お話を伺った和食・鮨の実力の一方、気さくな人柄で人気を集める店主の望月 将さん
大山:望月さんが飲食を志したのは、おいくつぐらいですか?私、鮨職人さんにインタビューするのが初めてで、とても興味があって(笑)。
望月さん:なんとなくっていう感じですけど、小学校の時3、4年生ぐらいだと思うですけどね。両親が共働きで、そこで料理を手伝うところから始めて。食材を見てなんとなく、料理をし始めるというか。職業として意識したのは、中学校くらいですね。勉強はできなかったわけではないのですが「これを突き詰めて行っても、何になるのかな?」と思って。しかもたまたま公立の学校なんですが、勉強がブームみたいになっている学校でみんなめちゃめちゃ頭いいんですよ。頑張っても自分は、中位にしかなれないって感じで。中学校の時って、相対評価じゃないですか?だからどう頑張っても5は取れない、頑張っても3か4で。それで馬鹿馬鹿しいなと思って(笑)。
大山:考え方がおもしろいですね。芽生えが早かったわけですね(笑)。
望月さん:えぇ(笑)。だって結局点数としては取れてるのに、評価としてはつけられないっていう…なんかそういう世界で生きるのは嫌だなって。 そういうのもあって料理を作っている時は楽しかったですし、その方が評価ってちゃんと出ますし、好きなことだからやる気になるんじゃないかなって思って。
大山:すごいですね。中学で、もうすでに料理人を目指すことを決めるんですね。
望月さん:達観してたんでね(笑)。僕ひねくれ者なのでね(笑)。
大山:それで高校は行かずに、修行に入るんですか?
望月さん:いえ、高校は行きました。調理科のある農業高校で。まぁ今思えば、本当にままごとみたいな感じでしたけど(笑)。食品調理科に進むんです。かといって、調理師免許を取れるとかではないので。
それでもっと専門的な学校で幅広く学びたいなということで服部料理専門学校に入学して、1年目は和洋中、製菓と全部やるんで、その中でフレンチ・イタリアン専攻で入学はして学んでいくうちに、自分的に「ちょっと違うかな」と思って。感覚的なところなんですけどね。良く言うんですが、足し算の料理よりもより洗練されていて簡潔な「寿司」ってところにたどり着くんですよね。もちろん長期的な目で見て自分が年配になった時に、イタリアンやフレンチはできないなって。そんな長期的な目で見て、和食か寿司かとなったときに自分が寿司が好きだったので、寿司職人を志したって感じですね。
大山:それで卒業されて「銀座九兵衛」さんに行かれるのですか?
望月さん:2年目で和食を専攻して、1ヶ月の現場実習が「銀座九兵衛」でお世話になって、そこでバイト募集していたのでアルバイトで入って、それでそのまま就職したって感じですね。
大山:そうなんですね。それで昔の職人さんのイメージって、めっちゃ厳しいみたいなイメージがあるんですけど、実際職場はどんな感じでしたか?
望月さん:厳しかった(辛かった)のは、多分僕らが最後の世代くらいじゃないですかね。僕ら以降は、ほぼないと思いますね。イメージされている職人の世界といった感じなのは。仮に下に聞かせられないのって、自分の責任じゃないですか。自分の能力不足を棚に上げてってのは僕はダサいと思って、だから僕より下にはそういうことはさせませんでしたよね。ダメ、って。
大山:「銀座 久兵衛」には、全部でどれくらいいらっしゃって、いつくらいから握ってたんですか?
望月さん:合計で12年いました。宴会場に出す桶盛りだとか、そこで握ったりっていうのがあるので、3年目の終わりぐらいから握らせてもらっていましたね。それでカウンターのお客さんにお金いただいてっていうのが、9年目とかで割と遅いですね。「銀座 久兵衛」の中では早い方だと思んうですけどね。それで11年目に銀座の本店に移動になって、割とすぐランチはほぼレギュラー握らせてもあって、夜も3日に一回は握っていたって感じですね。
大山:お寿司職人さんの「握り何年」って議論になりますが、やっぱりそれだけ時間ってかかるものなんですか?
望月さん:お店のスタイルなので、「銀座 久兵衛」ではそういうやり方って感じだと思います。自分はそういう流れを経験しているからこそ、短縮できるとこだったり、同時進行でできることもあるって考えがつくので、修行というのが全くもって無駄だとは思わないし、なんでもかんでも早くやればいいってもんでもないっていうのもありますしね。
大山:なるほどですね。下積みが13年ということになるわけですが、その間に自分のお店を持ちたいなとか他のお店で勉強してみようかなというのはなかったのですか?
望月さん:「銀座九兵衛」にいる間に独立しようと思ったことはないです。当時はサラリーマン気質でしたし、ちゃんとした会社なんでしっかり給料も出るし、休みも取れますし、環境としては悪くないので。ただ12年目で最後の1年間異動したっていうのが転機になったのかなとは思います。
大山:それはどういった事なんですか!?
望月さん:結局どこの店舗にいてもやってること同じだなって、ふと思ってしまったんですよね。それで長い目で見て「あと30年これやるんだ‥」って。
大山:ふと冷静に、考えちゃったんですね。
望月さん:はい、それだとちょっとこれは面白くないなって。会社も好きでしたし、自分がお世話になった二代目もカリスマ性があって、ほんとお世話になったんですけどね。そんなことがあって「じゃちょっと外のお店も見てみるか」ってことで飲食専門の転職会社さんに相談して、その後株式会社MUGENさんにお世話になるわけですね。
大山:MUGENさんの印象はどうでしたか?
望月さん:それで面接してもらったタイミングで、若手中心で握る寿司屋を考えてるっていうふうに言ってもらえて入社したって感じですね。
大山:では「おにかい」が、割烹からお寿司になるタイミングで入られたという感じですか?
望月さん:本当そんな感じです。もう入って2ヶ月とかで「おにかい」で握らせてもらってたので。
大山:当時お2人で握っていましたよね。そのとき私は、望月さんのお寿司をいただいているんですよね。
望月さん:はい、僕ともう1人の坂本という今、野毛にいますがダブル大将みたいな感じでやらせてもらっていました。
大山:「鮨おにかい」はすぐにうまく行った感じがあるのですが実際はどんな感じでしたか?
望月さん:うまく行ったときか、もうそれは(内山)社長の先を見る目がやっぱりすごくて、すべてが先駆けだったと思います。
SNS戦略もそうですし、若手育成の文脈で、比較的安価に満足度の高い寿司を提供するという。本当に先駆けですよね。
大山:おまかせ握りが1万円台というのが、当時斬新でしたよね。
望月さん:いまだに考えられないですよね(笑)。すごいなと。1.3万円くらいの客単価で2回転フル満席。クレイジーですよ。あり得ないですよね(笑)。
大山:ランチとかもやられていましたよね。
望月さん:はい、土日やっていてずっと出ずっぱりでしたね。でもその分結果が出ていたので、その辺りをちゃんと評価していただいて、どんどん給料上げてもらっていましたね。
大山:それでMUGENさんには何年ほどいらっしゃったんですか?
望月さん:ほぼちょうど2年です。 辞める時は、コロナの真っ只中でしたね。
大山:辞めたきっかけというのは、独立に向けてですか?
望月さん:いろんなノウハウと言いますか、「銀座 久兵衛」では教えてもらえなかったり、得ることのなかった知識がどんどん入ってきて、やっぱり面白くなりましたよね。「あぁこういう世界があるんだ」って。今まで本当に、漠然とやれと言われたことをやってきた感じでしたけど。それで「このノウハウを手に入れたら、自分でやっても楽しそうだな」と思い始めたんですよね。で、そのタイミングでちょうどお話をもらって、出店に向けて動き出すという感じですね。それでここがオープンしたのが2021年の10月です。
大山:オープンしてみて、最初はどうだったのですか?寿司業態は、コロナ禍も悪くなかった印象ではあるのですが。
望月さん:そうですね、寿司は新規出店も多かったですし、業態変更も多かったですね。今はそういったお店は減ってきているのかもしれませんが。ただそんなに(コロナの)影響はなかったかもですね。でもそれは既存のお店の売り上げが落ちなかったというだけで、やっぱり新規のお店がオープンしましたとなっても、そもそもそれを大体的に宣伝できるような空気感ではなかったので、しれっとやっていた感じでしたので最初の頃は1日1組とかそんな感じでしたが、でもそれは割り切っていました。
別にもうそんないきなり(席が)埋まるはずもないし、今来てくれるお客さんを大事にすればいずれコロナが終わったあと、自然に広がっていいくだろうと。だから、ちゃんとやるべきことやっていいものを出そうと、そういうふうに思っていましたね。
大山:それからちゃんとお店っぽくなってきたというのは、いつくらいなんですか?
望月さん:そんな感じでコロナ中に営業していた中で、お客さんがついてきたなぐらいの時に、単価を1万5000円まで下げたんですね。その時は満席でしたね。今、考えても信じられないぐらい。そこで認知してもらって今でも通ってくださるお客さんがいるって感じですね。
大山:それはまさに中目黒で学んだノウハウを、発揮されたという感じですね。ズバリ、独立されてよかったと思いますか?
望月さん:よかったと思います。はい、それはもう間違いなく。もちろん試行錯誤もありますし、不安に思ったりとか沈む時っていうのも多少はありますけど、基本ベースでやりたくてやってることですし、やりたいこともやれてるので。 その中で常連さんがついてくれて、ミシュランにも載っけてもらって、一定の評価をいただいてると、自分が今までやってきた、その道の証明ということができているのかなって。それが自信につながっていって「もっとこうしよう」って更なる努力に繋がっていると思います。自分の成功体験を積み上げていけている気がしていて、やりがいありますよね。楽しいですよ。
大山:ミシュランもらった時って、実際どんな感じなんですか?めっちゃ嬉しいですよね(笑)?
望月さん:嬉しいは嬉しかったですけど、最初に挨拶していただいた時から、発表までに半年以上あったんですよね(笑)。 なので「本当に載るのかな?」みたいな感じで(笑)。星いくつとかって、連絡があるわけじゃないんですよ。星とってる方には招待状がいくと思うので、星ではないのかなとか思いつつ。でもそりゃ嬉しいですよね。
大山:そうなんですね(笑)。でも料理人としてはそれは、嬉しいですよね。
望月さん:勲章的な話というよりは、親孝行という意味合いの方が強かったですかね。やっぱりいろいろ迷惑かけてきたんで、親が嬉しいじゃないですか。お母さんは自分で(ミシュランの)本を買ってくれて。でもうちの隣に超有名店さんが乗っていて、(恐縮すぎて)気まずいんですけどね(汗)。
大山:最後に、今後の展望といったところをお聞かせください。
望月さん:人を育てていきたいなと思っています。今も2番手ランチというのを始めています。店舗を増やすためにというよりも、それは世の中の情勢次第なんですが、今後おそらくお店(寿司屋)は減っていくと思うんですよ。だって、自分の行くお店(寿司屋)って、ほぼほぼ決まってると思うんですよ。なのでどんどんお店を出していけば良いというふうには思っていなくて、その中で生き残れるために板場(職人)を育てたいなって思っています。なので今は、2番手の職人をそういう強い人材に育てていきたいなと思っています。
編集後記
実は私は中目黒の「鮨おにかい」がオープンしてすぐくらいの時に、望月さんのお寿司をいただいています。明るく気さくな笑顔で腕は確かな若手鮨職人という感じで、とっても好印象だったのをよく覚えています。今回インタビューをさせていただき、その裏に明確な自分の人生観と「銀座九兵衛」での修行に裏打ちされた確かな技術、そしてブレないマインドがあることを感じることができました。高級鮨が溢れるマーケットにおいて、望月さんのような考えをブラさず、ただひたすらにお客さんに向き合う寿司店がしっかりと生き残っていくのであろう、とそう強く感じる取材となりました。(聞き手:大山 正)