が銀座だったんです。ただ、そのお店のオープンが2ヶ月半後。その間給料ないのは一人暮らしというのもあって厳しかったので、ここ(ピアンタ板橋駅前店)の1階がスタッフ募集をかけていたので、2ヶ月間働かせてもらうことになったんです。
大山:そういう運命なのですね。それでピアンタの門を叩く訳ですね。最初はバイトということですね。料理はしたんですか?
伊藤さん:代官山時代に相当シェフに教わってたので、ここでも色々やらせてもらいました。最初入った時ひどかったんですよ。今で売上が平均1100万円ぐらいなんですけど、当時300万円ぐらいしか売ってなかった。あまりにも暇で朝食をやったくらい。2ヶ月くらい経った頃、形もメニューも変わってリピーターも増えて、なんとなく店っぽくなってきました。そしたら当時いた人たちがどんどん去っていって、自分がやめられなくなっちゃった(笑)。それで、シェフに謝って「今、僕いなくなったら大変なんです」って。そしたらシェフが「そっちでできるようなら頑張ってみたら?うちはいつでもいいよ」って言ってもらいそこから26年、という訳です。
大山:その頃まだバイトなんですか?
伊藤さん:いつ社員になったのか覚えてないんですよね。1年後くらいかな。
大山:その時でピアンタは、何店舗あったんですか?
伊藤さん:ここだけです。運営会社がこの本社ビルを買った時に、せっかくビル買ったんだから娯楽でレストラン始めてみようってことで始まったのがピアンタです。でもノウハウがないから、コンサルタントと契約してそのコンサルタントが運営してたんです。僕が入ってから、その会社とは契約切ったんですけど、元々副店長がいてその人には残ってもらいました。その副店長(のちに店長)と僕で立て直していったんです。その副店長が、結構な金額のお金を横領して急にいなくなりました(笑)。
大山:やば(笑)。そんなこともあったんですね。ピアンタはその後どんなタイミングで、店舗を出していくんですか?
伊藤さん:その時はまだ旅行会社が直営でレストランを運営してました。2号店目を本郷に作るとなったタイミングで旅行会社の役員7人が2号店目に大反対、話し合いが並行戦で決まらなかった時に当時の専務が「だったら僕が個人でやる」と。それで専務が独立して、レストラン部門を買い取ったんです。そこからは二人三脚で、専務はお金周りの事をやって、僕がお店のコンセプトやメニューを作っていった感じですね。
大山:登場人物が整理されて、店舗を伸ばしていくわけですね。板橋中心に出していく戦略はあったんですか?
伊藤さん:僕が一人で2店舗見てたんですけど、次もう一店作るなら近い方がいいなとは思ってました。次に作ったのは仲宿で、ここから自転車で5分ほど。たまたま物件が近所で見つかったんです。
大山:展開していく目標みたいなのは、専務と話し合って決めて行ったんですか?
伊藤さん:いえ。23歳の時に90席ある2店舗目を作ったんです。人が足りないから調理師専門学校の頃一番仲良かった同級生に声をかけて、結果として彼が入ったことが良くて、途中で役員になったので、ピアンタの社長(当時の専務)とその彼と僕3人で店舗展開をしていきました。
ロード3

- ・専門学校時代同期とエリアを分けて店舗運営
- ・会社を買取り独立
- ・食事業態の強さ。コロナ禍でも利益体質
- ・今のメンバーで10店舗目指す。55歳で引退
大山:なるほど。コンセプトはファミリーだと思うんですけど、どういうふうに作っていったんですか?
伊藤さん:コンセプトはないですけど、周りからも「伊藤ちゃんらしい店だね」と言っていただき、自分がいいと思うサービスや料理、そういうものがお客様にも従業員にも受け入れてもらえて、自然と自分のチームが形になっていった感じです。新卒を取るときに冊子を作ったので、それを言語化しなきゃいけなくなり、自分の中でも明確になっていきました。ただ、その専門学校時代からの同期とは感性が違って、途中で意見が合わないことも多くなったので、エリアを分けてそれぞれの店を担当しました。僕はこの板橋北区エリアを見て、本郷は彼が担当しました。
大山:それは面白いですね。聞いた事ないですね、会社の中でエリアを分けて運営するというのは。
伊藤さん:そんな時、社長から「自分は引退するから、2人で有限会社ピアンタをやっていってほしい」という話があって。その話し合いで結局は2人で買い取る形にはなったんですけど、僕が3店舗、相方が4店舗を引き継いで実質独立っていう形になりました。ただ、当然銀行はついてくれないので、売上の中から社長に返済していきました。
大山:今は伊藤さんお一人で、株を持たれているんですか?
伊藤:そう、ピアンタカンパニーは100%僕の会社です
大山:コロナ禍では多分食事業態なので、そんなに居酒屋などに比べたらダメージが少なかったのではないかなって想像しますけど、どんな感じでしたか?
伊藤さん:利益は出ていましたね。アルコールがダメでも営業はできたんで。住宅立地なので震災にも強いかったです。3.11の時も、余震が続くからどこか外食するなら近所みたいな風潮がありました。コロナの時もその風潮で、馴染みのピアンタさんだったら感染対策ちゃんとしてくれてるだろうみたいな信頼があって、ありがたいことに売り上げは落ちなかったです。コロナ禍で2店増店(十条と王子)しました。コロナ中はやることがあんまりないから、動画回してレシピ集を作ったり、社内のこれから出店に耐えうる人事体制とか組織図を作って整えました。必要な人材を育てたら、相当優秀になりました。
大山:素晴らしいですね。今後の増店は目指していくような感じですか?
伊藤:したいんですけど、そんなに焦ってないですね。店舗数の目標はそんなになくて、人が育って余ってるから、もう一店舗作らないと活躍の場がないよね、みたいな感じで伸ばしていければいいのかなって。僕、実質26年やってるんですけど、ずっとそんな感じでお店を増やしてきたので、それはそれでいいかなと。
大山:マイペースということですね。伊藤さんの性格を、よく表している気がしますね。
伊藤さん:うちは圧倒的に美味しいと今でも思ってるし、スタッフは料理人ばっかりです。新卒採用がこの規模でも去年7人、今年5人で来年も4人内定が決まっていて、店舗数少ないのに相当社員数は多いんですけど、それだけ料理に妥協してない。全員専門学校から入ってるので料理人集団でやっている。セントラルキッチンも置くつもりもないし、もっと美味しくできないかなって想いを持った人が中にいないと、感動が生まれないと思っていて。そこが店舗が増えない理由と、味を落として店を増やしても誰も楽しくないっていうのが根底にあるんですよね。10店舗まではこのメンバーでできるだろうと、それが終わったらあとは後任に託して引退も考えてます。横展開のFCなのか海外なのかわかんないですけど、もしそういう企業と組めて、横展開のFCなのか海外のかわかんないですけど、もしそういう企業と組めて、新たなことをするのもありかもしれませんね。
大山:実直で素晴らしいです。地域密着レストランのあるべき姿のですね。ありがとうございました!
編集後記
料理人がバイトから叩きが上げで社長になった、というこれまでお会いしたことのない経歴を持つ伊藤さん。野球の優等生だった少年がプロになれないと挫折をし、その後料理の世界に入って実直にお客様と向き合い社長になるという青春マンガのような伊藤さんの人生。ブレない一本筋の通った強さをとても感じました。これからも地域に愛されるレストランを仲間の皆さんと一緒に作り続けてもらいたいと思います。(聞き手:大山 正)
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