スペシャル企画

クロスロード〜外食経営者のルーツと転機〜 vol.14/株式会社G-vision 代表取締役 伊藤穣二氏

この企画は外食経営者の「クロスロード」、すなわち人生の転機となった出来事や自身のルーツについて、ライフチャートを経営者自ら描いて頂き、それに沿ってこれまでの人生を深掘りしていくインタビュー企画となっています。

第14回は、江戸川区の株式会社G-vision・伊藤穣ニさんです。『かんぱい家』など多業態を展開する同社の原点として、伊藤さんの出生直後の奇跡、若き日の働き方、33歳での生死をさまよう経験と独立の背景、そして今後の事業展望について伺いました。


 株式会社G-vision 代表取締役

伊藤穣二氏

出身地:千葉県佐倉市

生年月日:1983年4月15日生まれ。

企業ホームページ:https://g-vision.co.jp/

ロード1

  • ・生まれてすぐ「もしかしたら長くないかもしれない」
  • ・いらんことして怪我するタイプ
  • ・原付免許は7回目で合格
  • ・バイトを掛け持ち。仕事の鬼

 

大山:伊藤さんはどこでお生まれになって、どんなお子さんでしたか?

伊藤さん:生まれは千葉の佐倉なんだけど、ほぼ育ったのは葛西ですね。僕は今こんなん(笑)ですけど生まれた時2200gぐらいしかなかったんです。保育器に入っていて。その頃、親父がシンガポールにいたんですけど「もしかしたら長くないかもしれない」と言われたのでうちの親父がすぐシンガポールから帰ってきました。でも意外と大丈夫だったので、僕も1年ぐらい多分2歳ぐらいまでシンガポールに行ったんですよね。全くシンガポールの記憶はないですが。

 

大山:その後の幼稚園とか小学校は、葛西なんですか?

伊藤さん:そうです。子供の時は怪我が多くて。ガードレールに座ってて、後ろに倒れて頭切っちゃうみたいな。ここに傷があるんですけど。そういう感じの怪我が多かったです。

 

大山:自爆ってことですか(笑)?

伊藤さん:自爆です(笑)。修学旅行とか行っても3日目に骨折っちゃうみたいな。両手両足全部折ったことあって。なんかやっちゃうんですよね、思い立ったら。

 

大山:笑っちゃいけないけどおもしろすぎますね、そう言うキャラいますよね(笑)。運動とかそういうのはしてないですか?

伊藤さん:学生のうちは剣道やってて、運動も好きだったんですけど。まあ今はもう全くやってないのでこんななっちゃって(笑)。本当に怪我が多くて、バイクで転んでとか。本当にそういうことばっかりですよ。

 

大山:怪我と免許は、関係ないんですけどね(笑)。

伊藤さん:ちなみに原付の試験は僕、7回目で合格しました(笑)。

 

大山:地元とかクラスの中では、どんなキャラだったのですか?僕は接しやすいキャラだなと思うんですけど。

伊藤さん:小学生とかの時は普通に明るい感じなので、勉強できなかったですけど好かれてましたかね。美術とか好きだったんですよね。

大山:確かに、伊藤さん絵うまいですよね!

伊藤さん:絵は好きで、確かに勉強できなかったんですけど、美術以外オール2みたいな。美術だけ5でしたね。お店のPOPとかこういうの僕、自分で作りますね。

ギリギリを攻めた(笑)、店内POPは伊藤さんの手作り。

 

大山:そうですよね。だからまさに子供の頃の「好き」が生きているわけですよね。中学卒業後はどんな感じでしたか?

伊藤さん:僕全然真面目ですね。ただ学校の勉強好きじゃなかったので、高校も僕20歳に卒業しているんですけど(笑)。よく働いていました。時給750円のケンタッキーで15万ぐらい稼いでいたので。頑張って働いていたんですよね。多分あと2科目ぐらい単位とれば卒業できたのに、2年かかって2科目(笑)。仕事が楽しくて。

 

大山:なるほど!高校生の時から仕事を始めるのですね。いきなり飲食の業界なのですね。

伊藤さん:ケンタッキーですね。ケンタッキーすごく楽しくて。夜10時に終わって、ラウンドワンで朝5時までボーリングして、なんかそういう生活をずっとしてて。

 

大山:学校行かずに、またケンタッキーで働くみたいな。本当にケンタッキーに、青春を捧げた男ですね。

伊藤さん:そうなんですよ、そういう感じなんです。ケンタッキーの頃、西葛西の駅前だったんです。今もうなくなっちゃってるんですけど、その頃の同じ時期にいた子たちのLINEグループが今もあって。当時はLINEなんかなかったんですけど、大人になってから同窓会的なことを毎年やっています。

 

ロード2

  • ・22歳までプロのバイト
  • ・飲食の道へ。「ぐりどっちん」との出会い
  • ・伝説の「酔っ手羽」101のメニュー誕生
  • ・34歳で心不全寸前、緊急入院

 

大山:めっちゃいい仲間ですね。その後、高校卒業してまたこう(グラフが)上がっていくんですけど、これはどういうことなんですか?

伊藤さん:仕事が楽しくて。飲食を離れた時期もあったんですけどね。アスクルの倉庫とか。その頃は職場の人と、倉庫の仕事をしていて、先輩の家から仕事に行ったりして。でもいつまでもプラプラしてちゃいけないなって思って、就職しようと思って入ったのが焼き鳥屋さんだったんです。

 

大山:それが何歳のときなんですか?

伊藤さん:22歳ぐらいですね。

 

大山:なるほど、22歳ぐらいまではプロのバイト感じだったってことですね。

伊藤さん:バイトめちゃめちゃいっぱいしたんで。飲食の居酒屋もやったし、釜飯のデリバリーもやったし、なんでも。

 

大山:グレずにえらいですね。仕事好きなんですね。特に貧乏で稼がなきゃいけないからってことではないんですよね。

伊藤さん:子供の頃、親父が家に帰ってきてテレビのチャンネルを勝手に変えるんですよ。「見てるんだよ」みたいなことを言うと『誰の金で買ったテレビだ』って言われるのが嫌で(笑)。それで僕、中学生の時に新聞配達をして、自分でテレビを買ったんですよ。本当にむかついて。

 

大山:テレビって当時結構高かったですよね。

伊藤さん:中古のブラウン管のテレビで。多分2万円ぐらいかな。うっすら覚えているのは、新聞配達のバイト先って奨学金もらいながら学校行ってる子がいたりして、朝ごはん用意してくれてた気がしますね。家庭環境に恵まれてない人たちが働いてるような、そんな感じだったと思うんですけど。頑張って続けられてればよかったなと思うんですが、多分1ヶ月ぐらいでお金貯まったから辞めちゃいました(笑)。

 

大山:焼き鳥屋さんでの生活は、どうだったんですか?

伊藤さん:焼き鳥屋さんは新小岩の「ぐりどっちん」って焼き鳥50円のお店なんですが、そこですごく勉強したなというのが、自分の飲食店の原点ですね。

 

大山:新小岩エリアの特徴、どういうお客様が多ったですか?

伊藤さん:ちょっと言い方よくないけど、昼間から飲んでいる方がいっぱいいますね(笑)。鏡月片手に駅の前で座って飲んでる、おじさんおばさんがいるみたいな(笑)。

 

大山:イメージ通りではありますね(笑)。ただそんな環境だけど楽しかったっていうのは、嫌な思いはしないってことですか?

伊藤さん:僕は嫌な思いは、あんまりしてないですね。多分自分自身が綺麗な街が合わないっていうか。一時、清澄白河の物件出てきて見に行っちゃったんですけど、絶対違うなと思って(笑)。

 

大山:なるほど(笑)。人間っぽさというか一度認めてくれたら受け入れてくれるみたいな、下町ならではのそういうのはあるんじゃないですか。

伊藤さん:ありました。本当に常連さんが多いですね。今日も新店舗の油そばに来てくれたお客さんはオープン当初から7年ずっと来てくれていて。そういう人たちが多いですね。

 

大山:焼き鳥屋さんの後は、どうなっていくんですか?

伊藤さん:当時気になる女の子が居たんですけど、結婚するために社会保険とかちゃんとしてないとと思って。そこの焼き鳥屋さんは(当時)ちゃんとしていなかったんですよ。それで僕、飯田橋の逓信病院の食堂に転職したんですよ。病院の中にある、一般の方が食べるレストランです。仕事はじゃがいも150個を剥くとか「すごくつまらないな」と思って(笑)。3か月ぐらい頑張ったんですけど。

 

大山:作業って感じですね。。

伊藤さん:お客さんの顔も見えないし「毎日ジャガイモと話すようになっていくのかな」とか思うと、本当につまらないなって思って(笑)。それで、辞めてプラプラしている時に、ぐりどっちんの近くにあったキャバクラで知り合った知り合いに声をかけられて『酔っ手羽っていう居酒屋始めるんだけど手伝ってよ』って言われて。

 

大山:そこで「酔っ手羽」が出てくるわけですね。私が伊藤さんに初めてお会いしたのは「酔っ手羽」時代でしたもんね。

伊藤さん:その焼き鳥屋さんから歩いて3分ぐらいのところだったんですよね。一応この焼き鳥屋さんの社長に「実はこういう話があって働こうと思います」って話はしましたね。筋を通しておかないと、おかしくなっちゃうから。それで「酔っ手羽」オープンして1週間目ぐらいの時に、僕が働き始めましたね。

 

大山:そこで「酔っ手羽」が誕生するわけですね。

伊藤さん:ちなみに僕、20歳ぐらいの時にそのキャバクラにはまってるんです。クレジットカードが魔法のカードだった。多分200万ぐらい借金したのかな。もっとしたのかな(笑)。シャンパンとか入れると、みんな優しくしてくれるもんで(笑)。

 

大山:それはそうっすよ、お仕事ですから(笑)。

伊藤さん:それで「酔っ手羽」に入ったんです。「酔っ手羽」は当時めちゃめちゃで、サーモンの刺身をスーパーで仕入れて・・・とか記事で書けないような感じでした(笑)。「もうそういうの辞めましょう」って言って、改善して行った感じです。

 

大山:じゃあほぼ「酔っ手羽」業態を作ったっていう感じですかね?

伊藤さん:作ったっていうほどじゃないですけどね。もう一人の責任者が元々いて最初から頑張っていたので。二人でやって行ったという感じですね。

 

大山:「酔っ手羽」がなんであんなにメニューが多いかと言ったら、当時の社長が皆さん幹部を引き連れて、土間土間に行ったと。そこでメニューを数えて100個あったから101個にしたという都市伝説的な話はホントなんですか?

伊藤さん:それは本当にそうなんです(笑)。あの頃は本当に、めちゃめちゃなことばっかりやっていましたね。これもマーケティングなのかな。どこかの街に出店しようとすると、そこの居酒屋調べて電話して「お疲れ様」って電話して。おかしいなって思う人もやっぱりいるんですよ。『誰ですか』みたいな。そうすると切っちゃう。本当にめちゃくちゃなことばっかりやってて(笑)。

 

大山:「酔っ手羽」は25歳ぐらいから働き始めてるんですけど、途中から(グラフが)下がるのは何だったんですか?

伊藤さん:本当に忙しくて。休みがなかなか取れないし、階段上ると息切れするし。それで33~34歳ぐらいの時に会社全体の屋形船で全店舗休みにして行ったときがあって、それで「僕やっと病院行ける」って思って病院に行ったら『すぐ入院して』って言われて。その時に血圧が、上が220、下が170ぐらいで心不全って言われて。

 

大山:マジですか。忙しそうではあったのですが、そんな状況とは知りませんでした。

伊藤さん:その病院はここら辺ではそこそこ大きいんですけど、ここじゃダメだから順天堂大の浦安にタクシーでそのまま行って。それで、そのまま入院しました。だからあんまり悪い意味ではなのですが、それがきっかけで独立を決めたって関じですね。

 

大山:そうだったのですね。私も取材などを通じて馬車馬のようにバリバリ働いているお二人を見ていて店舗出店数は伸びてたけど、そういう意味での喜びはあるけど、休みがないとか、結構体的にはしんどかったわけですね。

伊藤さん:しんどかったんですけど、独立するための勉強だと思ってなんとか頑張れっていましたね。多分、サラリーマンで働きたいと思っていたら辞めてましたね。

 

ロード3

  • ・35歳で独立。起死回生の人生スタート
  • ・コロナ禍の逆襲「かんぱい屋」がブレイク
  • ・油そば業態、初日130人の大行列
  • ・3年以内に10店舗体制、ホールディングス化へ

 

大山:その後、独立は何歳の時ですか?

伊藤さん:35歳ですね。入院をして、その当時『心臓移植も考えてください。落ち着かなかったら、そういう選択肢も考えてください』と言われて。1か月ぐらい入院して、結局落ち着いたんですけど。それで、人生1回しかないなと思って「多分僕は人より長く生きられないんだろうな」って思っていた時にたまたま親父のほっからかしにしてた名古屋の実家の土地が売れて(笑)。相続っていうか、一応借りたことになりまして。あと、他から借りた資金と合わせて、お店始めましたね。創業は西葛西です。

 

大山:それすごい(笑)。伊藤さんの人生、ついてないことばかりじゃないんですね!巡り合わせというか、運ですね。それでお店は最初からいきなりうまくいってるイメージがあったけど、実際はどうだったんですか?

伊藤さん:売上自体は赤になったことは一度もなかったですね。ただ、正直僕以外はウーロンハイの作り方を知らないような初めてのアルバイトの子達でやっていたので、最初生ビールで99円みたいな広告を打っていたのでお客さんは来ましたけど、多分お客さんはあんまり満足してなかったんじゃないかなって。でも売り上げはあって。

 

大山:完全に1からのスタートという感じですね。でも前職までの経験が生きたわけですね。

伊藤さん:ちょうどコロナになったタイミングで、2店舗目のここ、葛西店を契約したんですよ。契約して2週間後ぐらいで緊急事態宣言が出ちゃって(苦笑)。最初は「ラーメン食堂 まっしぐら」っていう名前で出して。それが全然うまくいかなくて、3ヶ月後にかんぱい屋に変えて。コロナ禍だったので、飲めるお店がなかったのでめちゃくちゃ流行って。

 

大山:なるほど。コロナの時はどういう戦略をとったんですか?国の休業要請は守りましたか?

伊藤さん:最初の半年ぐらいは守りました。でもこのまま従業員に対して働かないでずっとお金払ってたら、ダメになっちゃいそうだなと思って。全員集めてミーティングして「店開けるぞ」っていう話をして。そうしたら大爆発でしたよね。で、その大爆発してた時に、僕は船橋のキャバクラでコロナに感染して(苦笑)。

 

大山:また、いらんことするから(苦笑)。緊急事態宣言下で、お店を開けると言った時の従業員の反応はどうだったんですか?

伊藤さん:反対意見はなかったですね。『やりましょう』みたいな。あともう一つはコロナで休んでいる時に、街の人たちに対して唐揚げ弁当を200食無料で配布したんです。「なんかしないと」って思って。

 

大山:それは素晴らしいですね。それでコロナが明ける2023年までに結果、何店舗出したんですか?

伊藤さん:2022年に法人化をしてもう1店舗「豚のかんぱい屋」というお店を開けて、計3店舗になった感じです。

 

大山:当時、デリバリーとかも頑張ってやってたという印象があるんですけど、今はどうなっていますか?

伊藤さん:今は本当に売上の補填って感じですよね。当時は必死に頑張ろうと思っていましたけど。

 

大山:伊藤さんは以前から業態開発、商品開発のアイディアを沢山持っているなという印象はありますけれども。これはどういう風に行なっているのですか?

伊藤さん:「酔っ手羽」の時に業態開発みたいなことをずっとやらせてもらっていたので、それはずっと楽しくて。多分それがあったから続けられたので。

 

大山:死ぬ思いをしたんだけど、結果その時の体験は完全に生きているんですね。

伊藤さん:「ぐりとっちん」の原点があって、さらに「酔っ手羽」で勉強して、今があるっていう感じですね。

 

大山:大衆酒場から今回の新店舗は油そばをオープンしました。ラーメンもできるし、豚や焼き鳥もできるというのはすごいですよね。専門店やろうと思ったらできるっていうのは、やっぱりこれまでの経験の証ですよね。

伊藤さん:前職(プロジェクトM)の「肉の村山」っていうハンバーグさん、あれも僕が立ち上げたんです。ミスターデンジャーってステーキ屋さんをベンチマークして週3回ぐらい通ったんです。当時僕、3時のおやつにチャーシュー麺とか、カレー食べるのに2Lのコーラ飲んだりして(笑)。ご飯が、本当好きですね。岐阜タンメンって知ってます?めちゃめちゃ美味しいんですけど、それ食べたいって朝思い立って夕方に行っちゃうみたいな。

 

大山:それはすごい行動力ですね(笑)。

伊藤さん:食へのこだわりはありますね。でもファミリーマートのコンビニ弁当とかも全然食べるんですよ。普段食べてる食の幅は広いかもしれませんね。純粋に食べるのがすごい好きで。美味しいと思ったらベンチマークして真似てみるという感じですかね。

 

大山:お店の人が美味しいものを知ってるっていうのは、繁盛店で何よりも大事なことだなとは本当に思いますね。

伊藤さん:本当にそうですね。面接で食べることが嫌いな人は落としちゃいますね。

 

大山:なるほど、他にG-Visionさんに求める人物像とかってあったりするんですか?

伊藤さん:あとはやっぱり人を喜ばせるのが好きな人じゃないですか。努力と成長とチャレンジ。今ここにない未来を自分たちでつくる。そういうのはあると思います。前科前歴も関係ないです。

 

大山:今成長中の会社ですが、これからどういうふうにしていきたいか展望はありますか?

伊藤さん:小さい会社をいっぱい作りたくて。油そばで⚪︎⚪︎店舗作って、また違う業態を作って店舗増やして・・みたいな将来的にはホールディングスみたいにしたいなと思っています。業態ごとに社長を作って、油そばは油そばの社長、かんぱい屋はかんぱい屋の社長作って・・・みたいなのが良いですね。それであとは独立した人と、会社に残って雇われた人と2つ道を作ってあげられると良いなと。正直、本当にそのめちゃめちゃ大きい飲食企業になれば、年収1000万円、2000万円ってできるのかもしれないですけど、僕らぐらいの規模でとなかなかそうはさせてあげられないんですね。「ここまでは給料は上がるけど、あとは自分で頑張ってね」っていうのを作ってあげたい。

 

大山:社内独立の形ですね。

伊藤さん:完全独立も止めるつもりはないんだけど、やっぱり仲間っていた方がいいじゃないですか。僕も前職を辞めて独立したときは、1社だけ残してあとは全部変えました。筋というかしがらみというか。

だから最初は、結構僕も孤独だなと思ったんです。もちろん社内独立ですから会社にお金入れてもらったり(ロイヤリティ)とかすると思うんですけど、相談できる仲間がいるっていうのは多分いた方がいいんじゃないかなって思うんですよね。

 

大山:そう思います。飲食を取り巻く環境は厳しくなっている中で、成功の確率も昔に比べると相当低くなっていますしね。

伊藤さん:変な話、人がいなければ助けてあげることもできるじゃないですか。メニューに困っていれば助けてあげることも多分できるし。

 

大山:会社のミッション、中長期で掲げているもので数値的なものはありますか?

伊藤さん:掲げてはいないです。ただ、3年以内に10店舗目指してやっています。今が6店舗なのであと4店舗。油そばはエリアは関係なく出店できると思っています。かんぱい屋はこの東京東エリアで頑張って行ければいいかなと思っています。

 

大山:おもしろいですよね。今回、油そばに挑戦した戦略はあるんですか?

伊藤さん:単純に僕が好きなんですけど、ラーメン食堂の時スープを炊いてたんですよ。スープって火にかけると蒸発するじゃないですか。この見えない原価ってどうにかなんないのかなって思ってて。あと、居酒屋って結構マンパワーがいるじゃないですか。そのそういうのが好きな人、向いてる人もいると思うんですけど、そうじゃない人もいるじゃないですか。だからマンパワーに頼らない業態も、一つ軸で持ってたいなっていうふうに思って。だから本当はステーキ屋さんとかやりたいってずっと思ってたんですけど、今もう肉の値段がすごいじゃないですか。正直『米の値段が上がったから、油そばやったでしょ』みたいに思われるのがすごく嫌で(笑)。実はこれ2年ぐらい前から構想があって、やっと形にできた時に『油そばがちょっと流行ってきてるよね』みたいになっちゃってるのも、ちょっと嫌なんですけど(笑)。

油そば 八三郎という業態なのですが、想定以上で初日は油そば1250円をオープン記念で500円でやったんですよ。そうしたら130人くらい並んでしまって12時で打ち止めにしました。オペレーションがもう全然うまくいかなくて(苦笑)。12時に入った人が、最後食べれたの16時でした(苦笑)。こちらは鋭意改善しています。

 

大山:それはすごい!確かに大手チェーン店さんも、油そばをメニューインし始めましたよね。

伊藤さん:まあまあ、しょうがないですけどね。本当は去年の6月ぐらいに平井で、テナントの契約寸前まで行ってたんです。でも古い建物の1階、2階の物件だったんですけど雨漏りが見つかって、これやばいなって屋上に上がってみたら、雨漏りをブルーシートで押さえてて(笑)。家賃安くするんで「G-Visionさんで、直してもらえないですか」みたいなことを言われたんですが不安な気持ちがいっぱい出てきて、仲間の一級建築士に建物みてもらったら他も結構危ないから、そこだけじゃなくて結局全部直さなきゃいけなくなるみたいに言われて諦めたんです。

 

大山:油そばを出したばかりですが、他に気になってる業態とかっていうのはあるんですか?

伊藤さん:喫茶店もやりたいですし。カフェじゃないんですよね。飯がうまい喫茶店。ナポリタンとかホットサンドがうまいお店。あとはもちろんそのステーキ屋さんもやりたいし、海外出店もしたい。

 

大山:おぉ!海外はどこを見ていますか?

伊藤さん:とりあえずカナダからやりたい。あと東南アジアもやりたいですし。本当は台湾の仲間がいっぱいいるから、台湾もやりたいんですけどね。インドネシアだったり。ベトナムだったりとかもやってみたいなと思いますね。

 

大山:それでは健康に気を付けて頑張らないといけないですね。ありがとうございました!

 

編集後記

前職の時にお会いしてから、朗らかな性格ながらバリバリと仕事をする「仕事の鬼」まさにそんな印象の伊藤さんでしたが、今回伊藤さんの半生をお聞きし、より応援したい気持ちになりました。仕事と「食」が好きで、ひたすらにお客様と従業員に向き合い繁盛店を作る。まさに飲食人の鏡だと思いました。くれぐれもいらんことはせず(笑)、健康でこれからも素敵なお店を作っていってもらいたいと思いました。(聞き手:大山 正)

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