スペシャル企画

クロスロード〜外食経営者のルーツと転機〜 vol.2/株式会社THAN 織田裕貴氏

新連載スタート。この企画は外食経営者の「クロスロード」、すなわち人生の転機となった出来事や自身のルーツについて、ライフチャートを経営者自ら描いて頂き、それに沿ってこれまでの人生を深掘りしていくインタビュー企画となっています。

第二回目は、京都を中心に大阪・兵庫での直営店を20店舗以上展開し現在関西圏以外にもFC展開を積極的に行なっている急成長企業、株式会社THANの織田裕貴社長にインタビューを行いました。医者・学者家系に育ちながら外食の道を志した経緯、東京での修行時代の思い出、京都挑戦の真意、コロナ禍での悪戦苦闘など、たっぷり語ってもらいました。


ロード1

  • ・医学・研究家系に育つ
  • ・病弱な母親、仕事第一の父親
  • ・「この子は欲のない子です」
  • ・思い出の外食「サイゼリア」

 

医者・学者家系に育つ。病弱な母を気遣う幼少期。外食という特別な経験「サイゼリア」

生まれは山梨県で、当時父親が山梨の医大に仕事で行っていたときに僕が産まれたので。その後、父の仕事で茨城県に引っ越したので自分の幼少期は約一歳くらいから茨城県の取手市です。

父親が東大の研究員で父母共に学業家系です。二人とも首席で卒業しています。母親が文学者、父親が医学者で国家公務員としてやっていて医師でもあるんですけど、お医者さん自体はやっていなくて。なので父は公務員なので、決して特別裕福ということはなかったですが、子供の頃は不自由なく過ごさせてもらったという感じです。

父は医師免許がありながら研究員としてやってて、いわゆる100日咳とか、そういったワクチンの開発者、医学者ですね。なので、子供の頃は本当に父親が仕事忙しかったので、ほぼ家にはいなかったですね。五歳ぐらいまでは特に本当に何もないなっていう記憶です。本当に何もなく普通に育ててもらったなっていう記憶ですね。僕たち子供たちのことは好きだったというのは伝わっていましたが、とにかく忙しい父でしたね。

ただうちの母が精神の病気があって、ストレスがある程度たまってしまうと異常行動に出てしまうといったことが小学生の中学年くらいからあって、僕も覚えているのは母は自分たち家族には優しくしてくれるんですけど、他の人に対する「当たり」方が異常行動なのでその都度入院をするんですよ。なので、おばあちゃんがたまにうちに来て、一緒に住んでくれるんですけど、そこで言われてたのが「ストレスがかかると異常行動に出てしまう」という話だったので、僕がストレスを与えちゃいけない存在なんですよね。

今更ながら思うのが昔、通信簿ってあるじゃないですか?学校の通信簿に書かれているのが「この子は欲のない子です」って書かれてるんですよ。意味わかんないですけど笑、今思うとわがままとか欲を出すことができない環境だったんですね。その時は何とも思ってなかったので、これが普通だったんですけどね。これがおかしいとか、わからない子供の頃だったので、振り返るとそういったところがあったのかなと。

小学校の高学年になってくると人と会話ができ始めるというか、ストレスは抱えながらも、人間対人間みたいになってくるので、そのころから特に母親のストレスもそこまでかからずに中学高校まで過ごせたんです。

ただ、小学校の頃にそういう状況だったので、家族で外食ってのに僕ほとんど行った記憶がなくて、覚えてるのがサイゼリアに行った記憶があるんですよ。他には外食へ行った記憶は僕の中でないんですよ。だから外食ってものがそもそも特別扱いなんです。なんかの記念日とか超特別なもの。そういう認識だったんですね。

ただ中学生になると、ファミレスが増え始めて友達と行くようになって、やっぱり「いいよね」とか」すごい楽しいよね」みたいな記憶があって。なので、外食ってすごい好きだったんです。

高校生になると、やっぱり一人の大人に近くなるので母親との関係も良くなっていって。高校生活もサッカーやりながら楽しく過ごせていたので、平和ですごい幸せな時期だったんじゃないかなと今は思います。そうは言いながらも決して裕福な家庭ではなかったので、病院の通院代とかって結構お金かかってたみたいなので特別お金をいっぱい使って旅行したりとか、そういった経験はほぼほぼないですね。母親と2人で外に食べに行くなんてことはないので、やっぱり外食自体の回数は本当少なかったのかなと思ってます。

 

ロード2

  • ・鉛筆転がし大学合格
  • ・飲食業でのアルバイト
  • ・「お金」の勉強
  • ・銀座フレンチで修行

 

 

高校生で「経済」「お金」の勉強。大学は国立一本。(いろいろな)飲食業でのアルバイト。

それから大学に入るにあたって、やっぱり社会って理不尽だなと思ったのは、高校の時すごい経済の勉強とかたくさんしてて、株のこととかいろんなことを勉強してたんですが、一つすごい印象的だったのが大学入る時って「仮入学制度」ってあるじゃないですか。私大とか滑り止めの学校を受けるわけですが、その時に入学金って30万円くらい払うんですけど、あれって返ってこないんですよね。あの制度にちょっと腹が立った記憶があって。笑

入らないのに30万円払うってそれ冷静に考えるとすごいことしてるよねってなって。笑 僕はだから私立は受けずに国立大学一つだけ受けて、そこにちゃんと受かったわけなんですけども、そういった時からお金ってなんか怪しい、怖いみたいな感覚はありました。

中高生の時は本当に何もトラブルはなかったです。何もなくて、その時そこそこモテていたので彼女もいました。笑 サッカーもうまかったしそこそこ勉強もできたし、茨城県の田舎なんでちょっとやんちゃっぽいこともしたし、仲間も多かったし、すごい楽しい中高生だったと思いますね。

 

大学は埼玉大学に入学したのですが、選んだ理由は埼玉大学や横浜国立とか千葉大とか筑波大とか、関東の国立大学を鉛筆転がして選んだんですね。どうせ、どれでも辞める気だったので。舐めてますよね。笑

その時は美容室か飲食店をやりたくて。そのぐらいの気持ちだったんです。美容師ってかっこいいよね、バーテンダーってかっこいいよねとか、そういう時代だったかなと思います。高校卒業するにあたって、まあ結局頭良かったので、親と大学は行くべきだよという話になって「わかった。じゃあ少しでも行くわ」という話で、行きました。すいません、やな感じで。笑

大学に入学して、そんな感じなので18歳から20歳くらいは水商売もしたし、バーテンダーもしたし、美容師はもう全く気がなくなっちゃったんですけど、主にその二つをやりながら、それ以外の時間は株とかFXとか、そういうデイトレードをするという。そういうのでお金はそこそこ稼いでました。そんな生活の中でお金にまつわることっていうのは、たいてい一周経験したかなと思ってます。お金の怖さもそうですね。貸し借りをしてトラブルとかに巻き込まれて縁が切れるなど、良くも悪くもいい経験をしましたね。

 

新卒でコロワイド入社。自分のお店を創ることを大学時代から意識。

大学入った18歳19歳くらいから「自分でお店をやりたい」とか、「自分の会社を創りたい」っていう意思は本当強くて大学も経営学部に入っていて、経営の勉強、簿記とかFPとか会計学、そんな勉強をずっとしてきました。それなりの経営の知識はあって、ただ飲食店は現場が大事だよねっていうことで、アルバイトはずっとやっていましたね。やっぱり飲食の現場が好きなので。

大学3年生くらいになってから、今後の仕事をどうしていこうか仲間たちと話していたときに、就活を一生懸命していくんですけど、結論的にはコロワイドに入るんですね。家の近くの居酒屋に新卒で就職しようかなとも思ってたんすけど、やっぱりもうちょっと広い世界を見てきなさいよって言ってくれた人がいて。それなら(居酒屋で)一番大きな会社に入ってみようということで。就職は外食業しか考えていなくて、どこでやるかという感じでした。もうスタート段階で飲食店をやりたかったので、そこのブレはなかったですね。他の業種を見たりとか、一切なかったです。飲食業界だけですね。

当時、コロワイドのダイニングバー業態で「一瑳」というお店があって、そのお店がカッコよくてサービスもがちゃんとししてて。そのお店でバーテンダーを本格的にやっていたんです。大きなお店で、すごい雰囲気良かったんです。

その後、1年経たない早いタイミングで店長をやらせてもらえたので、店舗マネジメントという、とても良い経験をさせてもらいました。(当時)労働環境が割と良くなかったので笑、休みも取らずに本当に朝から深夜までとか、平気で仕事をしていた時期だったので、アルバイトさんの付き合い方とかPLとかいろんなことを勉強させてもらいました。

 

母親の病気再発。介護、転職。料理と向き合うため銀座のフレンチで修行

23,4歳のところでグラフが下がってると思うんですが、そのタイミングで母親の病気が再発したんですよね。それで仕事を辞めてるんです。

もちろん労働環境みたいなのもありましたけど、それは気にするタイプでないのですが、ちょっとした理不尽はやっぱり感じたとこもあったんですよね。組織なので当然だと思うのですが。

母親が病気で、お金もかかるし時間も取られて、プライベートも作りづらい中で、自分の店舗は本当に売上・利益はしっかり立ててましたけど、サボっている人がいっぱいいて、そういった店舗ほど売上が悪くて。でもそれがチームだと結局ボーナスに査定が響くわけなので「それって何かおかしくない?」と思うところがありまして。組織あるあるですよね。

それで当時の料理長と話してる中で、僕は料理は全然だったので、ずっと学生のときいろいろなバイトをしていたので何となくはできたんですけど、専門料理、例えばフレンチとかになってくると知識が全くないわけです。言われて悔しいというか言い返せない悔しさがあったんです。

だからいっそのこと、フレンチの修行をしようと思って。半年ぐらい、銀座で星付きのフレンチレストランで厨房に入ってるんですよ。修行させてくださいということで。給料は15万円ぐらいかな。家を朝6時に出て、深夜2時に帰ってきて…そんな毎日を繰り返すみたいなのをしばらくやっていました。洗い物から前菜オードブル、ガルニチュールとか、その辺の基礎をそこで教えてもらいました。合間合間にお肉料理とかお魚料理も聞きながら、デセールもちょっとずつ聞きながら。いろんな勉強を半年間くらい、本当に休みなく集中してやりました。

これぐらいの時ですね。それでもやっぱり母親の病気っていうのは並行してずっとあったので、やっぱりすごい大変でした。そもそも料理人を目指したわけじゃないのですが、悔しくてどうしても料理を覚えたいっていう気持ちが強かったんです。この時はがむしゃらでしたね。

 

ロード3

  • ・キッズホールディングス
  • ・26歳で京都エリア責任者
  • ・創業支援による独立
  • ・コロナ逆境→20店舗超出店

 

最短最速渋谷で店長、統括マネージャー。京都マーケットへの興味。

その後、母の病気も少し落ち着いたタイミングで、再びトップを学びに行こうということで、そこで今のキッズホールディングスを紹介してもらって入社させてもらうんです。入って3ヶ月ぐらいかな、新店の立ち上げ店長をやらせてもらって、翌年も2店舗連続して新店立ち上げをさせてもらいました。次々と仕事を任せてもらいました。2店舗ともうまくいったので、3店舗目のときに100席を超える大きなお店で店長をやらせてもらって、その翌月12月明けくらいに渋谷エリアの統括マネージャーを任せてもらうようになりました。入社して一年くらいですね。グラフでは、ぐっと上向きになっているこの24,25歳の時がこの頃ですね。毎日が充実していました。

 

それでも前職のときの経験じゃないですが、自分の統括している店舗はそんな感じでおかげさまで目標の200%超えてたりと好調なわけですが、社内には業績が悪い店もやっぱりあるわけですね。会社内では全体の達成ができないときに、ボーナスがなくなるわけですよね。そういった中で自分だけが上手いことやっていてもダメなんだと気がつくわけです。社員20人ぐらい全員年上なので、始めは苦労したのですが、悪戦苦闘しながらマネージメントしてチームを引っ張っていくという感じで毎日が勉強でした。キッズホールディングスは物で人を幸せにするというよりかは、ちゃんと頑張った分を報酬として還元してくれる組織で、良いお給料もいただいていました。労働時間もちゃんとやる人間は当時からしっかり守れるし、采配もほぼほぼ店長に任されていて、お店のPLも全て開示していますし、独立をしたかった自分としては、これ以上ない勉強の機会でしたね。最短最速で店長ができるし、統括もできたし、マネジメントもさせてもらったし、とても感謝しています。

 

京都での挑戦。そして古巣と一緒に会社を創業という新しい独立のカタチ。

京都に移動したきっかけは、そのとき京都エリアにもキッズグループのお店があったのですが、渋谷のうちの店舗と同じ業態をオープンする際に京都のお店の店長たちが研修に来てたんですよ。そんなやりとりの中で、京都というエリアに興味が出てきて「ちょっとチャレンジしてみたいな」と、その夏ぐらいに移動しました。

 

京都で責任者をやらせてもらっている中でこれからの自分の人生を考えたときに「28歳までには独立したい」という目標を定めていて、どういった形で独立しようかっていうのをずっと考えていました。

 

自分でまっさらから会社を作るパターンとか、お誘い頂いている会社の社長をやるとか、いろんな選択肢が5種類ぐらいありました。その1つがキッズホールディングスと一緒に会社を創ってやっていくというものでした。その選択が一番僕としてはいいんじゃないかということで決断しました。

自分の目的が飲食業を楽しく、身の回りを楽しくできたらいいよねっていう気持ちが強かったので。別に年収1億円欲しいとかそういうことが全くなかったので、最短最速で自分の目標を達成するためにはどういう形態がいいんだろうかって考えて。これから必ず物価とかいろんなものが高騰していくのが目に見えていたので、自分1人で小さく会社を創って苦労するよりは、ある程度のスケールメリットを生かせる方が良いと考えたんです。一号店をそこそこ大きなお店でスタートする方がいいかなというのと、育ててもらった恩義だったりいろんな感情が巡りながら、その独立形態を選びました。ちょうど社内でも独立者の支援していこうという流れだったのでそのうちの1人ですね。株を5:5で分けあって創業しているので、社内独立というか創業支援を頂いたといった形です。2017年のことです。

 

独立3年で3店舗出店。意識せずSNSでバズる業態の誕生。

独立一号店は僕が京都に移動して建て直した「肉屋の台所」という店舗をそのまま受け継いだお店です。それまでなぜ不採算だったかというと、単純に東京都内と同じことをやろうとしていたんですよね。それは無理だよと。めちゃめちゃだったんですね。価格設定とかお客さんを見てないというか、お店目線の営業をしていたのでそれで悪かっただけなんですよね。

それを今いるお客さん相手にしっかりセグメントして、このお客さんたちにどういう金額でどういうメニューがウケるだろうっていうのを考えて再設計して、接客レベルを上げて、提供速度、提供レベルも商品レベルも上げて、本当にそれで売り上げを良くしていったんです。移動してから不採算店を建て直して、独立するまで3,4ヶ月といったスピード感です。プレイベートでも結婚してその時、0歳児もいたので無我夢中でしたよね。

 

TV出演実績多数。一躍京都の飲食シーンを賑わす存在に。

 

2号店からはオリジナルの業態です。今の僕たちのシグネチャーブランドの「原価ビストロ チーズプラス」ですね。元々ワインとお肉が好きだったので、肉バルでやりたかったのですけど、もう既に流行っていたので無理だと思って。それなら新しいものを作ろうということで、得意なワインとお肉とビストロという形でフレンチの要素を詰め込み業態を作りました。

そのとき、東京の流行がだいたい2年後に京都に来るっていう流れがある程度見えてたいたので、しっかりマーケティング目線を持って、今東京で流行っている要素を取り入れて、なおかつその価格で最高のクオリティを出そうと。調味料なども全部仕込んで超本格的にいきました。だけど、客単価は3000円でやると。

これがSNS投稿でバズったんです。インフルエンサーさんが勝手に宣伝してくれるといった感じで。バズるっていう言葉自体もみんな嫌がってた時代だったんですけど、やれることは全部やろうというスタンスやっていました。決して、SNSでバズらせるつもりで業態を作ったわけではないんです。

裏通りのビルの3階とかでやってるので、本当にフリー客は来ないお店なんです。それでも結果的にバズっていったので「これはいける」と思って、そのタイミングでチーズプラスの2号店の出店を決めたんです。(チーズプラス 1号店から)半年後のことです。

 

業績好調の中、コロナショックの到来。やれることを全てやる。逆境の中、出店という決断。

1号店から借入はしていませんでした。2号店はキャッシュだけで、居抜きでオープンしたのですが、投資回収は3ヶ月で終わらせました。それが、京都市内の「チーズプラス 京都七条」です。チーズプラス1号店がバズって「これはイケる」って確信が湧いたので 、2号店の四条烏丸店は席数を1号店の60席から倍の120席にして勝負したんです。

2年目の末ぐらいのときに公庫から融資を受けて3号店を作りました。
公庫さんに1・2号店の出店スピードを見せている中で、この業態はすごいねって言って頂き、そのタイミングで銀行融資に移行しましょう、となって。

 

3号店は四条烏丸のビジネス街に出したんですよ。そうしたら若い子が集まってしまって、元々ターゲットしていたのと違う客層になってしまったんです。近隣のサラリーマンが入れなくて毎日予約を断り続けないといけない状態で、このままだと数年後悪くなると思い、3号店オープンしてから1ヶ月後ぐらいに4号店の物件を決めましたね。ここも速攻で決めてました。どちらかというと繁華街の方になるのですが、看板なしの専用階段のみの3階です。

 

2019年の3月にオープンしたんですけど、この絶好調のタイミングでコロナですよ。4号店オープンして1ヶ月たたないくらいのタイミングです。

そんな感じで、ガンガン攻め、出店出店という感じだったので正直キャッシュがあんまりなかったんです。ただ銀行融資が受けられたのでまだ良かったのですが。この時はマジでやばいと思いました。
本部もなかったし財務は全部自分でやってましたし、固定費は店舗だけ、家賃も3〜4店舗を合わせて、160〜170万円だったのでなんとか凌げた感じです。

コロナが来て休業になったときはやばいなと思って、そこでMakuakeでチーズケーキを売るんです。これは僕らの多分走り出しの一番最初じゃないですかね。400万円ぐらい売りました。

休業期間中は本当にお金が入らないで、出るだけ出る、という初めての機会を迎えたので「これはやばい」と思いましたが、こんなことが長く続くことはないだろうから、人生の夏休みとして、やれることをやろうというふうに思ったんですけど。笑

うちは運が良くて、ビストロには若い女性が集まる業態だったし、学生さんも集まるし、焼肉業態はいわゆる換気がいいよねって言われてたくさんのお客さんに来ていただいて、売上も良くて時短金も頂けるし、しっかりお金貯めることができました。居酒屋さんに関しては本当に消失ですよね。ものすごい損失出ていますよね。多分世の中そういうお店いっぱいあったと思います。

 

ただコロナショックは経営者としてはものすごい悩みましたね。先行き不安っていうところですね。「これがもう1回起きたらどうしよう」とか、多分経営者ってそこに一気にメンタルを持っていかれたと思うのですけれど、僕もそうでした。ただ表向きは笑ってますし「大丈夫だよ、俺らいけるよね」って元気づけたりしていましたけど、社員の給料が一瞬下がってしまったとき僕はキャッシュを渡しましたね。みんなに数万円ずつ渡しながら、自分の報酬を下げながら会社を守るっていう想いで。そのときはまだ銀行が振り向いてくれるかもわからない状況でしたけど。

コロナでより強く結束したTHANのメンバーの皆さん。

 

ただそんな中でマーケット的には、アクセルの踏み時ではあるんですよね。普段獲得できない物件がもうそこら中にあったので。そこを踏む、踏まないという判断で、僕は踏むって判断したんですよね。

その翌年もコロナが続いているかわからない、補助金ももらえたりもらえなかったり、よくわからない時代だったわけですけど、やっぱり店舗の売り上げ自体は良かったので、ギリギリまで踏もうと。コロナでキャッシュが全部なくなるギリギリまで出店戦略を踏もうと。これ以上底はないと判断をして、そこを突き抜けました。

居抜き店舗を活用したりして、1店舗1000万円くらいで作っていましたね。僕らには集客ノウハウがあったのでそれが強かったです。コロナ禍も毎年7店舗づつぐらいでオープンさせていました。

その後、滋賀・大阪・兵庫とやって、ただ想像できると思うんですけどそれぐらいになると、やっぱり固定費が増えるんですよね。オフィスを借りたりし本部人材を採用したり。だからもう絶対売り上げを1個でも落としたら駄目っていう状況だったんですけど、ギリギリまで踏むって決めたので。キャッシュが増え続ける前提ですね。減った瞬間終わりだよっていう状況なのかもしれない。
なので、メンバーのみんなに「一つもこコケさすなって言って。笑
おかげさまで、僕ら今会社でやってきて、1年通して赤字の店ってゼロなんですよ。

 

父の死で自らのルーツに気づく。

そんなときに人生の転機になる部分ですが、うちの父親が亡くなったんです。34歳のときです。うちの父親って医者なので自分の症状は自分が一番わかるんですよね。その中で倒れる前日まで働いていたんですよ。限界を迎えて倒れて病院へ行ったらがんでもう手遅れですと。コロナもあったので会いに行きたくても、病院から断られちゃうんですよ。僕らは飲食店なのでコロナ中に営業するなと言われていましたしね。なので父親と会ったのは本当一度だけ。死ぬ前に一度だけですね。めっちゃ久しぶりに一度みたいな。

コロナ後に父の同僚の学者さんたちが数百人くらい集まってくれて偲ぶ会を開いてくれたんです。

そこですごいピンときたのが「うちの父親ってどんな人でしたか?」って参加してくださった方に聞いたら、皆さんが口を揃えて「とにかくこの人は人のために自分を犠牲にするタイプ。人のためだったら頑張れるタイプだった」と言ってくれて。なるほどなというのがありました。人のためだったら体が動いてしまう。だからお金にも無頓着だった。「この人に感謝してる人は多分世の中に本当にたくさんいると思う。」というふうに言ってくれたときに、自分気づいたんですよね、自分のルーツに。

28歳の創業の時に、「よりよく」という意味も込めたくて、会社の名前を「THAN」と書いて「サン」にしたんです。THANK YOUの「THAN」です。その理念というのが、父が周りの人たちに感じてもらっていたみたいに、関わる人たちが幸せになる会社にしたい、というのが僕の会社の思いとシンクロしたんです。

 

FC展開という地方創生の形を模索。飲食の力で地方を元気に。全国100店舗、全世界500店舗を目指す。

今後についてなのですが、父親の死をきっかけに久しぶりに地元の茨城に帰った時に、昔は賑わっていた街が今は若い世代はみんな出ていってしまって、僕の母親世代しかいなくなっていて…という過疎化を目の当たりにするわけです。そこで今まで培ってきた僕たちのノウハウを活かして「地方創生ができないか」と考えるようになったんです。

会社の理念と、経済合理性ですよね、この経済と想いの部分の両輪を50:50で回していこうっていう会社組織を目指しているところです。

定期的に開催している社内勉強会。

 

なおかつ、僕たち外食事業者ができることなんだろうって考えたんですね。「外食の僕たちがでできることってなんだろう」と突き詰めていくと、出店しかないですよ。飲食店を田舎にオープンすることしかなくて、たまたまフランチャイズ本部を始めたところだったので、地方のオーナーと話す機会がたくさんあって。僕らは地元以外では出店はしないと決め、フランチャイズのオーナーさんと一緒になって地方に出店をすることで、地方創生の一環になるのではと考えたんです。

僕らはそこに対して直営店で人を採用してまではできないです。地元に思いがある人じゃないと多分できないんですよ。だけどそのローカルの人としっかり話ができたから、今こうやって地方に出店が始まっていて、そこに想いを持って僕たちも自信を持ってフランチャイズ本部ができる。決してお金儲けとかそうことじゃなくて、外食に対しての想いと、地方創生への想いが原動力です。

直営店は今までやってきた仲間がいるので、「こいつらが本当に幸せに働けるよう」に、京都のエリアでドミナント戦略をとって、そこに対して投入するべき業態を投入して、若手メンバーがとにかく業態開発をし続けると。社長の僕ははタッチせずに。20代前半とか25歳ぐらいの子たちが自ら業態開発して、ブランド作って、内装をやって、食器選んで、メニュー決めて、オープンまで頑張ると。そんな中から産み出すブランド戦略をこれからも行っていきます。全国100店舗を中期目標にしていて、上場を目指します。そしてアメリカ本土の進出も計画中です。世界、日本を含めて500店舗を目指していきます。京都の外食の素晴らしさを世界に伝えていければと思っています。

 

取材後記

今回インタビューさせて頂いた織田さんは、実は今年になって関西の飲食店と繋がっている方にご紹介をいただき出会いました。今の若手の世代はどちらかというとローカルドミナント経営やCSV経営といった規模を追わない堅実な展開をしているプレーヤーが多い中で、そういった要素は併せ持ちつつ、FC展開も今後精力的に行なっていくというミッションを聞いた時に、「ニュータイプの飲食店経営者に巡り会えた」と興奮したのを覚えています。端正な顔立ちにお茶目な笑顔を浮かべつつ、自信に満ち溢れた語り口が魅力の新しいタイプの経営者です。仲間たちの幸せを第一に突き進む織田さん、これからも注目です。(聞き手:大山 正)

スペシャル企画一覧トップへ

Uber Eats レストランパートナー募集