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ビール業界に精通する経済ジャーナリスト・永井隆の書き下ろしシリーズ企画第三弾!”ビール営業物語”【第2回】サッポロビール東京中央支店・竹内利英の仙台、銀座攻防戦


バイトと練習、麻雀に明け暮れた軟式野球部員の『されどわれらが日々』

 青山学院時代に体育会軟式野球部に所属していた竹内利英は、“眠らない夜”を何度も過ごすほど多忙を極めていた。部活動、中学生への指導、飲食店でのバイト、そして勉強と身体がいくつあっても足りなかった。
軟式野球部は、硬式の東都大学リーグと同じ大学で構成されるリーグに所属。ただし、プロ野球選手を多数輩出する強豪の硬式とは異なり、大学からの支援は薄く、何事につけても学生の自主運営に委ねられていた。例えば、「今春シーズンの球場の確保は駒沢さんに。審判団の手配は青学さんにお願いします」、といった形である。ちなみに、使用する球場は神宮ではない。多摩市の一本杉球場、町田市民球場、相模原球場など。
竹内のポジションはサードかファーストだった。が、「主にベンチのセンターにいました」と笑う。
公式戦の試合後は、勝っても負けても反省会がもたれた。OBも入り、一つひとつのプレーを再検証する。「あのときは、こうすべきだった」、「いや、結果は出なかったがあれで正解だ」と、延々と議論を重ねる。終わる頃には終電もなく、部員たちは麻雀卓を囲む。徹マン(徹夜麻雀)で朝を迎え、竹内たちはそのまま授業に出るのだった。
授業が終わると厳しい練習があり、夜は飲食店でバイトという流れ。若いからできた生活だったろう。しかし、こうした体育会に所属しての4年間が、竹内をタフな男にしていく。
「小学校の先生になりたい」という希望ももっていた竹内が、サッポロビールを就職先に選んだ理由の一つは“ビールの味”だった。
バイト先の飲食店は最初、スーパドライを供していたが、やがて一番搾りに切り替わる。20歳を過ぎてこの2つのメガブランドを飲むが、どちらも味が飽きてしまう。一方、バイト先の系列店は、サッポロの生ビールを供していた。時々だが、手伝いで系列店でも働き、そのときにサッポロを試してみた。するとどうだろう。竹内は美味しく感じたのだ。しかも、飽きが来ない。
ただし、なぜ美味しいのかは、竹内の感覚でしかなかった。就活の中で、サッポロは大麦とやホップの生産農家と協働契約栽培を結んでいて、原料や農地からこだわっていたのを知る。生産農家は世界中に及び、麦とホップの100%が契約農家で栽培されている。
米オレゴン州などのクラフトビールを除けば、世界のビール大手で原料の調達先をすべて把握しているのは、おそらくサッポロだけだろう。
竹内は「好きなことを仕事にしたい」と考えた。自分の好きなことは食べることであり、食品会社を就職希望先に選ぶ。ただし、それ以上は絞らずに、ビールならばサッポロ、菓子ならばカルビー、醤油ならばキッコーマンと、自分がこれは美味しいと感じた商品をつくる会社を選んでいった。

サッポロは明るい人が多い

 会社訪問をして面接を受けるうち、「サッポロの社員は明るい人ばかりだ」と竹内は感じる。気がつけば、06年の4月第1週にはサッポロから内定を得ていた。
「もともと私は、いろいろな人と話をするのが好きなんです。就活も、各社の多くの人と話ができて楽しかった。ビール営業は、いろいろな方と話ができて、楽しいのですよ」
07年に入社したときの同期は、工場関係などを含めて43人。このうち事務系は30人ほどで、さらに営業職は約20人だった。仙台、福岡、札幌を配属先として希望を人事部に出し、結果として仙台に赴任。前回のような経験を積みながら、3年間を仙台支店で働く。
「宮城県は大好きなんです。仕事を覚えたこともあり、私にとっては第二の故郷です」
大震災が発生するほぼ1年前に当たる10年4月、竹内は東京に異動する。首都圏本部東京統括支社東京中央支店。この長い名前が、新しい勤務先となる。具体的には中央区エリアの業務用担当だった。サッポロの地盤でもある銀座を抱えた重要なエリアだが、ここで竹内は新たな困難にも直面していく。
その困難を正面から乗り越えることで、またひとつ営業マンは成長していく。だが、いろいろなことはやはり起こる。
「前任者が大切にしていたお店に、私が自分で心の壁をつくってしまったのです…」

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