スペシャル企画

クロスロード〜外食経営者のルーツと転機〜 vol.8/株式会社MaruDining 代表取締役 加藤 涼太氏

この企画は外食経営者の「クロスロード」、すなわち人生の転機となった出来事や自身のルーツについて、ライフチャートを経営者自ら描いて頂き、それに沿ってこれまでの人生を深掘りしていくインタビュー企画となっています。

第8回目は、北海道から九州まで全国13店舗展開している株式会社MaruDiningの加藤 涼太さんです。ひとりぼっちで寂しかった幼少期を経て、小学生で「人たらし力」が覚醒。飲食の道から営業マンを経て、無謀な3店舗同時オープンで独立。すぐにコロナ禍突入。専門店に活路を見出し全国展開、年商30億円を目指すMaruDining 加藤さんにお話を伺いました。


ロード1

  • ・5歳で引越し。ひとりぼっち
  • ・小2でクラスの中心に
  • ・勉強より運動。モテるから
  • ・17歳で飲食店バイト

 

大山:加藤少年の幼少期、いきなり5歳までギュッといい感じに(グラフが)上がっているんですけど、どこで生まれ、どんな生活をし、どんなお子さんだったのかをお聞きしたいです。

加藤さん:僕は神奈川県横浜市で生まれました。父と母と子1人、ひとりっ子です。当時よくベイスターズの試合を見に行っていました。めちゃくちゃ強かった時代が4~5歳ぐらいの時で、僕が5歳の時に優勝したんですけど、その年にマリノスを見に行って、サッカーに心変わりしたのがその年で、どっちも優勝したんですよね。すごい時代だったんですけど、ここから(グラフが)下がってるのが、5歳の時に両親が離婚して、ゆかりのない茨城県に飛ばされるっていう。これが5歳から下がっている理由ですね。

 

大山:そうだったのですね。子供ながらに苦労されたのですね。

加藤さん:はい。父親について行ったんですよね。なので父子家庭で育ちました。祖母の家が近かったので、ほぼ祖母といました。5歳から6歳ぐらいだったと思うんですけど幼稚園に行かないっていう選択をして、茨城県の団地の中で、1人で遊んでいましたね、マジで寂しかったです。それがもう下がっている時ですね。それで6歳から小学校に入学したのですが、ここでも知らない人、転入生みたいな雰囲気でした。

 

大山:ですよね、幼稚園も行っていないってことは地元に繋がりがないわけですよね。

加藤さん:ないですね。田舎なので、みんな幼稚園とか保育園が一緒の人達がそのまま上がってくるから独りぼっち。10歳ぐらいまでそうでした。ただ、10歳ぐらいから人当たりみたいなところが覚醒したのか、わからないですけどみんな友達になっていました(笑)。

 

大山:それは何がきっかけなんですか?

加藤さん:何なんですかね…。小2ぐらいの時には友達みんなの前で踊ってたりして、結構中心人物になっていたと思います。きっかけは覚えていないですが、今の人格が形成されたのはこの時ぐらいからですね。

 

大山:“明るいひょうきんなムードメーカー”って感じだったんですね。運動はサッカーをやっていたんですか?

加藤さん:サッカーは小学校5年生からですね。小5まで自分の中で殻みたいのがあって。みんなサッカークラブとか野球クラブに入りますよね。みんな何かしらやっているけど、1人で帰っていて入らなかったんですよ。小5でやっと「やってみようかな」ってなりました。運動神経が覚醒したのも小5ぐらいなんです。ここで(グラフが)上がっているのは、学生時代モテましたね(笑)。

足が速かったので、15歳ぐらいの時は、陸上大会とかも市で2位になって。50メートル6秒ぐらいで走ってたんですよ。

 

大山:15歳でそれはすごいですね!

加藤さん:体育祭とかでも、毎年『キャー』みたいな。それを狙って生きてた感じです。10歳ぐらいから父親に『勉強より運動頑張れ。そっちの方がモテるから』みたいな教育を受けてて。別に勉強も普通にできていたんですけど、運動をとりあえず頑張って、マラソン大会でも1位、2位とかにはなっていましたね。中学はサッカー部の部長で、高校は高1からクラブチームのセレクション受けて、プロが1人~3人ぐらいいるようなクラブに入って、日本代表の女子チームの監督してた人に教えてもらってたんですよ。1年で挫折してしまって、辞めましたけどね。

 

大山:そうなんですね。サッカー自体も、ここで辞めたんですか?

加藤さん:クラブチームを辞めて高校のサッカー部に入りました、即戦力だったので。けど、そこでは部活に本気になっていなくて、バイトをしたりしながらやっていましたね。この時点から飲食店経験が始まったんです。17歳くらいですね。地元のホテルの1階に入ってる法事とかで使うようなお店で、割烹着を着てやってましたね。そこで勉強しました。

 

大山:そうなんですね。和食ってことですね。

加藤さん:はい。THE 和食でした。お葬式とか、法事とか、ホテルの朝食を出したりしていました。それで18歳で大学に入るわけなんですけども、全然飲食関係なく、スポーツトレーナーになりたくて医療科学部に行きました。自分自身、結構怪我が多い人間だったので「選手を支えたい」と思って、指定校推薦で入りました。東京の帝京科学大学です。僕が入った時で4期生とかでした。

 

ロード2

  • ・「明日上野来い」
  • ・20歳で大学中退
  • ・売れない営業マンは宴会部長
  • ・バイト掛け持ち2つ

大山:新しい大学なんですね。

加藤さん:はい。帝京グループなので、結構お金かかって大変でした。それで、茨城県の取手市から、30分ぐらいかけて通ってたんですけど、めんどくさいので引っ越したんですよ。大学でも、今までしていたキャラのまま、騒がしいキャラクターでいたので、大学入学して3カ月ぐらいである日先輩に『うるせえよ』と怒られて(苦笑)。そこで『お前、バイト何やってるんだ』と。「地元で飲食やっていて、東京でバイトしたいんです」と話をして。そしたら『お前、明日上野来い』って言われて「何の仕事ですか?」って聞いたら『キャッチだよ』って言われて。ここからその会社に行きました。

 

大山:なるほど。当時勢いありましたものね。このグラフがまだまだ20歳から上がっていくわけですけれども、これはどういう事情なんですか?

加藤さん:プライベートのところで言うと、またモテ期が来たのと、20歳で大学を辞めることになって、でも出席日数が足りないとかではなくて、就職セミナーみたいな『学歴が必要じゃなくて、コミュニケーション能力が必要だ』みたいな講義を聞いて「ああ、じゃあこの学校で多分一番コミュニケーション能力があるから辞めよう」って思って、次の日ぐらいに書類提出して本当に辞めました。ここで、キャッチの社員になりました。結構ちゃんと仕事に対して責任感持ってやっていました。基本的には管理をしていたんです。お客さんをお店に持ってくることも必要ですけど、大学生とか、アルバイトが辞めないようにとか、出勤させるようにとか、売上を作らせるとかをマネジメントしていました。20歳の途中ぐらいから、もっと仕事に前向きになって、お店の売上を考えてました。エリアの売上を考えると「じゃあ、誰をどこに配置して、どういうマネジメントして、どういう席効率で最大化できるのか?」みたいなことをずっと考えていました。それが20歳~22歳ぐらいまでです。

 

大山:それはいい経験ですね。プレイヤーからマネジメントに入っているわけなんですけど、それはプレイヤーで優秀じゃないとマネージャーにはなれないですよね?

加藤さん:そんなことはないないです、当時は優秀だったかもしれないですけど。18〜19歳ぐらいの時は、街のゴキブリみたいな。お客さんに声をかけないし、パチンコ行ってるしみたいな(笑)。それが19歳の時に渋谷で出会った方がいて、とんでもない責任者の方で、その人と出会って仕事の価値観が変わったんですよね。その方は父親だと思っています。

そこで仕事に向き合う姿勢とかも勉強できたし、売上の作り方も勉強になったし、この人が来てから僕は個人の売上が2.5倍くらいになりました。

 

大山:それはすごい。バイトで最高の月収って、いくらだったんですか?

加藤さん:バイトだった時は20万円とかでしたね。社員になってからは35〜40万円でした。20歳ぐらいからです。けどずっとお金なかったですね、使いまくってました(笑)。でも結構人に使っていましたね。 後輩のためにずっと使っていました。

 

大山:エリアとしては、ずっと上野にいたんですか?

加藤さん:ずっと上野で、22歳ぐらいの時に船橋ですね。立ち上げがあったんです。僕の直上の上司のエリアだったんです。立ち上げというか、外(外販)の整備ですね。

中のことは、この時点でもほぼやってない状態でした。ビールも作ったこともない。なので、本当に席効率のことだけわかっているって感じですね。なので立ち上げはそんなに勉強になっていないんですよ。外の環境なので、中の立ち上げのことは何も勉強になってないですね。「この席、こういう使い方ができるなぁ」とかはあるんですけど、見てるだけです。

 

大山:現在船橋でもお店を展開していますが、そこでの経験で土地勘があるからですか?

加藤さん:その時代に、バトンタッチしたんですよ。その時自分が上野の責任者みたいな感じになっていたので、行き来はちょろっとしていたんですけど、ずっとは船橋に居られなくて。そこで責任者に置いたのが、今うちの副社長ですね。

 

大山:あ、そうなんですね!ずっと昔からのお仲間なのですね。

加藤さん:そうです。小学校から知っています。ずっと隣の小学校、隣の中学校で茨城のサッカークラブが一緒で、めちゃくちゃ嫌いな人でした(苦笑)。僕はライバル視していたんですよね。でも高校で一緒になって。ほぼ毎日一緒に遊んでいました。彼は専門学校行って就職してましたね。

僕、15歳ぐらいからずっとSNS大好き人間で、「前略プロフィール」もそうだし、mixiもだし、ツイッターもめっちゃやっていて、やっぱりキャッチ始めて投稿が変わってくるわけですよ。意図してないんですけど、思ったこと投稿したりとか、写真投稿してたら『仕事何やってるの?』みたいな連絡が結構きて、仕事を紹介しました。7人ぐらい紹介しましたね。その中の1人が今の副社長で、船橋の社員やってくれることになって。

それで僕は23歳ぐらいでキャッチを辞めました。結局5年ぐらいしかやってないんですよ。

父親が会社をやっているんですけど、全部話してたんですよ。こういう仕事してますよとか。そしたら『一回社会人になった方が良いよ』って言われて。

 

大山:そうなんですね。インタビューのいつものパターンだと、この辺りから独立をするという方が多かったりするのですが!

加藤さん:20歳ぐらいの時に、後輩何人かで居酒屋やろうって言ってたんですよね。仲間のキャッチの人たちってみんな独立してたんです。僕はキャッチが向いてなかったんですよ、あんまりいいものじゃないので。いいものは売れますけど、押し売りに近いじゃないですか。これで友達とか家族呼べるのかって思ったときにそうじゃなかったので。家族とか、大切な人を呼べる店を作りたいなと思ったのが20歳の時ですね。

 

大山:まさに「新宿スワン」の世界じゃないですか(笑)。良心の呵責に、悩むわけですね。

加藤さん:もう仕事だからって思ってやっていたので、だったら自分のお店を作るにしても、喜んでもらった方がいいだろうと思って。キャッチはただの集客手段で、中がしっかりしてればお客さんは満足して帰るからって思っていて、お店をやるにしてもそういうお店をやらないと意味がないと思っていました。

 

大山:なるほどです。それでお父さんに「就職しなさい」と言われて就職はしたんですか?

加藤さん:しました。グルメ媒体の営業です。営業代行の代理店です。だからもう、めちゃくちゃ驚かれましたよね。(前職で)出世の時だったんですよね。給料が毎月50万貰えるよ、みたいなタイミングだったので、全員に残った方がいいと言われましたね。でも反対を押し切って、辞めちゃったんですよね。

でも(今一緒にやってる)副社長は残るって言っていて。前に、20歳の時に一緒に居酒屋やろうって話をしていたので、お店を出すときに合流できればいいんじゃないかって。ワンピースみたいな、2年後また会おうって。飲食店やるにあたって、他で就職をすることで何か得るものがあればなと思いまして。

 

大山:それはすごい。よく考えていましたね。

加藤さん:でも23歳から24歳ぐらいのとき、営業は大変でしたね。大将ワンオペのお店に飛び込み営業して怒られたり。その時は、あんまり真面目にやってなかったかな。飲食店をやってるオーナーと会える仕事だったので「この人、どんなこと考えてるんだろう」みたいなことをヒアリングだけしたりとか。全然売れなかったですね。けど売れなくても、飲み会でおもろければ何も言われなかったです。神みたいな扱いされてました(笑)

当時SVだった上司に『今度歓送迎会やるんだけど、この店だから』って言われて、僕は新入社員で2ヶ月目とかでしたけど「この店はダメです。キャッチの店です」って言いました(笑)。自分らもやっていたので見て分かるわけですよ。それで「次回から僕に幹事やらせてください」って言って、全部巻き取って、1次会、2次会まで全部ちゃんと盛り上げて、解散までちゃんと幹事をやるっていうのをやって、数字が良くなくても怒られない、神の領域みたいなのを築きました。

 

大山:営業会社でそんなことあります(笑)!?人柄ですね。

加藤さん:中2くらいの時に、生き方をこう決めたんですよね。「豊臣秀吉になろう」と思って。人が草履を温めてとか、誰からも嫌われなかった「人たらし」って言われてたわけだから、「人たらし」になろうと思ったのが中2ぐらいで、その時点から敵がいなくなったんですよ。先生とか、いじめっ子とか、いじめられっ子とかも全員友達っていう生き方をして、だから人に恵まれたのかなって思っています。そして今の会社があるのが、TOYOTOMIビルですね。運命を感じています(笑)

 

大山:おもしろいですね。そこから飲食に戻っていくのは、どんなきっかけだったんですか?

加藤さん:それで23歳の途中から、ふと「俺、ビール作ったことないや」と思って、その営業会社と掛け持ちで居酒屋のアルバイトを始めて、それが船橋です。船橋で同い年の友達が、元キャッチやってたんですけど、業務委託っていう形で居酒屋をやっていると聞いて、そこでバイトとして働かせてもらって。

そこの今の奥さんに当たる人から、教育を受けるんですよね。めちゃめちゃ怖かったです。でもやっぱりアルバイトしてて天職だと思ったんですよね。居酒屋のホールが。売上を立てるのも好きだったし、人と話すのも好きですし、人を飲ませるのも結構好きで、お客さんからドリンクもらうとかも出来ていて。そこから僕は、船橋で「テキーラボーイ」っていうのを始めて。ショットガンの瓶があったんですけど、そこにテキーラを付けて「飲みます?」みたいにして席をまわって。楽しかったし、売上になったし。「もっと違うお店も見たいな」を思うようになるんですよね。

 

大山:おもしろいですね。そこから飲食の接客に沼って行くわけですね。

加藤さん:営業の会社の職場は赤坂だったんですね。家は、当時足立区の五反野だったんですけど、船橋にバイトに行ってんたんです。それで、麻布十番の居酒屋にも入りました。

 

大山:あらら、それは体がいくつあっても足りない(笑)!

加藤さん:それが24歳で、麻布十番の居酒屋さんが閉店しちゃったんですけど、そこの会社は何店舗かやっていたんですけど、ここでまた第二の出会いです。僕にキャッチやれよって飲食業界に入れてくれた先輩が、その麻布十番の会社にいて『お前は神楽坂に来い、社長と会わせてやる』って。それで社長に会って、当時5店舗ぐらい都内でやっている人で。そこで出会って、24歳の時に神楽坂のお店の店長になりました。

 

ロード3

  • ・無謀な創業3店舗同時オープン
  • ・キャッチとの決別
  • ・専門店、人に教えてもらい活路を見出す
  • ・2030年までに年商30億円やりきる

 

大山:これまた激動。ってことは、営業をやめて居酒屋の店長になるんですね。

加藤さん:そうですね。独立を前提とした入社ですね。その人はもう業務委託を僕にやらせたかったんですよ。

 

大山:そうでしたか。でも24歳からお店をやるわけですが、ここからグラフが下がるのは何があったんですか?

加藤さん:もう(グラフ)この辺までは、ピークですよね。自分でお店もらって、すぐ店長になって。そこは5年やっていたお店なんですけど、自分が店長になって、6年目で一番の売上を作れましたし、いろいろ数字も結構開示している感じだったので「あ、こうやって管理してるんだ」と、勉強になりました。

「販促の広告とかも自分で見たいです」って言っていました。Instagramとか、Googleとかやっていなかったので、自分で調べて勉強してページを作ったり。それで26歳で『このお店やらせてあげるよ』って言ってもらえたんですよね。

 

大山:努力が報われるわけですね!なんてお店ですか?

加藤さん:神楽坂の「せんや」ってお店です。雑居ビルの6階にあるんですけど、7階もその社長のお店だったんですよね。なので6~7階の2フロアでした。営業していて「こんなに売れるんだ。利益出るじゃん」と思ったんですよね。そして、人がめちゃくちゃいたんですよ。独立メンバーが6人いて、あと地元の友達とか、地元の友達の後輩とか、弟とかでプラス3人いました。地元の彷徨ってたメンバーとかを、アルバイトで入れたりしました。みんなフリーターだからめっちゃ出勤してくれて、それで売上を作って、独立するってなったんですけど、方や(今の)副社長はまだ船橋でキャッチやってたんですね。別のコネクションができていて『あんまり売り上げ良くないから若いやつにやらせたい』っていう話を副社長の方も持ってきて「じゃあちょっと聞こう」と思って、でも神楽坂も2店舗言われているわけじゃないですか。それで「もう全部やろう」となりました。

 

大山:若手あるあるですね(笑)!無敵だと思っていますもんね。

加藤さん:無敵だったんです。これが26歳の頃です。(※25になってますけど)それで、2020年1月に、前代未聞の3店舗同時オープン。でも全部業務委託での引き継ぎだから、ほぼお金かかっていないです。保証金ちょっと払ったぐらいです。

 

大山:それが2020年なんですね。ってことは・・・・・(汗)

加藤さん:はい(苦笑)。そこから1ヶ月~2ヶ月で落ちるんです。コロナが来て。

 

大山:それでそれで、どうなったんですか?

加藤さん:コロナ襲来で、バコーンと下がったわけですけども、1月は普通に売り上げてたんですよ。船橋はキャッチして、神楽坂の6階、7階はハイブリッドの形で店内はちゃんとしてるけど、外に呼び込みはいるっていう。2月にコロナがいよいよパンデミックになって、飯田橋がゴーストタウンになりました。

 

大山:でしたよね。神楽坂・飯田橋は、オフィス街と地元の人の街ですからね。

加藤さん:本当に人がいなかったですね。もう辞めた方がいいなと思って、それでもう「いろいろ払えません」っていう状態で。始めて1ヶ月なので無理ですよね、何もできない。経営も何も知らないですし、お金の借り方とかもわからない。だけど、船橋には希望があったんです。人がいたんですよね。なので船橋に全振りするしかないと思って、全社員を集めました。

 

大山:神楽坂は、お店を閉めたんですか?

加藤さん:そうですね、その頃は閉めています。全社員で船橋に行って、役員は給料0。社員は10万円ぐらいしか払えていなかったです。今では普通ですけど、UberEatsとかやってみたり、マスクを仕入れて店下で売ったり、お弁当とかも店下で売って、お店は昼の12時オープン、朝5時閉店で営業して、それがめちゃくちゃ売れたんですよ。そうするしか選択肢がなかったんですよね、当時の僕らには。

 

大山:給料10万円のなのに、社員さんがついてきたというのは、何が理由だと思いますか?

加藤さん:背中じゃないですか。僕はちゃんと言いました。「僕らは0でやるよ。でもこんだけ働くし、こんだけやるよ」って。そういう事言わない方が(本当は)かっこいいんですけど、言ったんですよ。「だから、頼む」と。「俺はこうやるから、辞めたいなら辞めていい」って言ったんですけど、皆辞めなかったですね。背中で見せられたのかなって思います。

 

大山:加藤さんの会社にはどんな人が合う、どんな人材だったら採用したいですか?

加藤さん:特長で言うと、一番いいのは元キャッチ。飲食経験者よりも元キャッチ。なぜかというと頑張るから。もう一つは飲食が好きな人。この何年間かで、この仕事って好きじゃないと続けられないって気づいたんですよ。 で、総じてどういうキャラクターが欲しいかというと菊池風磨さんみたいな人。ユーモアあるというか、ポジティブな人、そして愛がある人ですね。

 

大山:大事なことですね。同じ船、同じバスに乗れるかってやつですね。3店舗同時オープンで無謀なことをしたけれど、船橋があったことによって、救われたわけですね。

加藤さん:船橋がなかったら無理でしたね。結構本当に良くないことも考えてました。自己破産とか、身を投げるとか。でも「ついてきた人に悪いな」と思いました。なのでその時ずっと言ってたのが「とりあえず笑ってよ」って言って、いつもヘラヘラしてたんですよ。

それが会社のHPにも書いてあるミッションに繋がるんですよね。

死ぬこと以外はかすり傷だと思って生きている感じですね。

 

大山:いい話ですね。ただその後もグラフが下がっているのですが、これはどういうことなのですか?

加藤さん:いい話しましたが(笑)、ただ当時コロナでIQが低くなってるわけですよ(苦笑)。業務委託の話が、別口で来たんですよ。初期費用がかからないで出店できるという話で。それで2020年の6月~7月ですね、その頃、一番IQが低くなっているので「お金を返すためには出店すればいいんだ!出店して同じように、時短営業とか休業協力金とか貰わずに普通に開けて普通に売ればいいんだ!」って思って、本八幡に新店をオープンしたんですよ。

 

大山:あらら、え!でも、神楽坂はどうなったんですか?いつまで営業していたんですか?

加藤さん:6月ぐらいですね。頭おかしいですよね(笑)。でも、それがまた当たるんですよね。それで、11月にはもう1店舗出そうってなったんですよ、あだ借金あるのに(苦笑)。

 

大山:なるほど、神楽坂は厳しかったけど、本八幡は良かったわけですね!

加藤さん:はい。ただ、この時は個人事業主で銀行に行ったんですけど、お金は借りられなかったですね。そんな時に『福島の出店なんてどう?』って話をまたもらって、その方たちも同じように『営業して頑張ろうぜ』って言ってくれて。神楽坂でのトラウマは固定費だったので。家賃50万円、多分普通なんでしょうけど当時の僕には高いと思っていて、固定費が低いところで出店してみようと思って。福島だと家賃30万円ぐらいで80席とかのお店ができるんですよね(当時)。

 

大山:これまた、すごいチャレンジングですね。

加藤さん:それで2020年11月にやろうとなって、福島県行ったんですけど、飲食リテラシーが関東の店舗ほど高くないというか「なんでこれで営業できているんだろう」みたいなところが結構あると。総合居酒屋の集まりで、東京だと専門店が基本の中で、福島には専門店がないなと。

Googkeの検索ワードで、「福島県×⚪︎⚪︎」で何が検索されているかと調べた時に、1位が馬肉、2位が日本酒だったんです。「・・・ってことは、日本酒と馬肉の専門店やろう」ということになって、これが馬肉に出会うきっかけなんです。それで2020年11月にオープンしました。そこまで上がるには早かったんですけど、借金返し終わって、福島県は今0店舗ですけど、MAXで3店舗まで出したんですよ。

 

大山:前職でのマーケティングや広告の経験が生きたわけですね。

加藤さん:その後盛岡に出したんですけど、そこが初めての直営です。一回やってみようと。ここは今もあります。東北での展開は専門店をやればいいとわかったので、で一家ダイニングの「ラムちゃん」や「ときわ亭」が流行っていて、ラムちゃんがジンギスカンとハイボール、ときわ亭は焼肉とレモンサワーだったので、レモンサワーとジンギスカンというお店ををやったんです。滑りました(笑)。

でも、(グラフが)どんどん上がっているのは、この業態開発が楽しくなっちゃって、めちゃくちゃ出店したんですよ。

 

大山:そうなんですね。何店舗ぐらい作ったのですか?

加藤さん:7店舗ぐらいまで伸びたんです。それくらいから下がってるのはキャッチとの決別なんですけど、もう1店舗でしかキャッチをやっていなくて。もうこれからはキャッチの時代じゃないし、そもそもやりたいことと反しているので。

入り口はキャッチでも、満足度高いお店を作ろうって思ったんですけど、僕の中ではこれは不可能だと気づいたんですよ。出口でお客さんが笑ってない、みたいな現象が船橋で起きていて、いっそのこと「辞めよう」と思いました。その辞めた反動があまりにも大きくて、700万円とか売上が下がって。屋台骨のキャッシュを生んでくれる店舗が、キャッシュを生んでくれなくなって、急にあったものがなくなったので、本当にやばくなってしまって。出来たお金は貯金しないで、全部出店につぎ込んていたので。なくなったと思って融資受けに行っても、貸してくれないわけですよ(苦笑)。

 

大山:そうですよね。まだ実績はないわけだし、財務状況も決して良いわけじゃないのですものね。でもここから復活するのですね?

加藤さん:そんなときに、飲食の先輩から牡蠣の業態を教えてもらったんですよ。「もう一発逆転、牡蠣しかないな」と思って。船橋で。それでシーシャバーにいる時に、店名どうしようかな・・と考えて「#カキもビールも生が好き」にしよう!と思いついて、その日のうちににロゴを作って15日後にオープンしました。それが大当たりしたんですよね。だってもう本当にやばかったんですよ。元々1,000万円とか売れていたのが、100~200万円しか売れていなかったので。

 

大山:そんなに!売上200万円って10坪とかでも従業員・家賃とか考えたら、完全に赤字ですからね。

加藤さん:それで30歳まではこんな性格なんですけど、人の話を聞かなかったんですよ。外食の方のセミナーとか嫌だったし、飲食の先輩の話を聞きたくなかったんです。「うちはうちなので」っていうスタンスでやっていたんですけど、30歳を機にいろんな人の話を聞くようになって。それまでは人の業態をやるとかっていうことは絶対にやれなかったんです。作る方が好きだったので。それで、doubleの松井さんと出会って赤羽に出店しました。

餃子酒場 肉汁とっつぁん 赤羽店

【噂の繁盛店】渋谷の突如爆誕した「肉汁とっつぁん」の勢いが止まらない!空中階でも勝てる業態の強さに迫る!(フードスタジアム:2025.02.17)

 

大山:30歳を機にいろいろ先輩の話を聞くようになったのは、なんでですか?

加藤さん:限界を感じたんです。僕らってドミナント出来ていないんですよ。福岡にあって、北海道にもあって…別に売り上げは悪くないんですけど、社員の成長がないとか、横領が発覚したりとか(汗)。自分で全部を見るのは、限界を感じて。

そういうところを全く考えずに突っ走っていたので。管理が難しくて限界を感じたから、人の話を聞くしかないなと思って。これはもう20店舗以上やってる人の話を聞いたり、どうやってるのかなっていうのをいい意味で盗まない限りは自分の成長はないと思いましたね。聞いてよかったと思います。

取材場所として利用させてもらったのが船橋の「銀シャリ鮮魚 オサカナマルシェ」。自分が得意としてきた”諸刃の剣”を捨て専門店に活路を見出し、繁盛店を作り上げている。

 

大山:いいタイミングで、お会いできました(笑)!以前に会っていたら取材すること自体、叶っていなかったかもしれませんね。それでは最後に今後の展開、展望を教えてください。

加藤さん:今思い返すと、「自分の会社、お店がグランドオープンする時の立ち上げが弱かったな」と痛感して「マニュアルやオペレーションとかいうのを整備しないと多店舗展開できないな」と思うようになったんです。素直に人から教えてもらったこと、与えてもらったものを自分の会社に還元して、浸透させることがまず大切だと思って。謙虚に人の話を聞いて、人にやり方を教えてもらって店舗を展開していきたいです。だから今は出店っていうよりも、土台をしっかり作って、2030年には年商30億円を目指しています。

会社って目標必要じゃないですか。あんまり目標を立てるのは得意じゃないんですよ。けど社員が増えてきたので、会社理念とか目標とか定めないといけないので年商30億円って言っちゃったもんだから、やるしかないです。20歳の時からそうですね。先に「独立する」とか言ったことがなんとかなっちゃってるので、なんとかするために言いまくって、年商30億円と言ってます。やるしかないです。なんとかなると思っているので。

 

大山:素晴らしいですね。ありがとうございました。今後の活躍も応援しています!

 

編集後記

「ハチャメチャな人は楽しい」それを地で行っているのが今回の加藤さんだと心底思いました(笑)。人たらし、宴会部長、パリピと聞いて、本当かなと思った人もいるかと思います。

 

取材の後にたくさん語り合って盃を交わし、加藤さんは最終的にこうなっていました・・・

どういうきっかけでこうなったのかは覚えていませんが(笑)、私が保証します。確かに彼はパリピでした(笑)。「また会いたい」そう思わせてくれる魅力が、加藤さんには確かにあります。底抜けに明るい、何かをやってくれそうなオーラ満載の加藤さん。今後も応援していきたいと思います!(聞き手:大山 正)

スペシャル企画一覧トップへ

Uber Eats レストランパートナー募集