スペシャル企画

クロスロード〜外食経営者のルーツと転機〜 vol.4/株式会社エムシス 代表取締役 瀧川真雄氏

この企画は外食経営者の「クロスロード」、すなわち人生の転機となった出来事や自身のルーツについて、ライフチャートを経営者自ら描いて頂き、それに沿ってこれまでの人生を深掘りしていくインタビュー企画となっています。

第4回目は、コロナ禍の仙台にあかりを灯し続け大繁盛グループとして一躍、仙台飲食シーンで脚光を浴びた株式会社エムシスの瀧川真雄さんです。ここ数年での急成長によって突如として飲食シーンの舞台に登場した印象の同社ですが、創業から「焼きとん 大国」での大ブレイクの間には知られざる苦悩の日々がありました。現在の成功の裏にある壮絶な体験を包み隠さず語ってくださいました。


ロード1

  • ・安定感抜群の野球少年
  • ・学級委員タイプ
  • ・15歳で挫折
  • ・バイトで飲食との出会い

 

大山:まず幼少期のことをお伺いします。瀧川少年は、どこで生まれてどのように過ごしていたのですか?

瀧川さん:生まれが岩手県の盛岡市で、サラリーマン家庭で母親が専業主婦で弟が1人4個下にいて、本当によくある普通の一般家庭でしたね。商売をやる家でもなかったですし貧しくもなく、すごく豊かでもなく普通に過ごしていましたね。

親父が野球をやっていたので、小さい頃にグローブとボールを渡されて、自然と野球をやる流れになっていって、野球少年になっていきましたね。そのまま大学まで、野球やったんですよね。

大山:そうなんですね!ちなみにポジションは、どこだったんですか?

瀧川さん:外野ですね。

 

大山:足が速いプレーヤーだった感じですね?

瀧:足速い系ですね。ただ外野なのに弱肩で、遠くに投げられないんですよね。笑

安定感はある、みたいな感じですかね。

 

大山:それからずっと野球をやられていたわけですね。

瀧川さん:そうですね。本当に小中までは、野球漬けという感じですね。どちらかっていうとリーダーを張るようなタイプで学級委員長とか必ず毎年やっていたりとか、運動もできたので、毎年「〇〇大会1位」とかを取ったり。学校では「優秀な人」みたいな扱いをされるキャラクターだったんですよね。このぐらいまでは、ハッピーだったなと思っているんですけど。笑

 

大山:なるほどこの辺で何かがあるわけですね。確かに15歳くらいからグラフが下がっていますね。何があったのですか?

瀧川さん:そうですね。その頃すでに宮城県に住んでいたんですが、野球の特待生といった形で高校入学と同時に、野球留学で岩手県で寮生活を始めたんです。大谷翔平の出身校である花巻東高校といつも決勝で当たって負ける盛岡大付属という、たまに甲子園に出る高校があるのですが、その高校が強くなり始めた頃でした。

ですが、かなり周りのレベルが高くて「なんで俺はこんな投げれないんだろう」「打てないんだろう」「力弱いんだろう」みたいな感じで、結構劣等感に苛まされる3年間でしたね。ギリギリレギュラーは取ったんですけどね。

 

大山:いや、凄いですよ!でも現在、絶好調そうに見える瀧川さんでもそんな劣等感があったのですね。

瀧川さん:はい。ただギリギリ安定感があったんですよね。守備でもフライとかギリギリになっちゃうじゃないですか。あれをパツって取れるタイプなんですよ。ポロしないんですよね、あまり。投げても遠くには投げられないんですけど、中継って言って外野から投げてショートの人が取ってホームに投げてるというのを中継というんですけど、そういうのもパチンと行くんですよ。なので遠くに投げられないけど、安定感があるから監督が好いて使ってくれて。ただ打てないし8番なんですよ、打順は。だいたい一番打てない人が打順が8番なんで。笑

レギュラーにはなったけど結局甲子園には行けずで。同級生と比べても、もしかしたら次の年に入ってきた後輩よりも打てない、投げれないみたいな、すごく嫌な3年間で、きつかったんですよね。不幸せというほどじゃないんですけど、「3年間つらかったな」と。でもやってよかったんですよ。もちろん鍛えられましたし。今考えるとそんな時代だったので。すごく劣等感の塊だったなぁと思います。それで、大学は国士舘大学で東京に出てきて。

 

大山:そうだったんですね。それから大学で東京に出られたとか?

瀧川さん:はい、一般入試で国士舘大学に進学したんです。大学に入って、特に目的もなく野球好きだったし、みたいな流れで国士舘に入って、準硬式野球というちょっと遊びの野球みたいな部活に入るんです。

そこでもそんなに力入れてるつもりはないけどやっぱり安定感があるので、なぜかレギュラーを取るみたいな。笑

それで試合に出されるんですけど、「打てるわけないじゃん。辞めてよ。汗」って感じだったんですけど、何故かそういう人に限ってチャンスが回ってくるもので。笑

「もう代打!代打だしてくれ!」って思いながら試合に出てたので、絶対打てるわけないんですよ。笑

 

大山:確かに!気持ちで負けてるわけですもんね。笑 飲食店との出会いはいつ頃なんですか?

瀧川さん:大学1年生のときに、東京の多摩市に住んでたんです。それでとんかつ居酒屋みたいなところにアルバイトで入って、4年間続けたんです。 そこの店長が若くて21歳とかだったんですよ。年も近くて気もあって、すごく仲良くなってたのでその店長が「俺、将来独立したいんだ」って言っていて、4年間それを刷り込まれたんですよね。

自分入学した当時はもちろんそんなこと(独立・会社経営)考えてなかったですし、「大学行ってまで飲食業に就くっていうのはちょっとないな」って思ってたので。大学4年生までそこでアルバイトをして仲良くした中で、4年の夏頃に「これからどう生きていこう」と思ったときに、ずっとすり込まれていたので「俺も飲食店独立したい」っとなったんです。それでグローバルダイニングに少し入ったんですよね。 絶頂のときのグローバルダイニングに大学4年生の夏から少し。

 

大山:そうだったんですね!ちなみにグローバルダイニングは、どこの店舗ですか?

瀧:恵比寿のモンスーンカフェですね。出来た直後ぐらいで。毎日100万円ぐらい売っててめっちゃ忙しかったっていう。大学の授業は全然なかったので、朝9時から23時とかまでフリーターみたいに週5~6で働きましたね。

4年生の冬ぐらいまで頑張ったんですが、結局潰れちゃって。メンタル的に結構。当時ゴリゴリじゃないですか、グローバルって。給料も自己申告制ですし、会議とかも意識高すぎてついていけなかったんですよね。ただ働いて得たものもたくさんありました。

 

ロード2

 

  • ・仙台で飲食修行
  • ・ガールズバーで独立
  • ・急転直下、倒産の危機
  • ・恩人の助けで命拾い

 

大山:そのあと飲食の道へ、どっぷりと入って行かれるのですね?

瀧川さん:それから地元に戻って飲食業の修行しようと思い、東京を離れて仙台に戻るんですよね。その理由はサーフィンですが、仙台ってサーフィンをする環境としてはすごくいいんですよ。海近いし、波もいいし。2年間サーフィンしに戻って、また都内戻ってきて仕事をしようと、そんな風に思っていました。結局は東京には戻らず仙台の飲食企業2社を渡り歩いて、独立していくという感じです。

 

大山:おいくつの時に、独立されたのですか?

瀧川さん:大学卒業して仙台に戻って、フリーターの延長みたいな働き方で飲食企業で働いていて、25歳のとき2社目に移って、お店を完全に任されたんです。それで実績も出せて、独立向かっていくという感じです。

1社目は若いオーナーが3店舗ぐらいやってるようなちっちゃい会社だったんですけど、たまたまサーフィンをする方でそれもあって仲良くなって働かせてもらって、すぐ上の役職に置いてくれて。そのあと2社目に移って、その会社はセカンドビジネスで飲食店をやってますというタイプの会社だったので、完全に自分に全て権限を委ねてくれたんです。

 

大山:それは大きな転機ですね。それで結果を出していくわけですね?

瀧川さん:元々店長がいて、その2番手で働いてたんですけど、この店長がちょっとイケてなくて、20坪30席で月50万円とかしか売れなかったんですよ。

「この人言ってる通りにしたら駄目じゃん」と思いながら下で働いていたんですけど、あるとき自分がブチキレちゃって「そんなのやってられない」って辞めようとしたんですが、社長に止めていただいて「君にかけるから」と言って頂いて、自分が店長になると社長が「このお店はすべて君に渡す。自分の好きにやってみろ」と言って頂いて、挑戦させてもらって結果伸ばせたんですよね。350万円ぐらいまで売れて、利益もしっかり出るようになって、力を認めてもらって。その後すぐ「もう1店舗やらないか」ということお話しいただいて。

その会社では東京の西麻布に焼き鳥屋とかもやっていました。本当にセレブなんですよ、社長が。上場社長だったので。自由が丘でもイタリアンをやっていたり。

 

大山:仙台の2店舗目はどんなお店だったのですか?

瀧川さん:僕が完全に好きにやらせてもらったんですけど、すごい狭い10坪の物件を与えられて、場所は良かったんですけど大きさを考えると客単価5,000円以上をいただかないと厳しいなという感じだったのですが、そのノウハウが自分にはなくて。

それで自分が独立するときにやろうと思って、温めてた業態が今でいう「ガールズバー」なんですよね。「ガールズバー、この場所だったら絶対はまるな」と思って独立の前に一旦試してみようということで社長にプレゼンして、出店させてもらったんです。それがすごいうまくいったんですよ。

すごい儲かったんですけど、そうすると自分でやっとけば良かったってなるじゃないですか。どうしてもその自分の温めていたお店をやりたくて、社長に迷惑にならないように、出身である岩手県の盛岡市にガールズバーを出させてほしいとお願いをして、独立するんです。

ただ仙台の2店舗は管理してもらわないと困るから、会社作りなさいという約束で。その会社とこの2店舗を業務委託契約を結んで、フィーを払うから管理してくれと。それが2007年、27歳の時です。

 

大山:そうなんですね。独立は盛岡で、だったんですね!

瀧:盛岡ですよ。でも住んでるのは仙台みたいな。200キロぐらい離れてるので結構距離はあるんですけど、完全おまかせでやったお店ですね。

当時、大阪でめちゃくちゃ流行ってるガールズバーがあって、それを本当にストンと持ってきたような感じではあったんですけど。

 

大山:どんな感じのお店なのですか?

瀧川さん:全部ALL 500円、ワンコインのお店です。カウンターに立ってる子たちは本当に普通のショットバーの女の子が立ってる、それで500円で飲める。スタッフの時給は居酒屋のプラス200円ぐらい、ですがそれで結構集まって。

 

大山:独立店がガールズバーといった経歴もおもしろいですね。そういう形態のお店(ガールズバー)が増え始めたのが、そのぐらい時期というわけですね。

瀧川さん:そうですね。仙台初のガールズバーだったで。盛岡のときもそうでしたね。

大阪のお店、めちゃめちゃ流行っていて、売上300万円で100万円以上利益出るみたいなモデルなんですよね。それで仙台でやったら、実際にそういうふうになっていって。

「すげえ!300万で100万残るんだ。これ自分でやってたらこよかったなぁ」って想像しちゃって。笑

それで盛岡でやるかってなったんですけど、300万はいかないないにしても250万ぐらい悪くても売れるかな、と思って実際にすぐ月売り上げが200万ぐらいいったんですよね。それでも利益で50万とか残って。自分が一切現場にいないでですからね。

 

大山:それはすごいですね。当時のスタッフさんの管理とかは、難しかったのではないですか?

瀧川さん:いやそれが、居酒屋や飲食店の延長みたいなお店だったんで、あんまり手こずらなかったんですよね。 ただ時給が他のスナック・キャバクラと比べると安いので、でもやってることはそれに近いので、どんどん抜かれていくんですよ。 女の子の補充にすごい苦労したのがありましたね。

そのお店の方で毎月50万利益、さらに業務委託の仙台の店舗は売上の5%いただける契約だったので、事業としてはうまくいっていたんです。 利益じゃなくて売上の%をいただけるという契約で。その仙台の方の手数料だけで生活ができるんですよ。そこに盛岡の50万円の利益があるので、その頃で年収的には1,000万円ぐらいなので幸せだったんでしょうか。

独立した直後にすぐ年収1,000万円だったので。何も知らず独立しちゃったので、おかげでバンバンお金使って、使っちゃいけないものまで使っちゃったなみたいな感じだったんですけど。笑

 

大山:やっぱそうなっちゃいます?笑 浪費家的なところは、あったんですか?

瀧川さん:当時独立した理由がそもそも私利私欲の塊で、自分の生活が豊かになりたいみたいな気持ちが強かったのですからね。それがかっこいいと思っていましたし。笑

独立自体はスタートはうまくいってたんですけど、独立後1年はすごくハッピーでよかったんですけど、(28歳くらいで)急転直下してるのは、2年目に盛岡で整骨院をやったんですよね。それが良くなかったんです。

野球やっていたので、いつも肩肘痛くて、それを先生に見てもらって良くなって「すごいんだな。こういう人たちって」っていう憧れもあったんですけど、ビジネス的にうまくいってる社長がいてそのFC的な形で始めたんです。地元のイオンの中で。

当然、自分その分野は何もわからない素人ですし、資格もないし先生じゃないので当然そんなお店がうまくいくわけもなく。笑

先生を雇ってやってましたけども全然売れなくて、あれよあれよと赤字がめちゃくちゃ出てて。ガールズバーの収益を吸われる、仙台の事業の収益も吸われる…といった感じで「暗黒の時代」入っていって、ずっと深海を漂ってたみたいな数年なんですよ、この時期。

しかもこの時、その整骨院をすぐ辞めればよかったんですけど、そっちの穴を埋めるために、しゃぶしゃぶ食べ放題の業態にチャレンジしてみたり、じゃじゃ麺屋さんをやってみたり、横に横にいろんなことをやっちゃったんですよね。隣の芝生がめちゃくちゃ青く見えて、そっちに手を出してやってたんですけど、もうドツボですよね。うまくいくわけないじゃないですか。いろんなことをバラバラにやったことによってさらに悪化してしまって。

 

大山:それが、だいたい30歳ぐらいの頃ですか?

瀧川さん:実際28歳くらいですかね。初年度は運転資金を借りてましたから、それはまず赤字。そこから2年目も借りられたけど、どんどん減ってく。借りたものがどんどんなくなってく。30歳ぐらいが一番きつかったときですね。

 

大山:それはかなり辛いですね。その時で計4店舗やられていたってことですね。

瀧川さん:はい、全部盛岡ですね。仙台2店舗管理が続いてましたけど。盛岡で4店舗ですかね。5店舗目で「焼きとん大国」をやったっていう感じです。そのときはもう、じゃじゃ麺屋さんは閉めていたのですけれども。

 

大山:なるほどです。その頃「焼きとん大国」と出会うわけですね。

瀧:そうなんです。FCで加盟させてもらって、研修場所は大谷さんの会社でやって頂いていて。大谷さんはまだ2店舗のときですね。もちろん当時から存じ上げてます。ちょうど30歳ぐらいのときで、とにかく金がなくて。本当に完全自転車になってない?というかもう自転車にすらなってないぐらい、毎月足りてない。お金が。笑

 

大山:そんな時期があったのですね!大国をやられる前ですか?

瀧川さん:大国の前からですよ、あちこちやりすぎて。それでまた穴を埋めようと思って、大国を見つけてきて、加盟させてもらって。

本当恥ずかしいんですけど、資金調達失敗したんすよ。だけどお店は着工しちゃってて、店もほぼ出来上がる段階で調達できなかったっとなりまして、そこで工事をお願いしてた方には、借りれるという前提で進めた分ですが「すいません、駄目でした」と。

施工会社さんは「いやあー・・・汗」と、もちろんなりましたけど「いや、ここまでやったからもう最後仕上げて儲けて何とかするしかないじゃん」と言ってくれる社長で。店は作ってもらったんです。

大国に払う加盟金も分割とかにしてもらってなんとかそこは頑張ったんですけど、工事代はまだ払えない。そうすると施工してくれた大工さんたちは報酬受け取れないじゃないですか。オープンした後、うちの店の前で営業中睨みつけて見てるわけですよ。

コロナ禍で大ブレイクしたと思っていましたが、大国との出会いは実は10年以上も前だったとのこと。

 

大山:マジですか。それは気まずいですね‥。

瀧川さん:それで営業中ちょっと出て行って「本当すみません」って謝って。「どうなってんの、うちら金もらえねよ、どうすんの」って詰められて「いや、どうにかします」って。

結果、債務超過の山で銀行なんか借れる状態じゃないのですから。そして銀行もリスケしてたかな?個人から借りるしかないから方々からお借りして何とか回してましたね。

 

大山:めちゃめちゃ苦労されていますね。

瀧川さん:そんな感じで、行くとこまで行ったんですけど一番やばいのが税金で。税金なんか払えるわけないですよ。滞納額が1,500万円くらいまでになっちゃって。担当のおねぇちゃんから電話来るので「いついつまでに払います」とかって言ってました。

『いくらだったら払えるんですか?』って言われて「5,000円なら」とか言って。払う意思はあるんですよと。5,000円ちょっと払っても延滞金にもならないんですよ。そしたらある時また税務署が来たんですけど、いつもと違う方。いつもの女性じゃない。すごい長い肩書の〇〇税務官みたいな方が来て『私が電話している理由ご存知ですか』って言われて「わからないです」って言ったら『お伝え申し上げます。〇月〇日までに1,500万円全額を納付いただけなければ、差し押さえできます』っていう。最後通達ですよ。『これ最後ですから、これ以上お待ちできません』って言われましたね。

 

大山:やばいですね。それが何歳のときですか?

瀧川さん:33歳かそれぐらいだったと思うんですよね。ただ仙台の国分町の大国は調子良かったんです。最初はちょっと苦戦しましたけど。震災が来て、そのあと震災の復興バブルっていうのがあって。

それで若干持ち直した感はあるんですけど、とはいえ過去の負債を全部回すぐらいの資金はなかったんわけです。その税金の最後通告をどうするって考えたらもう銀行は絶対無理なので、借りるしかないわけじゃないですか。1,500万ポンと出してくれる人を電話帳で探すしかないじゃないですか。でもそんな恥ずかしいこともできないよな‥と思ってたんですけど、やっぱり火事場のバカ力は出ますね。

行動しないと倒産確定だったからとにかく行動して、結局仙台で2社目にお世話になった上場社長がやっぱりお金ある方だったので、その人しかいなかったんですよ。ただすでにその時点で400万円ぐらい借りてたんですよ。会社きつかったんで、貸してもらって回してたんですよ。そこからさらに、追い銭で1,500万円はさすがにどうなんだろう、でもこの人しかいないしこの人に断られたら俺はもう倒産。その腹づもりで、その方は東京の社長でしたから仙台から新幹線に乗って、南青山のスパイラルカフェで待ち合わせして、世間話の後に「社長、今日も実はちょっとお願いがあって」と切り出すわけです。

『なんだ?』「あの‥納税が実はできてなくて、もう最後通告が来てしまいました」

すると『そうなんだ。そんな業績悪かったのか?」って。「実はそうなんです」『いくらなの?それ』「実はすごい大きい額で」『いくらだ』「1,500万円です」って話したら『1,000万(以上)か、それは大きいな』って、そう言われた瞬間もう倒産確定と思って。苦笑

もうこれ断られたら、もう終わりと覚悟は決めてたので、もうOK。しゃあないと思ったんですけど、その5秒後に『わかった』って言ってくれて。

 

大山:神ですね。それは神すぎますね!

瀧川さん:神です。『俺に借りれないと多分倒産なんだろう?だからここに来てるんだろうと思って、俺がこれ貸さなかったらそういうことでしょ。であれば、貸すからその代わり決算書出して。3期分。俺も勝手に自分だけで決めるんじゃなく会計士とかと相談したいから』と言うんですけど「うちの決算書なんか会計士さんが見たら絶対やめてくださいって言われちゃうので」と言ったんですけど『それでもいいから出して』というので、提出させてもらって。

『やっぱり会計士に相談したら、絶対この会社から返ってこないって言われたよ』と。『でもやるって決めてるから俺はやるよ』って言ってくれて。

『その代わり、公正証書を結ばせてくれ。1日でも返済が遅れたらエムシスの売上を取りに行くっていう契約書を交わして、あと金利もつけさせてくれ』と。それは「もちろんです」ということで渋谷の公証人役場に2人で行って公正証書を交わして、そのあとすぐに1,500万円がポンと振り込まれていて事なきを得るという。倒産は免れたんですよね。

 

大山:マンガみたいな展開ですね。。

瀧川さん:ただ、よくよく考えたら、税金の支払いが何とかなれば生き延びられると思ったけど、結局1,500万は借りたわけだから、その1,500万の返済が始まるわけじゃないですか。結局資金繰りがもっと厳しくなっちゃって、やばいなってなって。

でも、なんで俺こんなに会社うまくいかないのかなと冷静に思ったときに、やっぱり多業態なわけですよね。場所も仙台と盛岡の2拠点で。

自分の体が行ったり来たりで管理が行き届かないし「やっぱり一番うまくいってる業態に絞ろう」ということで、「焼きとん大国」だけに絞っていって、それが「焼きとん大国」だけを縦積みしていったという経緯ですね。そこからいろんな他の事業を売却して、大国だけに絞って出店していったことによって、会社が急速に盛り返してきた。

そして、立ち直っていった結果、大国を9店舗になるまで他の事業・業態は一切しませんでした。大国が9店舗に到達したのが、コロナ渦の1年目ぐらいだったので、今から4年ぐらい前ですかね。

 

大山:事業がうまくいかなくなった30歳ごろから、渋谷でお金を借りれた33歳くらいまで本当に激動ですね。まるでジェットコースターのような人生。笑

瀧川さん:もうとにかくその頃は常に資金繰りに奔走していたので、どこの時期か忘れましたけど、大家さんに半年間家賃払ってなかったし、イオンの整骨院の家賃も半年間払ってなくて、とか。汗

半年間払わなくてもイオンさんから連絡がなかったので「なんで連絡ないんだろう?でも連絡ないから払わないでおこう」みたいな感じで、ちょっとスルーしてたんですけどある時、当然バレて急にお店に来て、バシバシって電気消されて『家賃払わない店には、営業させないぞ』と偉い人に言われちゃって、従業員はびっくりしたよね。汗

 

大山:この30歳あたりの人生、かなりドラマティックですよね。1分1秒しくじったら明日はないですよね。全く知りませんでした‥。

瀧川さん:はい。笑  親からも1,500万円とか借りてたし、借りれるところからほぼ借りまくってましたね。親以外にも保険屋のおばちゃんとか、そういうところからも借りて本当ギリギリ回してたんですよね。

 

大山:ものすごい経験ですね‥。

瀧川さん:その時期は本当に底辺でしたね。一気には良くならないので、徐々に徐々に良くなっていって「月末(お金が)足りた!」みたいなとこから、自分の役員報酬は25万円とかにしていて「自分も役員報酬取れても、月末お金ちょっと残ったわ」とか、そんな状態が続いて、徐々に徐々に良くなっていった感じです。

 

ロード3

  • ・震災復興バブル、他業種切り離し
  • ・「焼きとん大国」一本で大ブレイク
  • ・コロナをチャンスに10店舗開業
  • ・餃子業態を全国展開へ

 

大山:よくなっていった時期と震災の復興バブルの時期が重なるのですか?

瀧川さん:ですね。まず他に事業いろいろやってたので、ちょっとずつ切り売りして資金を作って。盛岡のガールズバーもそうですし。その時期に割と復興バブルがあったので、復興バブルのときに高く売れたものは売っていった感じですね。どの店も1.5倍ぐらいで売れましたね。

ただもうそこはいっぱい失敗しているので冷静で、お店は売上良かったのですが、それは復興バブルで売れてるだけで「バブル終わったらこれ下がるな」と思って、「売れるときに手放そう」みたいな感じでしたね。

 

大山:それで仙台に集中していくっていうことになっていくんですね。

瀧川さん:そうですね。なので、35歳のときだったかな?仙台駅西口店という大国があって、そこが15坪で家賃32~33万円ぐらいなんですけど、事業計画上は売上400万円ぐらいだなと思って、そのつもりで事業計画書と作って、融資受けれて出店したんですけど、蓋開けてみたら800万ぐらい売上たんですよ。あそこの出店がかなり追い風だったというか、損益分岐点が250万円の店が800万円も売れてるわけなので。

実際今はもうずっと1,000万円を超えてずっと推移しているので、300万円〜400万円は営業利益が出ている感じなので、そこが出店できたのはかなり大きいですね。途中そういったヒット店舗と巡り会えて。

仙台駅西口店のオープンで大ブレイク。今の同社の快進撃のきっかけに。

 

大山:大ヒット店ですね。やはりそれは大国に集中したからですね。

瀧:そうですね。この大国のみで毎年2店舗ずつぐらい出していってたんですよね。そして外さなかったんですよね、全店舗収益化してましたから。

 

大:そこから上がっていくわけですね。やっと来ましたね!笑

瀧:そうですね。

 

大山:大国だけに集中していったことのメリットというのはどこにあったんですか?

瀧川さん:圧倒的に管理のしやすさですね。ダントツですね。

 

大山:単一のブランドに集中することで教育もやりやすいですよね。

瀧川さん:はい、やりやすかったですね。野球やってる少年たちって、甲子園に普通に行きたいって思うじゃないですか。それと同じように当たり前のように会社って大きくするもんだなって自分はずっと思ってるんですよね。

特に明確な理由はなくて「普通目指すっしょ」みたいなそんなスタンスで。だから会社が良くなってきて、もっともっと大きくしたいってことで、コンサルさんに入ってもらったりしましたし、ある程度小さいときから右腕を育てて、専務にしてその子にどんどん経験させて組織化みたいなのも、ある程度早い段階から着手していたので、割とその9店舗に行くときまで壁があんまりなかったというか。

そしてコロナが起きて「酒場だけじゃやばいな」と。すぐ終わるかなと思ったけど終わらなさそうだったので餃子店を出店する流れになって。

 

大山:なるほどその流れで「元祖仙台ひとくち餃子 あずま」が誕生するわけですね。

瀧川さん:そうなんです、それがすごくはまって今5店舗まで伸ばしましたね。ある程度準備してたものが全部相まって、そこまでは行けたんですけど、ここ直近でいうといろいろ課題はありますが、順調にいってますね。

 

大山:僕が認知したのは、「コロナ禍でも圧倒的に売り上げてるすごいお店が仙台にある」ということでお店に伺ったのがきっかけなのですが、グラフを見るとコロナ渦でも下がってないわけじゃないですか。まず最初、コロナ初期の2020年頃はどんなふうに思い、また仙台のマーケットはどんな感じだったんですか?

瀧川さん:コロナの直前っていうんですかね。直前は大国だけで6店舗みたいな会社だったんですけど、めちゃくちゃ絶好調で出店したくて出店したくて‥という感じだったんですけど、人と物件が取れなかったんですね。

資金調達は、当然業績がいいのでできましたけど、やりたくても物件がないみたいな状態だったところにコロナが来て、業績がかなり良かったし資金調達もすごくうまくいってたので、このぐらい全然大丈夫みたいな、かなりたかをくくってたんです。

財務見ていただいてる先生からも何やるかわかんないけど資金調達はしておこうと、ものすごい金額を借りていたし、コロナに入った直後も、どの企業さんもキャッシュリッチだったじゃないですか。不安はありましたけど、こんだけ手元に余裕があれば、コロナが明ければまた繁盛するわけだし、問題ないなっていうふうに思っていました。

そんな中、どんどんどんどん良い場所(物件)が空き始めた頃に「これチャンスじゃん!金もあるし、コロナ渦だったから追加でも設備資金でも融資受けれたので、どんどん出そう」という戦略に切り替えて、採用面も働く時間が短くなって溢れちゃった人たちがめちゃくちゃ来てくれたので人も採れるし、物件も取れるし、「最高じゃん!」みたいなそんな感じでバンバンやっていきましたね。

バンバンやってって、9店舗の大国になってからですかね、1年目の資金調達はみんな誰もができたと思うのですが、コロナ禍の2年目は当然キャッシュは減っていって、売上は出店しようともやっぱりコロナで繁盛はしていなかったので、いい場所は抑えましたけど、儲かってはいなくて。でも、また(お金)借りればいいやみたいな、楽観的な感じだったんですよ。

でも、コロナ禍2年目に入ってお取り引き銀行を全行回ったらどこも貸してくれなくなって「もしかしてここから借りれないかな?やばいな」と思ったときに、このペースで減っていったらいつ資金ショートするかわかるじゃないですか。それで、急に危機感が出てきて「これはもう自分のことは自分で守るしかないよな」と思ったときに、緊急事態宣言やマンボウの期間中も時短営業の要請には応じずにお店を開け続ける決断をしたんです。

 

大山:なるほど最初からではなく、様子を見ながら判断して2年目ぐらいから様子がおかしいというところから営業するという判断をしたというわけですね。

瀧川さん:時短協力金も、途中から店舗が大きいお店の人が大きく貰えるようになったじゃないですか。僕たちのお店は箱が小さいので額が全然変わらなかったんですよ。協力金を得られたとしても、1,000万キャッシュアウトという感じなんですよ、1ヶ月で。

それがずっと続くわけですから、これいつか絶対詰まるっていうのが見えてたので、やらざるを得なかったっていうのはありましたね。僕ここ最近で一番大きな経営判断があったんですけど、従業員や従業員のご両親、ご家族はどう思うのかなと思ったときに、かなりジャッジ悩みましたけど、でもやると決めて、みんなにしっかり話をして、俺が全ての責任を負うから営業するという決断をしたんです。みんなに迷惑がかかる可能性はあるけども、信じてついてきてほしいということをみんなには伝えて。

それで自分の中ではやっぱり筋を通すために、宮城県庁の担当部署に行って「今日からの要請応じずに営業します」とお伝しに行ったんです。当然、担当部署なので『これは平等に皆さん守ってもらわないと困る』と言われると思ったんですけど、真逆で『わざわざ来ていただいて本当にありがとうございます』という感じだったんですよ。

「なんでこんな感じなんだろう」と思ったら『飲食店の方々が本当に大変なのは、我々重々承知なんですよ。ご判断で営業されるっていうのは、我々としても止めようがない。そういう判断であれば営業をしていただいて構わないとまでは言えないのですが、了解いたしました。ただ、手続きは手続きで、我々もしなきゃいけないことがあるので、それにだけはご協力ください、なるべく営業の邪魔をしないように行きます』といったご対応をいただいたんです。

それで担当の方がお店の前に来るじゃないですか。それで店長が呼ばれて10分ぐらいロックされるので、店長も怒られるんじゃないかと思ってドキドキしてたと思うんですが、何かあったら僕に連絡するように伝えていたんですけど、結構良くしてもらえたというか。『邪魔しないんで、すぐ終わりますから』と店舗チェックもすぐ終わらせてくれて。ど繁盛ですからぱっと帰ってくれるぐらい気遣ってくてたんですよね。

 

大山:当時は全部のお店を通常営業してたわけですよね。

瀧川さん:はい。なので同業者からの目線もめちゃくちゃ悪くなっちゃって。もちろん直接は何もないですよ。でも僕らのお取引業者さんは言われるわけですよね。『お前まさかあの大国と付き合ってないよな』とか。ちょっとそういったことはありましたね。

 

大山:それを当時は実際どんな感じで捉えられたんですか?

瀧川さん:自分が逆の立場だったらそういう心情も多分あるなと思っていたので仕方ないよなって。ただ、お店はめちゃくちゃ売れたんですよね。都内でももちろんそうだったと思うんですけど、めちゃくちゃ利益が出て。ただ、もう10月から通常営業でいろんな店で営業再開するとなって、やっぱりその反動でドンと売上が落ちたのもあって「やってよかったのかな」というのはありましたけど、キャッシュはかなり溜まりましたね。

融資などでの調達はできなくなっていたわけですけど、そのキャッシュで2号店、3号店と出せたんですよね。結果、時短要請に応じていたら多分1号店で終わってたかもしれないですね。それ以降の展開もできなかったと考えると、やってよかったなと思っています。

 

大山:あの頃の大国さんに僕が行って印象的だったのは、スタッフさんがめちゃくちゃいい。元気が良くて。いやいや働いてないんですよね。ちゃんと会社の社長さんや偉い人とコンセンサスが取れてるんだなと思ってました。やっぱり元気に若い子たちが働いているというところに、お客様が感動して繁盛していたのはあると思いますよね。

 

大山:そんな中で、居酒屋だけじゃ難しいなと思ったわけですよね。それで新業態を作っていくと。それが「餃子のあずま」ですね。

瀧川さん:はい。スタートはビールメーカーさんの提案なんですよ。最初はよくあるメーカーさんモデルの餃子屋さんを提案されたんですよ。でも、なんかちょっと違うなと。

当時、飲食コンサルの河野さんが入ってくれていたので「餃子の提案、どう思います?」と聞いたら『そもそもなんで餃子やるんだ』って言われて「収支も良さそうだし、やきとんもそうですけど原価率は低いので、収益率高いのでそういうのをやりたいと思ってて。」と答えて。そ

そうしたら『そんなんで新業態やるのか。そうじゃないだろう。お前のとこの強みはなんだ』と言われて、全然そんなこと考えたことなくて。『まずセントラルキッチンを持っていることがお前の会社の強みだよ。そこはまず強い。餃子をやるにしても自社工場で作って、各店に提供できる体制を作れるのであれば、それは自分の強みを生かした事業展開になるだろう』と。

要するに、次の業態は自分の期待する強みが生きるということは絶対条件だから、それをもっと突き詰めろと言われたときに、いろいろ考えても餃子がマッチするのではないかと思って。

メーカーさんが提案される餃子業態は、どうしても酒がめっちゃ出る業態を作るじゃないですか。そうではなく、コロナに対応した食事の業態。もっともっと定食や食を意識した業態を作っていかなきゃ駄目なのではないかということで、メーカーさんと河野さんとけんけんがくがく、間に挟まれながらサンドイッチになって、半年間かけて作った業態なのですけど、結果オープンしてすぐに繁盛できたので。だいぶメーカーさんに、妥協してもらった感じはあるんですけど。

 

大山:Facebook等で拝見していましたが、かなり繁盛していそうですよね。今で何店舗ですか?

瀧川さん:国分町の入口が1号店で、本店です。2号店が国分町の近くの商店街の路面、3号店が仙台駅の商店街の路面店で、その3号店がめちゃくちゃバズったんですよね。そこが結構大きかったですけど。
あずまは仙台駅にもやっていて駅の中にもあるんですよ。それで4つ。あとはこの間、「酒場のあずま」というスピンオフモデルみたいなのをやって、今で計5店舗ですね。

 

大山:うわー!一気に展開!すごいですね。

瀧川さん:そうですね、餃子工場作っちゃったんで、餃子をバンバン出さないと重いんですよね。工場のCK運営費が。

 

大山:会社のメンバー、エムシスの社風といったものはどのような感じですか?

瀧川さん:そうですね、うちはコロナ渦はグンと店舗数を伸ばしたので、この会社を知ってるメンバーが幹部にいるんですよね。この子らには当時言っていませんでしたが、僕が資金繰りが大変だった時に給料の遅配やったりしちゃってたんですよ。でも一切つらい顔見せなかったので、あとから大変な時期があったと知ったときに『そうだったんですね』と言ってくれた子たちがほとんどだったんです。

ただ、最近入ってきたメンバーはやっぱりグインと伸ばした時の入社なので、その時代を知らないし、すごく伸びている会社っていうイメージが入ってくるので、まさに会社の血が薄まったってといった感じは感じてはいたんです。

うちもそういった状態になっちゃって、一昨年の5月にコロナが実質明けたじゃないですか。最初「やっと終わった。これでもう全然安泰、こんないい場所ばっかり押さえてたら」と思っていたら、だんだん思い通りにならなくなってきて。「あれ、なんでこんな売れないの」という感じだったんです。

酒屋さんやビールメーカー聞いても『いや、悪くないですよ。結構堅調ですね、仙台市内』と言うから「うちだけ悪いんだな」と。このままでは成長できないと思ったときに「やっぱりこれは組織だな」と思ってサービス改革を始めていくんです。

 

大山:そうだったんですね。瀧川さんの会社の強みは元気な接客、サービスですものね。それが落ちていたら社長が気づかないと、誰が直すんだって話になりますもんね。

瀧川さん:そこで「サービスのチカラ」の遠山さん入ってもらって指導してもらったのですが、もちろんすごい内容いいわけですよ。「もうこれ浸透したら絶対復活するわ」と思ったんですけど、これがなかなか浸透していかないわけですよ。

こんないいことを教わってるのに入っていかないんだと思ったときに、遠山さん原因は何かと相談したら経営理念とかミッション・ビジョン・バリューといった、そこからやり直しませんか、と提案を受けて、そもそもそのエムシス人とはなんぞや、それを体現してる人がどのぐらいいるかといった根本的な部分からやり直すということに着手するんです。

経営理念を作り変え、ミッション・ビジョン・バリューがなかったんで、それを作り、行動指針みたいなものを作って、実際2024年の秋に、発表して「エムシス人はここを目指すぞ」と落とし込んで、今少しずつ浸透し始めた感じなんですよね。

 

大山:一つの方向を目指していくために大切なことですよね。コロナ渦等あったわけですが、結局累計で何店舗立ち上げたことになるんですか?

瀧川さん:コロナに入ったときが6店舗で、明けたときが16店舗だったので、コロナ禍で10店舗オープンしました。子会社でやってもらっている店舗もあるので合わせると、全19店舗です。

 

大山:子会社化もされているのですね。

瀧川さん:はい。うちから独立したメンバーがいて、ただ最近その会社を買収して今は一緒にやっています。北千住の大国などをやっていた会社です。

昨年、ずっと一緒にやってきた専務が独立したいということで、辞めることになったんですよ。完全な右腕で、本当に営業のこと全部任せてたので、やばいなってなったんですよね。昨年の2月に「独立したいです」と。そういった理由だったから、独立したい気持ちはわかるから承諾したんです。

その代わり次に専務になれる人間にしっかりバトンタッチしてから抜けてもらわないと困るわけですから、社内でまず探そうって言って、社内で考えてみたんですけど、やっぱり社内にはいなくて。社外に目に向けようと思ってるけど何にもうちの血が入ってないやつを入れるよりは、当然、昔うち働いてたみたいな人間の方がよくて。それで北千住の大国をやっている一緒に働いていた独立メンバーの会社を子会社化して、うちの専務になってもらったという感じです。

 

大山:それはすごいですね。「一緒にならない?」と言ったときのリアクションはどのような感じだったのですか?
瀧川さん:独立してすぐコロナ渦みたいな感じだったので、めっちゃ苦労してたんですよね。それで相談を結構受けていて、ある程度手に取るように状況がわかってたので、こちらも専務が辞めるということもあって「もう一度一緒にやらないか」と相談したら、逆に喜んで『やっぱ俺は経営者に向いてないです』と。自分でも思ってたみたいなんですよね。

 

大山:でもやってみないとわかんないこともありますよね。やっぱり下で支える役割の方が良かった。普通は社長になった人は、また戻るとかはできないですからね。お互い凄いよかったですよね。

瀧川さん:実は本当にタイミング良い話で『めちゃくちゃありがたかったです』と言ってくれたんですよね。それで、実際すごい能力もある子なので自分にとってもすごい良かったです。現状はもうバトンタッチはほぼ済んでますし、さらに新しい会議システムをを導入したことによって、めちゃくちゃグンと理念浸透も目標に対するコミットメントもできていて組織が何か生まれ変わりつつありますね。

 

大山:それは良かったですね。今後の展開としては、何か考えていることはありますか?

瀧川さん: 元々の目標は東北6県で200店舗と決めてたんですよ。コンサルさんにも『わざわざ家賃の高い東京とかでやる必要はないよ。こんな田舎でも儲かってるお店はいっぱいあるわけだし』と言われていて。

自分もそれがいいなと思ってましたし、実際に200店舗と言っても半分理論上という感じで、ふざけてみんなに言ってたんですけど、200店舗を目指してそれが駄目でも100店舗にはなるでしょうみたいな、高めの目標設定をして100店舗を目指すという。

それで業態5、6個を持ってそれを縦積みして、東北地方にちりばめるみたいな戦略でいこうと考えてたんですけど、いろいろ勉強会などに参加させていただいてシングルビジネスとしてあずまの業態がすごくいいと言っていただいて、この業態を全国に広げるという方に方向性をスイッチしたんです。なので、来年から「あずま」で都内にも出店をしていければと思っています。都内は直営で増やしていって、それ以外はフランチャイズをやっていただきたいと思っています。

 

大山:素晴らしいですね!これからも応援しています。ありがとうございました。

 

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編集後記

まず最初に、瀧川さんお若すぎて勝手に30代と思っていたのでグラフがはみ出ているのはそのためです。笑

コロナ禍の圧倒的な大繁盛営業で一躍有名になった会社というふうに思っていたのですが、実はものすごい苦労人であることが今回のインタビューでみなさんお分かりいただけたかと思います。

そんな過酷すぎるマンガみたいな人生をひょうひょうと語る瀧川さんの明るさが印象的でした。今後、ひとくち餃子業態の全国展開も注目です。(聞き手:大山 正)

 

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