鮒忠が第4の事業として料亭・割烹事業に
~参入するまでの道のり~
筆者は今年10月、イースト新書『居酒屋チェーン戦国史』を出版した。その第1章で、“居酒屋チェーンの元祖”である鮒忠創業者の根本忠雄(故人)を取り上げた。
後年「焼き鳥の父」と呼ばれる根本は1913年(大正2年)、東京・深川生まれ。尋常小学校卒業。11歳で米屋に丁稚奉公、18歳で独立、根本精米店を興した。41年精米店を廃業し、川魚屋「鮒忠」を開業する。合計4回の軍隊(陸軍)生活を経験、戦後、川魚の露店商を経て行商をやりながら46年9月、浅草・千束にバラックの粗末な建物で川魚屋「鮒忠」を創業した。同年12月、冬場にドジョウやウナギが獲れなくなるので、つなぎに当時高級食材だった鶏肉を串に刺し、焼き鳥にして販売、大ヒットさせた。50年3月、バラックの店を取り壊し、37・5坪の敷地面積に2階建ての店舗を作った。1階が惣菜屋、2階が焼き鳥酒場「鮒忠」であった。この鮒忠の第1号店が大繁盛し、鮒忠の快進撃が始まった。
鮒忠の急成長を決定づけたのが、50年6月に勃発した朝鮮戦争であった。米軍用に特需のブロイラー(食肉専用・大量飼育用の雑種鶏の総称)が農家で大量に作られたが、翌51年休戦交渉が始まると、暴落した。この時根本はブロイラーを大量に買い求めた。低価格の焼き鳥にして販売するのと同時に、軍隊時代に中国でよく食べたのをヒントに「ひな鳥の丸むし焼き」(ローストチキン)を創案し、薄利多売して大ヒットさせた。
根本が起業家として優れていたのはブロイラーの黎明期であったのにもかかわらず、その将来性に着目し、いち早く足立区保木間に第1仕入部(後の東京工場)を開設したことだ。根本はこの仕入部をベースにブロイラーの生産農家と直接取引した。そして仕入れたブロイラーを加工、流通、卸売するルートを築いていった。鮒忠の店舗に卸すだけではなく、他の飲食店や居酒屋などにも卸した。今から70年近く前に養鶏場の6次産業化モデルを構築したというのだから、並みのことではない。鮒忠は75年には東京工場を生産流通本部と改称、生産工場4つ、セントラルキッチン1つを持つまでに急拡大した。
当時、鮒忠は直営10店、FC60店舖展開していたが、牽引車となったのがブロイラーなどの卸売部門であった。売上高は58億円を記録、鮒忠の売上高構成比の7割を稼ぎ、全国の鶏肉市場の10%のシェアを占める大手のブロイラー卸売業者にのし上がったのである。ちなみに78年(昭和53年)にはFCで100店舗を突破した。
70年代後半から80年代にかけて、鮒忠は郊外型大型店や都心型大型店を展開、経営規模は最大化した。創業者の根本には「人材や組織も整っていないのに経営の拡大スピードを急ぎすぎた」という反省があったようだ。80年には根本は会長に退き、社長には長男の修司が就いた。修司は立教大学で観光・サービス業を学んだ。飲食業関係の友達にも恵まれ、将来を嘱望されていた。修司はPOSシステムの導入、生産流通本部のコンピュータの刷新など、内部体制の強化に努めた。一方、多業態化に挑戦した。
88年に創業者の根本が鬼籍に入った。この後2代目社長の修司が鮒忠の近代化を推進した。ところが修司にとって不幸だったのは「間質性肺炎」という難病に冒されていたことだ。人間ドックに入って発見されるが、手当の甲斐もなく05年に他界した。享年65。05年8月、修司の長男の修氏が鮒忠の3代目社長に就任、現在に至っている。
鮒忠の現況は次のようになっている。
1、「フードサービス事業部」(鶏肉、焼き鳥、ウナギなど卸販売。10事業所展開)。売上高50億円。
2、「外食おもてなし事業部」(居酒屋、和食店、惣菜店など直営・FC加盟店で30店舗展開)。売上高12億円。
3、「お弁当・ケータリングサービス事業部」(ISO22000認証取得。東京・足立区の東京セントラルキッチンで1日2万食製造)。売上高12億円。
鮒忠が破産した浅草の老舗割烹「草津亭」の事業を譲受
鮒忠が11月に承継した浅草の老舗割烹「草津亭」は創業1872年(明治5年)、初代が「草津温泉の湯の花を持ち帰って店を開け!」という大黒天の夢のお告げにより、文京区駒込神明町に温泉割烹を開業したのが始まりだ。その後日本橋茅場町を経て、1885年に浅草で料亭「草津亭」として開店した。江戸饗応料理の伝統を受け継ぐ格式の高い料亭として続いて来たが、大規模修繕が必要になり、2015年に閉店した。そして浅草3丁目に移転し、規模を大幅に縮小、割烹「草津亭」として、15年10月に新装開店した。客席数20名(カウンター8名、座敷12名)、料理(税別)昼2800円~、夜7500円~、芸者衆の玉代23000円(税込)で再スタートしたが、18年10月に破産した。
浅草で創業して72年の鮒忠が「草津亭」の事業を受け継いだ。鮒忠は最初の段階では「草津亭」の割烹店事業と惣菜、弁当などの事業を、自社の「お弁当・ケータリングサービス事業部」で受け継ぎ、相乗効果を発揮させる。将来的には「草津亭」業態を多面的に展開、「上場させる事業に育てたい」と意気込んでいる。
鮒忠副社長の安孫子由実氏に直撃インタビュー
多店舗化を推進する大衆路線と一線を画し、高級路線の専門店化に活路を拓く!
【安孫子由実氏 略歴】
東京都中野区生まれ。鮒忠2代目社長・根本修司の長女。大妻女子短期大学卒業、東京ニュース通信社入社。結婚を機に、1996年鮒忠入社、01年常務取締役、10年副社長に就任、現在に至る。
――鮒忠は70年代から80年代にかけて経営的にはピークを迎え、その後FC加盟店が離脱するなど、経営的には規模を縮小してきたと思いますが、何か理由があったのですか。
安孫子――はい。祖父(根本忠雄)は東北からの集団就職で上京してくる中学卒業生などを雇い、育成し、のれん分けで独立開業させるなど、のびのびと働ける環境づくりに努めました。わたしが子供の頃は『日経流通新聞』(現日経MJ)の飲食業ランキングで5位とか6位の時代で、大きな会社なんだと思ったことがあります。祖父は自分が米屋として独立する時、丁稚奉公で非常に苦労した経験があったせいか、社員の独立には寛大でした。当初は破格の条件を打ち出しのれん分けで独立させ、その後FC方式を導入し急速に店舗展開しました。祖父には「人材も育たないのに経営規模を急拡大させすぎた」という反省があったようです。80年に社長を父の修司に引き継いだ時には、「経営規模は縮小しても構わない、安定成長が大切だ」と伝えたということです。
――何か当時のことでエピソードはありませんか。
安孫子――はい。祖父がこんなことを言ったのを覚えています。
「業界の会合などに出席しているとよく分かるのだけれど、居酒屋や飲食店の経営は競争が激しく、変化のスピードが非常に激しい。だから親子で経営の考え方が異なり、喧嘩するケースが多い。これに反し、卸売業の場合は経営環境や変化のスピードは遅く、何代にもわたって経営を続けているところが多い。そのせいか親子で言い争うようなことは無く、仲がよい」
祖父は居酒屋や飲食店の経営は経営環境の変化や栄枯盛衰が激しいので、卸売事業に力を入れ、経営の安定化を図ったのだと思います。
――現在、COOの安孫子節人氏との結婚を機に96年に鮒忠に入社されたのですが、どんな感想を持たれましたか。
安孫子――ええ。いずれ鮒忠に入って仕事をするようになるだろうと考えていたので抵抗はなかったですね。当時は2代目社長の父の修司が元気な時で活気がありました。
わたしが鮒忠に入って一番違和感を持ったのは、創業以来50年以上続く企業文化でした。調理師などの思考パターンが、「創業以来の薄利多売を守る。焼き鳥など料理のボリュームは大きくする。大衆向けに味付けは濃いめにする」という考えに凝り固まっていたのです。それは祖父が創業した昭和20年代は食糧難で、「バナナは超高級品」であり、一般の人が簡単に買えない時代でした。また、砂糖や甘味が貴重品で手に入らず、「甘いケーキ」に飢えていた時代です。しかしわたしが鮒忠に入社した96年当時、ロッテのシュガーレスチョコレートがヒットする時代でした。時代環境が変化し、消費者の嗜好も代わって来ているのに、鮒忠の従業員は対応できていなかったのです。わたしは鮒忠のメニュー改革から始めました。
――鮒忠というのは焼き鳥を主力食材にしているということでは大衆的居酒屋であり、ウナギを提供していることでは高級飲食店ですが、実際はどうだったのですか。
安孫子――父の修司は「食い物屋は手づくり、作り立てを提供しないと価値がない」とよく言っていました。鮒忠の強さは調理師を育てて来たことです。ウナギや焼き鳥を炭火で焼く専門店として、一般的な外食チェーン店とは一線を画して来ました。鮒忠は例えば郊外型大型店の松戸店では、上質な和食店として評価され、親子3世代のお客さまが常連客として通って来られるような店でした。客単価も5000円以上の専門店だったのです。祖父の考案した「ひな鳥の丸蒸し焼き」にしても高級料理だったのですが、祖父の薄利多売商法もあって、破格値で提供して来ました。そのため、わたしが鮒忠に入った頃には大衆料理屋と見られ、客単価も3000円を割り込むようになっていたのです。
わたしは01年に常務取締役に就任しました。就任して最大の仕事が20年営業していた鮒忠の銀座コリドー街店(約200坪)の閉店でした。銀座に足場を持っていることが鮒忠の誇りでもあったわけですが、周辺環境の変化もあり閉めざるを得なかったのです。代わって、ゆりかもめの国際展示場正面前の有明TFTビルにテナントとして出店しました。06年には秋葉原UDXビルに出店、新しい鮒忠づくりに挑戦したのです。
――父で2代目社長の修司さんが05年に65歳の若さで急逝、3代目社長に弟の根本修さんが就かれ、安孫子さんの役割も重くなりましたね。10年には副社長に就かれ、鮒忠の銀座への再出店の陣頭指揮を執りました。
安孫子――はい。11年3月11日に発生した東日本大震災後の4月、銀座中央通りに「これは!」という居抜き物件を見つけました。小坂ビルにテナントとして入っていた築地玉寿司の浜焼き業態が撤退するというのです。小坂ビルのオーナーは父の修司の時代から旧知の仲だったので、わたしがオーナーと直接交渉し、出店を決めたのです。従来の鮒忠とは異なる高付加価値、高客単価でお客さまに喜んでいただける店を創りたいと必死でした。とりわけ銀座店では女性客を意識した美食同源のコンセプトを掲げ、ウナギ、焼き鳥に加え、「野菜」を3本目の基幹メニューにし、手間暇かけても上質な料理にすることを心がけました。ランチが2000円、ディナーが4000円~1万円としたのです。
内外装を一新し、11年11月に新生「鮒忠」をオープンしました。ところが小坂ビルは飲食ビルではなく、一般の小売店も入居する雑居ビルです。お店は空中階の5階なので、看板が頼りなのですが、肝心のスペースが小さくて全く目立ちません。銀座の中央通りであり昼など通行人がごった返すのに看板に気づいてエレベーターで5階まで上がって来る人は全くいませんでした。
とにかく「やりたい一心」で「必ずできるはずだ」と始めたお店です。絶対に成功させなければならないと、店長やスタッフと毎日打ち合わせし、集客に努めました。わたしが重視したのはSNSの情報発信による毎月2回(ランチとディナー1回ずつ)のイベントでした。最初は短大時代の友人に声をかけて無理して来てもらったり、集まった人数がたとえ2~3人ででも気にせずに続けました。しかしどう頑張っても客数は伸びず、開店して2年目にはもう撤退するしかないという絶体絶命のピンチに襲われました。
この時はさすがに私の責任において、閉店する覚悟をしました。ところが、3年目の14年に入ると流れが変わり始めました。SNSを見てインバウンド(訪日外国人)のお客さまがランチに訪れるようになったのです。また、ディナーには企業の接待や地方のお客さまから予約が入るようになりました。これはもしかしたらお客さまが来られる前触れかもしれないと、予感がしました。それから数日してインバウンドのお客さまでランチが満席(36席)になり、行列ができる騒ぎになりました。そして、引き続き、その日のディナーも満席になったのです。「これは夢か!」と初めての経験に感動しました。
鮒忠銀座店が成功したのは本部の銀座店担当者と店長が「何がなんでも成功させる」という固い決意で粘り強く取り組んだことです。また、お店の「ロゴ」「内装」、そして「器」なども少しずつ変えて「正当な和風」「和モダン」というコンセプトを強く打ち出しました。料理では「ウナギの蒲焼き」を4分の1にした小ウナ重を投入、これが人気化しました。
鮒忠銀座店が初めて昼・夜とも満席になった日から5年が経ちますが、お店は繁盛しています。鮒忠銀座店は「新・鮒忠」をアピールする旗艦店(フラッグシップ)に成長し、鮒忠の変化と進化のシンボルとなっています。
――鮒忠銀座店の成功が、浅草花川戸店(浅草松屋並び)のオープンにつながったのですね。
安孫子――はい。浅草花川戸店は祖父の代に直営だった店を、のれん分け制度で社員に譲ったものです。50年(昭和25年)ごろに開店しました。初代の後2代目が引き継いでやっていたのですが、16年にその2代目が死去しました。そうしたら親族の方が、「鮒忠の火を消したくないので直営でやりませんか」と声をかけてくれたのです。祖父が遺してくれた「信頼」という財産だったと思います。店舗は50年以上経っていたので耐震性などから取り壊し、建て替えました。
どんな店を開くか2年ほどかけて構想を練りました。そのヒントになったのが、父の修司が作家の池波正太郎先生の「正太郎会」という料理研究イベントを主宰していたことです。これを堀り下げて「浅草の粋」をテーマに店づくりを行ないました。店頭の吉原格子や水桶、提灯などは橘流寄席文字・江戸文字書家の橘右之吉氏監修で、江戸時代の店舗を再現しました。
また、メニュー開発では「金のうな重」「銀のうな丼」「赤のうなとりひつまぶし」を投入し、専門店の「老舗・鮒忠」を強調しました。3500円~10,000円の4コース、1500円で飲み放題コースをつけました。
――老舗とは単に守ることではなく革新だと言われます。鮒忠が老舗割烹・料亭の「草津亭」を買収したのも、「新生・鮒忠」誕生への革新的試みだと思います。今後の鮒忠の変化と進化を見守っていきたいと思います。本日は長時間、ありがとうございました。
(文中敬称略)
外食ジャーナリスト 中村芳平