スペシャル企画

クロスロード〜外食経営者のルーツと転機〜 vol.10/株式会社エレガントレース 代表取締役 張 瀟俊(ちょう しょうしゅん)氏

この企画は外食経営者の「クロスロード」、すなわち人生の転機となった出来事や自身のルーツについて、ライフチャートを経営者自ら描いて頂き、それに沿ってこれまでの人生を深掘りしていくインタビュー企画となっています。

第10回目は、「“食べること”で日々を愉しむ」を掲げ、東京・新宿から各地へ展開をする株式会社エレガントレース 代表取締役 張 瀟俊(ちょう しょうしゅん)さんです。上海で生を受け、親の仕事で中学一年生の時に日本へ。学生時代のさまざまなアルバイトを通じて飲食業に出会い、23歳で独立。八王子や本厚木、町田等のローカルエリア展開、コロナ禍での逆張り戦略、ヒット業態「鳥居くぐり」の誕生秘話、今後の展開や目標について語ってもらいました。


ロード1

  • ・家族親戚に恵まれた上海時代
  • ・父の仕事で中一で日本へ
  • ・ゲームを通じて友達を増やす
  • ・バイトを始める高校時代

大山: 張さんは中国出身という事で、中国のどこで生まれ育ったんですか?

張さん:中国の上海という都市で、うちはどっちかというとそこまで裕福まではいかないですけど、平均よりちょっと上かなっていうくらいの家庭だったかなと思います。

中国は基本一人っ子政策で、もちろん自分も兄弟がいなくて、ただ親戚が結構多いんで可愛がられていて、お小遣いも他の子供より多分多くて自分の好きな物を買いに行ける。当時は、駄菓子屋的な、日本で言うコンビニみたいな店が家の近くにあって、よく行くんで覚えられたし、あの頃は日本の昭和時代みたいな感じで近所はみんな知ってて仲がいい。だから6歳か7歳くらいの時から一人でお使いに行って、そのついでに自分のお菓子を買う。まあそんな経験もあって、金銭感覚は小さい時からあったように思います。当時の印象(思い出)が結構あって、人生の中での幸福度・満足度は高い方かと思います。

 

大山:家族・親戚に恵まれて、健やかに育つということですね。何か運動とかしてたんですか?

張さん:小さい頃から卓球が好きで、自分で言うのもなんですけど運動神経は悪くないです(笑)。ただ、チーム戦はあんまり好きじゃなくて・・。中国って、人口が多いじゃないですか。小学校1クラス40〜50人とかが7クラスあったり。で、体育でバスケをやるとなると、本来バスケは5:5のスポーツなのに20:20みたいな、そんな感じになるんです(笑)。ボールは1つなので、バスケをすると言うよりも、ボールを競い合って奪うゲームみたいになるんです(笑)。

爽やかで真面目な語り口の代表の張さん。上海時代から日本での学生時代、独立秘話から今後の会社の成長について語っていただきました。

 

大山:おもしろぎますね、それはそれで(爆)。違うスポーツになっちゃうという(笑)。

張さん:自分はあぁいうのが好きじゃなくて(笑)。でも卓球は一人でできるし、中国は卓球台が結構あるので。家族も卓球ができたから小学校の時でもある程度のレベルまでは上達してたので、友達とやるより先生とやった方が楽しかったです。

卓球選手になろうかなと思った時もあって、ちょうどお父さんの知り合いに卓球チームの知り合いみたいな人がいて、その人に口を聞いてもらったんですけど、「小学校からやり始めるのはもう遅い」と言われて・・・日本でいう卓球の愛ちゃんも幼稚園からやってましたしね。

 

大山:そうなんですね、中国は卓球大国ですもんね。クラスの中ではどんなキャラでしたか?

張さん:お小遣いをもらってたので、たかられるというか(笑)。たかられると言ったらおかしいですけど、みんなでゲーセンに行ったり、たまに奢ってあげたりもしたので、友達は結構いた方かなと。

 

大山:シンプルに性格がいいんですね。いい人キャラで、人が集まるって感じですね!

張さん:いい人キャラというか、ちょっと威張りたいというか(笑)。

 

大山:世話好きとかそういう感じなんでしょうかね。

張さん:世話好きではないですね。お節介ではありますけど、中国人の特性なのか、ちょっとヤジウマ的な、あんまり見ない光景や普段起こらないような事に興味を持つような性格ですね。好奇心が旺盛かもしれないです。

 

大山:それで日本に来たのが、中学生の時ですか?

張さん:中1です。お父さんは中華料理の職人でうちのお父さん方のおじいちゃんも中華をやってて、色んなお店やホテルから「手伝って欲しい」と声がかかり、中国の中でも転々としましたし、海外にも行っていました。お母さんも仕事をしていたので、小学校の時はおじいちゃんとおばあちゃんの家に住んでたんです。小学校5年生くらいの時にお父さんが上海に帰ってきたので1〜2年両親と一緒に住んで、その後お父さんは日本に行きました。

 

大山:そうなんですね、仕事で日本に行かれたのですか?

張さん:そうです。日本に知り合いがいて何度か誘われてたので1回来て、その後お店をやるっていう話しになりました。

2013年の夏に小学校6年生(※中国では小6年生から中学生)が終わって、13歳の時日本に来て日本の中学1年生に入りました。そこから幸福度が落ちました。やっぱり今までの友達や中国の親戚たちから離れたので、最初は寂しさがありました。でも徐々に友達もできたり、中2くらいから日本語がある程度聞き取れるようになって、少し話せるようにもなって、そこから高校受験の為の塾に通い始め、更に友達ができました。

 

大山:日本に来た時は日本語も喋れなくて苦労されたと思いますが、どんな感じでしたか?

張さん:元々好奇心旺盛だったというのもあるし、当時の中国は日本製の電化製品をよく使っていました。ゲームが好きで、小学校で唯一自分だけゲームボーイを持ってました。当時のゲームは全部日本のだったので、本場に来たというか。ビックカメラ(当時のさくらや)に連れて行ってもらって、中国ではすごく高いMDプレイヤーを買ってもらったりして、そういう面ではよかったなって思います。

 

大山:ゲームを通じて、友達と仲良くなっていくというような感じですか?

張さん:それもあります。塾が終わったら、塾の近くに住んでる友達の家に行って、NARUTOや対戦するゲームをして盛り上がっていました。

 

大山:中学のときは部活はやっていましたか?

張さん:卓球部に入ったんですけど、思ったより周りが全然できなくて(笑)。そもそもラリーができなくて、楽しくないんですよ。同じ体育館でバスケ部が練習してるのを見て、日本だったら適正人数(笑)でやってるし、この環境ならバスケはアリだなと思ってバスケ部に入りました。

でもバスケ部に入ったらバスケができると思っていたら、実際は上の学年が練習や試合をするのを中1の自分は横で見てるだけ(笑)。だったらバスケ部入った意味ないなと思って。

 

大山:1年生は玉拾いとかそういうのありますからね、日本には。。

張さん:中国には部活というものはないので、日本のそういうしきたりみたいなのがわからなかったんですよね。そこでテニス部に入ったんです。お父さんにラケットを買ってもらって、でも部活に行ったら、自分のラケットだけなんか大きくて、他のみんなは小さいラケットを使ってるですよ。「なんで?」って思ったら、日本の中学は軟式だったんですよね(笑)。中国には軟式テニスがないので知りませんでした。そしたら一人だけ浮いてしまって。それでまたバスケ部に戻りました。

 

大山:それもおもしろすぎますね(笑)。1人だけガチの硬式のラケット(爆)。勉強はどうでしたか?好きでした?

張さん:数学と英語は、中国の方が日本よりちょっと進んでたので基本的に得意でした。逆に、国語や社会、文系が若干弱かったですが、日本で持ち家に住んでるわけでもなかったので両親の負担を減らしたくて高校は確実に受かる都立高校に進学しました。高校もバスケ部に入って、その後大学受験に向かいます。理数系が得意だったので、少しレベルの高いところを意識して頑張ったけど、結果浪人しました。でも今思うとその浪人時代は色んな経験ができましたね。

 

大山:そうなのですね。どういった経験ですか?

張さん:高校時代のアルバイト先は、ラーメン屋、居酒屋、コンビニをしていて。コンビニは一番楽で、浪人時代は深夜もやりました。そこでできたバイト仲間は基本年上で、フリーターの方だったり。色んなところに連れて行ってもらいました。人生初のCLUBとか。社会経験もさせてもらって有意義な時間で成長となる部分かなと思います。

ただ、最終的に浪人しても第一志望には受からなかったので、もう浪人は人生の時間の無駄になると思ってやめて、とりあえず入れる所に入ろうと。大学に入るのはお父さんに言われていた事で、大学に入る=中国では「ステータス」になるので中国の親戚たちには自慢になる。それで拓殖大学のコミュニケーションデザイン学科に入りました。大学時代は勉強というより、アルバイトの方が頑張ってましたかね。

 

ロード2

  • ・大学で一人暮らし、自立
  • ・新宿の居酒屋でアルバイト
  • ・23歳で業務委託で独立
  • ・マーケティングが奏功し繁盛

大山:大学でのアルバイトは何をしてましたか?

張さん:家の近くのコンビニをずっとやってたんですけど、店長が若くていい人で。色々教えてくれるし面倒も見てくれた。例えば、コンビニの陳列で、なんでこれがここに置いてあるかとか。そういう雑学みたいなのは好きで「あ〜なるほど!」っていう会話ができたり、仕組みやマーケティング、ちゃんとした勉強ではないですけど教えてもらった。でもその店長が退職しちゃったんですよね。次に入ってきた店長が全然ダメで(笑)。そのコンビニ「サンクス」っていうんんですけど、サンクス今もうないじゃないですか(笑)。優秀な人がいなくなって「それだけでこんなに違うんだな〜」と、その時に実感したんですよね。

 

大山:大学時代から、しっかり働いていて偉いですね。

張さん:あとは大学時代は、ある程度時間があるので、やった事ない事をやってみようと思って、お父さんが各所で店をやっていたので、その知り合いのスナックで働いたり、キャバクラとか、色んなのをやりました。ただ、最終的に学業も必要というか単位を取らなきゃいけない。そこに関しては小さい頃からお父さんに教わった『責任感』という部分で、やるべき事の優先順位はしっかり決めておかないといけない。大学を卒業する為に一番優先するのは単位を取らないといけない。でも夜の仕事だと翌朝起きれなかったりするので辞めて、新宿の居酒屋でバイトを始めました。

 

大山:ここで飲食業と出会うわけですね!

張さん:大学の2年間くらいやってたので、慣れていって社員くらいの仕事まで任せられたりとか。自分は当時高尾の家賃3万7千円のアパートで一人暮らしをしていて、あまり実家には頼らず独立したかったので、寝る間を惜しんでバイトしたり。学業も両立させないといけなかったけど、大学3年生からは学費も自分で払っていました。

 

大山:素晴らしいですね。それは自分で決めた事なんですか?お父さんは「いいよ」って感じはなかったんですか?

張さん:自分は浪人もしたので、その時塾とかにも相当お金を使ってもらったというのもあるし、結果的に第一志望は受からなかったというのもあるので。その頃タバコを吸い始めたんですけど、お父さんは「俺のお金でタバコを吸うんじゃねぇ」みたいな感じだったので(笑)、だったら自分で買うよって、その時から自分で稼いだお金は自由に使ってました。自分のことは自分の稼いだお金でという意識はありましたね。

 

大山:20歳くらいである種、自立するような考えを持つんですね。

張さん:高校の頃、当時Appleの初代のi-podが欲しくてお父さんに言ったら「欲しかったら自分でアルバイトして買えばいいじゃん」て言われたんですよ。だから、お願いするよりも自分で動いたほうが早いなと思って。高校1年生か2年生くらいの夏休みに1ヶ月くらい皿洗いのバイトをして5〜6万くらい稼いでそれでiPodがちょうど買える。やっぱり自分で働いたお金で欲しい物が買えるっていう達成感。それを得たのがすごく良かったと思います。

 

大山:成功体験ですね。それが独立しよう、会社を作ろうという事に繋がっていますか?

張さん:そうですね、お父さんも社長だし、親戚も何人か会社を経営してましたし。大学3年生の時に回りはみんな就職活動を始めるんですけど、その頃自分はバイトしてたので、稼いでたお金が初任給とそんな変わらないんですよ。このままどこかに就職しても、今まで見てきた、お金を持ってる人達のようになるのは無理なんじゃないかと思ったんですよ。

人生一回しかないし「そこら辺の会社に就職したら人生終わったも同然だなぁ」と思って、就活をそもそもしませんでした。

 

大山:それもまたすごい。そもそも就活をしてないのですね。

張さん:みんなが就活やってる時間に自分は大学卒業を優先する。それにプラス、アルバイト先から何か得られると思ったんです。結構仕事を任せられてたので、自分でも経営できるんじゃないかと思ったんですね。

大学を卒業してバイト先のオーナーに「毎月これくらいの額を払うから、業務委託でやらせてもらえないか」と相談したらオッケーだったんです。それが自分の中でのビジネスの始まりですね。22〜23歳の時です。

 

大山:若くしてすごいですね。ちなみに場所はどこでどんなお店ですか?

張さん:新宿の和食居酒屋、元々は中華だったと思うんですけど。当時は、金の蔵や三光マーケティングフーズがやってる東方見聞録みたいな居酒屋が盛んな時期で、飲み放題をやってればお客さんが来る!っていう時代ですね。金土になるとどこも空いてないような時代だったんです。なので、新宿っていう立地であれば集客はそんなに難しくなかったです。

 

大山:あとは呼び込みやグルメ媒体とかですかね。

張さん:そうですね。基本お店の中にいて、暇な時にお店の下に行って呼び込みはやってました。それである程度の売り上げが作れた。ぐるなびもやってましたし、ちょうど携帯がiPhoneになったのでインターネットができるようになり、ホットペッパーが出てきて、営業の人が来て導入すると、すごい予約が入るんですよ。電話よりもインターネットで予約する、これからはもうインターネットの時代だなと気付きました。その時からSEOとかMEOとか、今は当たり前になりましたけど、当時はまだ普及していなかったので、いかに自分のお店をインターネット上で露出できるかを勉強しました。それがある程度はうまくいきました。感性の部分ですよね。

 

大山:時期としては2010年〜2012年とかくらいですかね。

張さん:それくらいだったと思います。肉寿司も他のお店から流行り始めてて、実際食べに行くとみんな美味しそうな写真を撮ってたんです。「これだ〜!」と思って、自分の店でも肉寿司を始めたんですけど、インターネットには肉寿司の写真をうちのメイン商品みたいに出したら、すごい効果があって更に集客ができました。

 

大山:マーケティングですね。

張さん:はい、そして肉バルを始めました。ですが肉寿司はどこの店でも当たり前になっていって、集客が分散されていく。そこで目をつけたのが牛タン。牛タンしゃぶしゃぶの美味しいお店があると聞き行ってみたらすごく繁盛していて、調べたら新宿には牛タンしゃぶしゃぶがなかったので、当時夏でしたが始めました。そうしたら夏なのに、アツアツの牛タンのしゃぶしゃぶが売れて、売り上げが上がって。自分も現場に入っていたので、その時の自分の嗅覚はすごかったです。

 

大山:その「嗅覚」の部分が、張さんは得意なのでしょうね。

張さん:マーケティングの部分は感性として備わってるのかもしれませんね。でもそれがずっと上手くいくわけじゃない。流行のもの物は広まるのも早いですから。だから25歳でグラフが落ちているんですが。

 

大山:この22歳〜25歳くらいで店舗数はどのくらい出したんですか?

張さん:25歳までは2店舗(業務委託店と新しく出した店)かな、2019年に3、4店舗目で八王子と本厚木に店を出しました。

 

大山:すごいですね、2〜3年で2店舗。最初から展開しようというのは決めてたんですか?

張さん:目標は10店舗はやりたいなというのがあった。1回落ちたところから頑張って復活し始めたので、「努力は報われる、裏切らない」って言葉と同じで、かなり頑張ったんですね。25歳からはその頑張りが自分に返ってきて軌道に乗った感じがするんです。でも今と当時は訳が違うんですよ。今は金土曜日だから満席というのが当たり前じゃない、いい物やらないと来てくれない時代になってきたので、やり方が違うし、(メニューや業態などを)更新していかなければいけない。常に1個だけを極めるっていうのもアリかもしれないけど、それは相当の技術力と労力が必要なので。日本ではもう10年以上やってるチェーン店もあまりないんじゃないですか。

 

大山:トレンドを追ってしまうとキツくなりますよね。

張さん:うちが今やってる事というと、商品力はそうなんですけど、どちらかというとコンセプトをしっかり決めてやらなきゃいけないなと。じゃあ100年やれって言われたら、そこまで自信はないですけど。

 

ロード3

  • ・八王子や厚木と広域を攻める
  • ・コロナ禍、町田で140坪契約
  • ・「鳥居くぐり」が大ヒット
  • ・年商100億円を目指す

大山:2019年までで3店舗。それから2020年はコロナ禍に突入ですけど、当時はどんな感じでしたか?

張さん: コロナ直前の2019年に八王子と本厚木に店を出したんです。理由は、新宿は坪単で換算したら大体3〜4万になるんですけど、初めて八王子に行った時に坪を計算したら@7,000円とか、それくらいだったんですよね。当時、知り合いの知り合いが27坪くらいの小さな店をやっていて、買手を探してたんです。家賃が確か月30万くらいの。新宿の業務委託の店なんて家賃200万+オーナーにお金渡してたんで、それから比較するとね、「これアリなんじゃない!?」って思うじゃないですか。

 

大山:このインタビューでも何名かいわゆる「業務委託」という形で独立されている経営者さんがいますが、またオーナーさんへの手数料も安くはないですものね。

張さん:そうなんです、それで本厚木を決めた理由は、当時のグルメサイトの仲良かった担当さんが本厚木も担当していて「本厚木いいですよ、穴場ですよ」って教えてくれて。知る人ぞ知る情報って感じで物件を探しました。駅の近くで家賃もまあ新宿と比較したら安かったので、自分の感覚で決めました。

最初は悪くもなかったけど、平日が悪い時は一桁台の売り上げの時もあれば、いい時もあって、金・土曜日は売れるから利益は出てました。ただ、自宅が新宿周辺だったので八王子と本厚木を管理するのが難しくなってきたのを感じて、これは会社を大きくしていく為には管理ができるシステムを構築していかないといけないと気付きました。

 

大山:店舗を展開したいとなった際に、皆さん一度は通る「管理できる範囲の壁」というところですね。

張さん:そうなんです。それでコロナの時期は、八王子と本厚木は家賃が安かったし、補助金も出たので最初の1年目は基本無利子で銀行から誰でもお金を借りられたじゃないですか。それで借りて、経営に関してはなんとか耐えました。

次に、大和に店を出したんですけど、コロナの時にすごく焼肉が良かったじゃないですか。ずっと居酒屋でやってきたけど、焼肉が好きで、やっぱり焼肉屋もやりたいなと思ったんですよ。それで大和で家賃の安い物件が出て、焼肉を試してみたいと思いました。

 

大山:コロナ禍は、焼肉増えましたもんね。蛇口系のお店ですか?

張さん:そうです。そこで思ったのが、焼肉もクオリティを良くしてサーバーもあればもっといい店が作れるんじゃないかと思った。それを大和で試したんです。ただ、初めてやる業態で、いい肉を仕入れたとしても、味付けだったり、美味しいは美味しいですけど、結局原価のコントロールができなくて、利益を残せない。そこはやっぱり焼肉をやった事ない分、経験の差かなと。コロナで肉の値段も高騰してしまって、焼肉屋は大和で一旦終わりました。

 

大山:そうなんですね。焼肉は原価コントロールが確かに難しいですよね。

張さん:それで次に、知り合いについて行って町田の物件をついでに見た時、うちの運営してる業態ならすぐにでも入って営業できるような、140坪の居抜きの内装があって。140坪って結構デカ箱で、その時期は誰もやろうと思わない。でも140坪のところにダメ元で170万の家賃の希望を出したんです(笑)。

 

大山:でかい(笑)!それで借りたんですか?

張さん:全然借りるつもりなくて170万で希望出したのに通ってしまって、逆にこれで借りなかったら悪いなと思って(汗)。うちの他の店は30〜40坪で、ここは140坪あるんで、だったら肉バルと居酒屋と焼肉を入れれば、1店舗80席くらい作れて3店舗なら240席、横丁みたいな感じになるなと。1店舗で月300〜400万売り上げを作ればこの家賃なら賄えるし、居抜きでキッチンがそのまま使えてフロアもコロナ前に内装をし終わったばかりだったんでいけるかな、と。これを一から作ったら5000〜6000万円かかるところを、ほぼタダ同然でもらうような形だったので、これはコロナだから起きた奇跡だ!勝負時かなと思って借りたんです。

 

大山:すごいっすね、このレンガロと町田屋が今1つのフロアでやってると。160席と60席。

赤レンガ個室ビストロ RENGARO

張さん:元々もう1店舗、大和と同じ焼肉屋があったんです。でも肉が高騰したりオペレーションや色んな要因で焼肉を潰してレンガロの拡大に使ったんです。それが2022年ですかね。

 

大山:なるほどです。それでいきなりお店は絶好調でしたか?

張さん:最初は絶好調とまではいかなかったですけど、今は普段は売り上げが1800〜2000万円いかない程度で、年末で大体3000万円売れる。売り上げ規模は年間通して2億くらいは上がるんで、人材も獲得できるので悪くないかなと思います。

 

大山:すごいですね。そこから今の看板ブランドである「鳥居くぐり」はいつ誕生するのですか?

張さん:池袋が最初なんですが、元々池袋店はレンガロを出そうと思ってたんですけど、レンガロは若者・女性のインスタ映えに力を入れていたので、そうじゃなくてもっと長く続くようなお店をやりたいなと思ったんです。レンガロもリピーター多いので全然長くできる業態なんですけど、居酒屋として普段から使えるような業態の方がいいんじゃないかなと思って。当時新宿にお通し500円でおでん食べ放題の店があって繁盛してたんですよね。そこをベンチマークして、料理が美味しくて、内装やコンセプトがある、500円のおでん食べ放題もあって、武器が何本もあるような形なら、ここまでの要素を入れて負けることないでしょうと思いました。

同社の看板ブランド「鳥居くぐり」は現在3店舗展開。池袋店は食べログHOTレストラン2025に選出されるなど絶好調。

 

大山:これまでやってきたことへの自信とマーケティングが重なってできた業態なのですね。コロナ中にチャンスを掴んで展開をしていくことになるわけですけど、人材の部分で大変な事はなかったですか?辞めた人が多かったとか。

張さん:逆にコロナの時は他の飲食店を辞める人が多かったので、募集をかけるとバンバン来るんですよ。なので逆にその時期にもっと店舗を出せば良かったかなと思ってます。でも町田だけでも出したから、そこまで悔いはないです。コロナの時一切動いてなかったとしたら、単純に悔いしか残らないです。

 

大山:まさに逆張り、攻めのコロナ禍だったわけですね。現在、何店舗ですか?

張さん:8店舗です。コロナが終わってから八王子をたたんで、中目黒にも1店舗あったんですけどリサーチ不足で2年くらいでたたみました。八王子は、店も小さいし会社にとって売り上げも大した事ない、しかも遠くて手間になる、だったら都内に集中したいなというのがあって、店を譲りました。

 

大山:選択と集中ですね。今後の展望展開としては、会社をどういう風にしていきたいですか?

張さん:ざっくり言うと年商100億目指していこうところですね。じゃあ100億になる為の逆算は、今現状は今期で13〜14億くらいなので、次のステップで30億円を目指して、次50億を達成する。50億に乗ると100億へ行くような状態になると思うんですね。

例えば会社が1億の時は、1店舗の売り上げが1億〜1.5億くらいだったと思うんですけど、その時はまだ管理ができてない状態で、4店舗くらいになってくると管理が必要になる。更に店が増えると、チームワークも必要だけど管理のためのシステムが必要になる。自分は就職した事がないので、本来の会社の仕組みや動き方、組織も経験したことがない。だからそこは実践しながら勉強しながら、社員に手伝ってもらいながら今進んでる状態です。今はそれぞれの規模に応じた必要な事をどんどん構築していく段階になっていますね。

 

大山:今後伸ばしていく業種・業態など、考えてるものとかありますか?

張さん:「鳥居くぐり」を来年FC展開する予定があるので、準備してます。「鳥居くぐり」に次ぐブランドも今考えてる最中です。今までは自分たちのやりたい店を単純にやってきたんですけど、今はコンサルティングとかFC塾に行って、FC展開するために何をすればいいのかとか、マーケットインという考えを教えていただいたり。

やっぱり商売じゃないですか。 どういう需要があって、店舗展開ができるかどうか、みたいないろんな要素を分析できるようになりまして。 今の日本は、経済があんまり良くない。 景気は良くないから、どんどん安い店に行くっていう習性になってるっていうのが今の主流になってる。 だからと言って、じゃあお金を持ってないかって言うと、お金持ってる人はすごくお金がある。 高級店もすごい入ってる。結構両極端になっている状態ですよね。なので、次に出す店は単価を低め(リーズナブル)にして、内容も身近な物。コンセプトは言えないですけど(笑)、もちろん考えがあって。

 

大山:大衆酒場みたいな感じですかね。

張さん:ただの大衆酒場とはちょっと違いますけど、エンターテインメント要素を入れたいというのはあります。それから今までは大箱で居酒屋をやってましたけど、質の高い凝った感じの高単価な店をやってみたいなというのがあって、ミシュランで修行した焼鳥の職人がいるので、焼き鳥屋を内装してる段階です。それがいずれミシュランとか取れれば、会社のブランド力にもなりますし。

 

大山:海外展開などは考えてますか?

張さん:日本でまずうまくいかないと、上海にしろどこにしろ説得力がない。そのきっかけで1個の業態をFC展開したいなという想いがあるんですけど、日本で海外展開に選任できるような店を作ってから、挑戦できればいいかなと思っています。最後に、グラフが上がってるじゃないですか、30歳で息子が生まれたんです。お父さんになったというのもあって責任感が増して幸福度が上がってるということになりますね。なので、子供のためにも社員たちのためにもこれから更に加速していきたいなと思っています。

 

大山:ありがとうございました!

 

編集後記

礼儀正しく好青年といった印象の張さんです。幼少期・少年期から自立・独立した考えがあり、若くして創業。苦労も多くされたかと思いますがインタビュー中、そんな様子は一切見せず常に前を向いている姿勢が印象的でした。「この人は芯が強い」まさにそんなふうに思いました。これからも挑戦し続ける張さんと同社を応援していきたいと思います!(聞き手:大山 正)

 

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