飲食店・レストランの“トレンド”を配信するフードビジネスニュースサイト「フードスタジアム」

インタビュー

有限会社ジャックポットプランニング 代表取締役 中川洋氏


今年に入って6店舗出店と、精力的に展開を続ける、中川洋氏率いるジャックポットプランニング。今まで、人前に出ることをあまり好まなかった代表の中川氏が、“ジャックポット”1号店創業34年を迎え、今までの軌跡をフードスタジアムだけに語ってくれた。

17歳から飲食業界に入った、ジャックポットプランニング代表取締役中川洋氏。オイスターバーの「ジャックポット」や、和洋オリジナル料理「都夏」、イタリア料理の「ラ・ベファーナ」など、数々のヒット業態を生んで来た。共通項は、野菜を始めとした食材へのこだわり。今まで、そのシャイな性格から、あまりマスコミには登場して来なかった。今回はそんな代表・中川氏に余すことなく話を伺って、26店舗を展開するまでに至った、ジャックポットプランニングの軌跡を辿る。

――飲食業界に入ったきっかけを教えてください。

飲食業界に入ったのは17歳の時のことでした。16歳の時に母を失って、精神的なショックから、家にいたくない、いれないという衝動に駆られました。そこで、横浜のキャバレーで、ドアボーイとして働き始めました。長いすを二つ付けて寝泊りして、まかないを出してもらいながら、昼間は高校に通うといった生活でした。その時、キャバレーのホステスが、よくご飯に連れ出してくれていました。美味しい寿司屋や焼肉屋、レストラン店。「こんな美味しいものがあるんだ!」と、美味しい食事と初めて出会った瞬間でした。

nakagawa-hiroshi.jpg

――それから、飲食業界を志したのは、いつ頃のことですか。

横浜のキャバレーで働いた後、高校に通学しながら、寮に住み込みができる、自由が丘のパブレストランで働きだしました。そこで、皿洗いなど見習いをしていました。決して飲食業界に憧れがあったわけでも、好きだったわけでもない。でも、こうして洋食の世界に入り、コックという仕事が見えたきっかけとなりました。その店で、厨房や喫茶、バーの勉強をさせてもらいました。持ち前の負けず嫌いの性格で、「いい仕事をしたい」その一心でした。当時、飲食店もそんなに多くなかった時代、新しい店作りにも携わらせてもらいました。ちょうどその当時高度経済成長で、これから世の中が変わっていこうとする兆しを、こうして見ていました。

-でも、高校を中退してしまうんですね。

中卒のレッテルは、辛かった。その後、某ホテルに働いて、すぐ列車の食堂に配属されました。そこで、食事を作っていました。けど、下処理された食材を積み込んで、それを再調理して提供するという仕事に、納得がいかなかったんです。

-その後、高校を行きなおすために、どうされたんですか。

高校に行きなおしたい。けど、住む場所も、お金もありませんでした。そこで、18歳からまぐろ漁船に乗り込んで、南太平洋で遠洋漁業に出て、お金を貯めようとしました。そして、都立に再受験して働きながら高校へ通う日々。ようやく卒業した頃には、23歳になっていました。

-ご自分で店を持ったのは、いつ頃のことですか。

高校卒業と同時に、コックの先輩から、「キッチンくろんぼ」という洋食店を引き継いだのが、始まりです。洋食屋で、ビーフシチューやハンバーグ、グラタンを出していました。しかし、店をやって1年半が経とうとした頃、家主に、「おまえには、貸していない」と言われてしまいました。当時、又貸しという意味さえも知りませんでした。そして、資金を再調達して、「キッチンくろんぼ」を狛江に移しました。調理場と客席で、6.5坪の狭い店でした。店外営業として、出前も一生懸命しました。すると、出前が大ヒットしたんです。近くに、大きな企業や医大、都営団地があって、毎日たくさんの受注がありました。出前だけでも、毎日200食は出ていました。出前も、弁当ではなく、皿で提供することによって、客単価を維持していました。これを、スタッフ5人で回していたんです。

Jackpot.jpg

-「ジャックポット」の始まりは、いつに遡るんですか。

東京に出なきゃと思い立って、26歳で下北沢に「ジャックポット」を出しました。当時、下北沢にはいい店が何軒もあった。ロックしか掛けない軽食の喫茶店とか、サブカルチャーの宝庫でした。中学時代、放送部員を務めていたこともあって、ラジオをよく聴いて、フォークソングが好きだったんです。そこで、アメリカの新しい音楽を取り入れた店にしました。ここも、8.3坪の小さな店。今は増床して、2倍の大きさになっています。当時、六本木のディスコが流行りだした頃。人より早く店を開けて、人より遅くまで営業していました。毎日が忙しくて、寝る間もないのは当たり前。かつて下北沢は、個性的な若者が集まる、主義主張のある街。役者やミュージシャンを志す若者が、いっぱい来て、応援してくれていました。そんな常連さんが多い店。今でも、付き合いのある方もいますよ。

-「ジャックポット」は、どんな店にしたんですか。

午前10時オープンで、午前2時クローズ。お茶だけでも、食事だけでも、飲むだけでも利用できる、女性が安心して飲み食いできる店にしました。食材にはこだわりました。ハムやソーセージは、防腐剤や結着剤を入れず、手作りにこだわりました。伯父が築地の場外で精肉店を営み、ハム・ソーセージの製造をしていたこともあって、肉の調達や加工技術などを勉強させてもらいました。

kaminariya.jpg

-では、食材へのこだわりは、その頃からだったんですね。

30年ほど前から、安全な野菜を始めとして、納得したものを提供したいと、意識するようになりました。35年前には、洋野菜が出回ってなかったので、自分の畑で作ることを考えました。3店舗目のビストロ「ゴージェ・ジャックポット」を開業した時に、八ヶ岳で畑を持ったこともありました。しかし、物流コストが高かったり、天候に左右されたりと、長くは続きませんでした。今は、狛江や三鷹等の契約農家から仕入れています。

インタビュー一覧トップへ

Uber Eats レストランパートナー募集
Copyright © 2014 FOOD STADIUM INC. All Rights Reserved.